魂の眠る場所3

     (二)


 一度閉じた意識が開いてから、どれほどの時間が経っただろう。目覚めてからずっと倒懸に苛まれている。木造りの椅子から動けぬまま、爪先を失くした自身の両足を見下ろした。膏血にまみれた床に散らばる指が、エルガーの革靴に踏み潰された。


「そろそろ吐いたらどうかな。これ以上体が欠けていくのも嫌だろう?」


 髪を掴み上げられて顰蹙ひんしゅくする。両手首は椅子の後ろで拘束されており、魔力を込めて腕を動かしたところで手枷は壊せなかった。恐らく、魔女を繋ぐ為に頑丈に造られている拘束具なのだろう。


 酸痛のおかげで思考にかかっていた靄が晴れのいていく。この状況を打開するべく尋思する。


 俺を下瞰する彼に視線を返すことなく、室内を観察した。石の壁に覆われ、椅子と長机だけが置かれた部屋。机上には刃物や工具がちらばっており、頭上から注ぐ紅灯を受けて煌めいている。


 室内のモノで手枷の鎖を断ち切るのは恐らく不可能だ。エルガーは今のところ腕を狙う素振りを見せない。手首でも切り落としてくれれば助かるんだが、と潜考していれば、頬に衝撃が沈み込んだ。


 肌骨を歪めた拳に抗うことなく、髪を振り乱して彼に横顔を晒した。そのまま俯いていると、首筋に寒気が走る。黒目だけを動かして認めたのは、頸動脈に氷刃が宛がわれている様。


 前髪の隙間から彼を睇視する。狙いを定めるように切っ先が上下しているのを、肌で感じる。やがて彼の片手が耳に触れた。不快感に身を反らそうとした直後、痛みという熱が側頭部に走る。


「くッ……!」


「片方削ぎ落しても問題はないだろう? 質問は既にしてあるしな。口が利ければ充分だ」


 切刃が軟骨に沈んでいく。切り離されていく皮膚の音が頭蓋に響いてくる。激痛が脳を冷たく貫いて、体温が下がっていく。代わりに露出した創傷はひどく熱い。視界の隅で流れ落ちる血紅色は炎のようだった。


 耳にかけていた髪が零れて、目の前を遮る。足元で跳ねる水と金属の音。血に波紋を広げたのは、切断された耳と時計を模した髪飾りだ。振れる針を眺めていれば髪を引っ張られる。


「もう一度聞いておこうか。アテナ様の遺体はどこだ? もっと痛めつけられたいか?」


「……『アテナの遺体』なんて、俺は知らない」


 この男が探しているのはコーデリアの遺体だ、ということくらい分かっている。けれどもあの遺体は俺にとって大事な妹のものだ。彼女はアテナじゃない。彼女のかばねに血をあやすような真似など、絶対にさせない。


 俺から離れた手が、鈍色の髪状かんざしを散らした。ほどかれた編み込みが眼路に格子を描く。眼を隠していたそれは彼の手に払われた。


「なら、次はその目にしよう」


 エルガーの指が顎に絡みつく。持ち上げられた顔を覗き込まれる。さながら、人形職人がビスクドールの出来栄えを確かめるような手つきで、頬を滑る手。視線が絡む不快感から目を逸らしていれば、引き結んだ唇を彼の指になぞられた。


「綺麗な顔だとは思っていたが……よく見ればアテナ様と似ているな。その唇も、目鼻立ちも、あのお方そっくりだ」


「……少女の顔を眺める趣味でもあったのか? 気持ち悪いな」


 恍惚に似たエルガーの莞然が歪んでいく。彼は机上から何かを取ると、銀光を散らした。眩しいほどの光は、水晶体が映す情景を白で満たした。


「っぁ、ぐ……!」


 銀食器を思わせる器具が眼窩を目指して沈んでいく。頭部を押さえつけられ顔を逸らすことすら出来ない。器具が奥へ沈むたびに、押し殺せなかった息が溢れる。


 眼球を繋いでいる組織がぶちぶちと引き千切られる感覚。下唇をきつく噛み締める。


 頭蓋の内側を撫でるような、皮下を直接こするような怖気立つ感触と、幾本もの繋がりを全て引き千切られた感触が同時に眼窩を侵し、痛みに瞼を閉ざした時、理解する。閉目出来る、ということは、刺し込まれていた器具は眼球と共に抜かれたのだろう。


 乱れた呼気を押さえ込んで平静を装うことは、出来ない。声帯を震わせないのがせめてもの抵抗だった。


「は……っ、……はぁ……っ……」


「良い目だ。やはりアテナ様のものと同じ色をしている」


 剔抉てっけつした俺の目を室内光に当てるよう持ち上げ、満足げに笑うエルガー。眼球には削がれた肉も付着しており、そこから血が滴る。彼が眼球を舐めたものだから背筋がぞっとした。嫌悪感と痛楚に唇を閉ざす。彼は俺の目を硝子製の容器に入れていた。それを机に置くと、歪んだ微笑みを向けてくる。


