魂の眠る場所4

 眼前にあるのは見開かれた眸子。一秒にも満たない寸隙すんげきで詰めた距離に、エルガーが咄嗟に後退していた。突き出した機鋒で虚空を貫き、下げた片足に重心を委ねて横撃する。


 刃音が高らかに響いたのは一瞬。ぶつかり合った得物は弾かれると共に離れ、互いに追撃の構えに移る。空隙を切り、彼が逃れられぬよう切り詰める。


 胴を払って剣先を返し、次いで描くのは胸を切り上げる軌道。彼は裂かれる寸前で俊敏に躱していく。避けられ、空を切った勢いは緩めずに、引き寄せた柄を空いている手で突き除けた。


 押し飛ばした余力と魔力を纏着させた刃は彼の腕を切り裂く。切創は浅くないが深くもない。再度斬撃を繰り出すとともに、自身に引き付けた刃を回転させ、逆手に持ち替えた。


 彼我の間隔を踏み潰す。殴打するように切る。金属と空気の擦過音は鳴り止まない。沈黙を切り崩す。彼の衣服の繊維を、表皮を、切っ先で掠めていく。


 鉈は小刀より重い。そして大柄な彼の動作も俺より遅い。構え直すための時間は髪筋ほども与えない。


 白刃に反射する燭光を幾重にも散らして、切り苛む。腕、胴、喉。円を描くように彼の上体を攻める。自然と上半身の守りを固めていく彼の腕。彼は終わらない斬撃を背進して躱し、躱し、鉈で受け止めては急所を守る。


 低く踏み出して狙ったのは彼の足。胴を庇っていた彼は脚部の動作が遅れる。避けられないだろう。すれ違いざまに切り裂いた脹脛。血煙を散らして霜刃を振り抜くとともに振り返った。


 エルガーは足を切られてもよろめくことなく反撃に動いたらしい。頭上に振りかざされた鉈の刃。回避を間に合わせるために速度を上げた。


 床に転がる時計の音は聞こえない。だから唇の裏で時を数えた。


 カウントする。


 緩慢な時の中で、彼の武器は室内光を遮って蒼然たる影を落とす。彼が蹴り飛ばした拷問器具が余韻を響かせる。琅琅としたそれは長く鳴り渡り、未だ止まない。止ませない。


 通常一秒間に繰り出せる動作は多くとも二手。魔法を利用して捻じ込むイメージを固めたのは四手だ。


 カウントする。


 近付いた刃金。耳鳴りじみた金属音の余響は溶けていく。


 鉈を握る彼の腕を剽悍に掴み引き寄せた。その手首を貫いて突き上げ切断。跳ね上がった飛沫はまだ地を濡らさない。振り抜いた刃を引き戻す。構え直して振るった鋒鋩を彼の肘に沈めて前腕部を切り離した。


 時が進む。彼に胴を蹴り飛ばされて咄嗟に距離を取る。彼の片腕から溢流した血液が、赤々と床を染めていく様を眺めながら、深く息をした。


 彼は逆の手で鉈を掴み取ると快捷かいしょうに飛び出す。


 カウントする。


 肩を下げて彼の刺突を避ける。近接すると同時に胴を裂く。打擲ちょうちゃくする勢いで胸を貫き、素早く刃を抜いて首を落とす──その四手目に移る前に、刀身を彼の肋骨に沈めたまま、腕が固まった。


 彼が落とした鉈が鈍い音を鳴らす。慮外なほど彼の行動は早かった。吃驚と共に魔法を解いてしまった釁隙きんげき。その最中、左手首は異常な力で捻り上げられていた。身を引こうにも彼の手が