「アテナ様は魂の移植が可能だと教えてくださった。つまり『あのアテナ様』は君の身内だったのかな? 大事な身内の亡骸だから、私に教えたくないと……なるほど。合点がいったよ。となると埋葬されているのだろうな。どこの墓地だ? 肉体が朽ちる前にアテナ様の魂を移植しないといけなくてね」


「……『彼女』を、アテナなんて呼ぶな」


 炯眼を突き付ける。眠る彼女を身勝手に引き起こそうとする彼に苛立ちが溢れて堪らない。身内の墓を掘り起こされ、その遺体をふざけた儀式に使われるなど、考えただけで瞋恚しんいが込み上げてくる。


 唸り声を意に介すことなく、エルガーは大身のナイフを振り上げた。右太腿を貫き、椅子まで軋ませた寸鉄。その柄を捻りながら彼は囁く。


「魂の移植が済んだらちゃんと元通り埋葬してやる。それなら構わないだろう?」


「ふ、ざけるな……」


「埒があかないな。これ以上君が口を割らないなら、君と一緒にいた少女を探し出して拷問した方が早そうだ」


 彼の後方で、鉄扉が甲高い音を立てて開いた。派手なドレスを纏った女がハイヒールを鳴らして歩いてくる。


 エルガーは俺の足から刀鋩を引き抜いて、女を振り仰いでいた。女の朱唇が弓形にしなる。


「自分が拷問するって言った割には手際が悪いわねぇ、もういいでしょ?」


「もういいって、まさか君がやりたいのか? いくら痛め付けても全く吐かないんだ。君がやっても同じことだよ」


「私はそんな野蛮なことしないわよ。あーあー、綺麗な顔が台無し。可哀想ねぇ」


 刺されたばかりの太腿に女の白皙が絡みつく。彼女の吐息が鼻先に触れた。彼女は自身の影に俺を収めたまま、両手を伸ばして来た。頬を包み込む、女の手。それがあの女アテナと重なって総毛立つ。


「っ触るな──」


 放った声は、女の口腔に呑まれていた。


 唇が重ねられ、瞬刻のあいだ息を忘れた。女の舌が口内で蠢いて、悍ましさに肩が跳ねる。女は両手で俺を押さえつけたまま、唾液の音を伴って歯列をなぞる。柔らかな舌の感触に、固く小さなモノが混ざったのを感じた。


 女の行動を理解する。彼女はソレを呑ませたいのだ。


 彼女の舌を噛み切ろうとした。けれど、噛み合わせるべく力を込めた歯は、寒気と共に浮いて脱力する。歯茎を伝う彼女の舌。上顎や舌の筋を滑る不快感。それを味わうたびに鳥肌が立ち、力が入らない。


「リズ、遊んでる場合じゃないんだよ。彼と一緒にいた少女は見つからなかったのか?」


 エルガーの呆れ声を受けても女は離れていかなかった。女が俺の頭を動かす。首の皮膚がたわまぬほど、高く顎を持ち上げられて、喉に固形物が落ちてくる。女の舌が上顎を舐め上げ、息を呑んだ瞬間、固形物は気道へ転がり込んだ。


「──ッ、げほ……っ……!」


「っふふ。遊んでないわよ。サポートしてあげてるの。それに女の子の方はもう探さなくてもいいんじゃない? 情報は十分集まったでしょう?」


 嚥下してしまったものは吐き出せない。とはいえ毒だとしても、彼らの目的からして俺を殺すようなものではないだろう。それでも体内に落ちていく異物感は不快で、噎せながらも怨声を吐き捨てた。


「お前、なにを……」


「気持ちよかったかしら? 私は良かったわ。もしかしてキスは初めて? もう一回してあげましょうか?」


「近付くな。俺に、何を飲ませた」


「あら、つれない子。ただの麻薬だから大丈夫よ。頭が冴えて、ちゃんと受け答え出来るようになるはず」


 呼吸を整えている俺の喉頸に女の指が這う。鎖骨まで下ったそれはネクタイに引っ掛けられた。衣擦れの音を立ててそれを解くと、彼女の手は俺の腰に伸びる。ベルトを外しながら彼女は艶笑した。


「エルガー、武器になりそうなものは全部取ってあげなきゃダメでしょう?」


「それより、情報は十分ってどういうことだ? まだ聞き出せていないんだよ」


「話は聞いてたわ。この子、アテナ様と血が繋がっているのよね。墓を探すなんて簡単よ。だってあなた、彼に聞いていたじゃない」


 女が彼に凭れてささめく。その言葉は聞こえない。彼らが分かっているのは、俺と捜し人が血縁関係にあることくらいだろう。埋葬されていることまで分かったところで、墓地や墓を探すにも名前が──。


 回思して歯を噛み締めた。エルガーが魔女と無関係の警察だと信じていた時、俺は名字まで口にしている。あの女はそれを聞いて覚えていたみたいだ。


 墓が荒らされる前に、こいつらを倒さなければならない。両手首の梏桎こくしつを解く術はたった一つ浮かんでいる。然れどそれを実行するべく、上手くエルガーを誘導出来るかが問題だった。

 

「済まないね、騒がしい女で。さて、続きをしようかエドウィンくん。といっても、君が何も言わなくてもいずれリズが墓の在処を見つけるだろうが……今すぐ言ってくれれば探す手間も省ける。アテナ様の魂が天に還ってしまう前に、早ければ早い方がいい」


 彼は机上の器具を漁って涼やかな璆鏘きゅうそうを奏でる。片方だけの目界で伺察していれば、何かを手にした彼が俺に近付いた。


 顎骨を砕く勢いで頬を押さえる彼の手。俺に上下の歯を合わせることすら許さぬまま、彼はもう一方の手を口腔へと伸ばした。


「言わないのなら、マトモに喋れなくなるかもしれないよ」


「は──、ッ……!」


 強引に引き出された舌を穿孔した刃。太い針か何かだろうか、反射的に身を引いたせいで刳りなされた箇所から僅かに舌が裂け、穴と痛みが広がった。彼は針を抜かない。弄ぶように針を動かし、血を溢れさせる。喘鳴を漏らして俯き続ける俺の耳朶に、嘲笑が吹きかかった。


「君も舌が裂けるのは嫌だろう?」


「っ、……」


「君が観念するなら抜いてやるが、まだだんまりを決め込むか? そうやって犬みたいに唾液を零し続ける姿を、私に嗤われるのは屈辱じゃないのかい?」


 通徹した針は痛覚を麻痺させていく。痛い、ということすら分からなくなっていくのは好都合だった。額から落ちる冷汗に眉を顰め、泰然と思考を巡らせる。


 必要なのは油断と隙だ。それを生じさせるためには、彼を満足させてやるのが手っ取り早い。けれどすぐに折れて吐露すれば疑懼ぎくが生じる。吐き出す時機は見極めなければならなかった。


 そして、それは今だろう。


 燭火を吹き消すように、全身に伝えていた魔力を解いた。元来動かない体躯は脆弱な傀儡かいらいでしかない。肩を揺らし、乱れた呼気を溢れさせる。


 倒れ込みそうに項垂れた頭は彼の手に引き上げられた。こちらの髪を引っ張ったまま、彼は冷笑していた。


 かち合う眼差しに殺意は込めない。ただ虚ろに、緘黙したまま見返した。


「頷くか首を左右に振れ。首は動くはずだ。針を抜いて欲しいか?」


 幽かに、吐息としか言い様のない相槌を返す。一気に引き抜かれた針に悲鳴を吐出して俯伏した。落とした焦点は猩紅を泳ぎ、彼の革靴を捉えて留まった。


「……遺体の、在処は……」


 舌が痺れ、口も動かしづらい。エルガーは俺が疲弊して大声を出せなくなっていると解したのか、俺に身を寄せる。


 泡が弾けるような血の音色。鮮血に赤黒い影が落ちる。彼の片足が宙に浮いた須臾しゅゆ──血塗れの足に魔力を注ぎ込み、彼の足首を蹴り払った。


「な……!」


 水音が響く。血と脂で滑った彼の体は傾き、床に倒れ込む。だがこれだけでは足りない。転がった彼に嘲謔を吐き捨てる。


「爪先を切り落としたところで、蹴られる可能性は考えなかったのか? あぁ、お前は殴ったり刺したり、『手を使うしか』能がないみたいだもんな」


「な、んだと……」


「いつまで血の海に頭を突っ込んでるんだ? 人の体液に触れるのがそんなに好きか、変態野郎」


 跳ね起きたエルガーの革靴が、力強く椅子を蹴った。殷々たる衝突音を伴って、右肩が椅子もろとも地面に打ち付けられる。彼の靴底が幾度も頭蓋を打つ中で、牙噛きかみながらも腕を動かした。


「ふざけるなよクソガキ……!」


 冷たい石の感触を表皮で確かめる。手が床に触れられる。それだけで十分だった。


 魔力を、片手の親指に注ぎ込んだ。床に押し付けて自ら骨を折る。そうして勢いよく、左手を枷から引き抜いた。


 打ち下ろされる彼の脛を掴んで振り払う。腕を薙いだ勢いのまま立ち上がり、バランスを崩している彼の横腹へ膝を沈める。肋骨を歪めた手応えに、力を緩めることなく蹴り飛ばした。


 彼は長机を押し倒して蹌踉する。落下したいくつもの器具が騒がしい金属音をおとなう。足元に転がるナイフを拾い上げれば、相対する彼は鉈を握りしめていた。


「その手枷は魔女でも外せないものなんだが、親指の骨を折ったのか。驚いたよ」


「無駄話はいい。黙って死ね」


 右手首に纏わりついたままの手枷は煩わしい。けれど動作に支障はないため、そのまま右腕を垂下させた。


 左手を構えて踏み込む。勁風けいふうが、髪を擦り鳴らした。

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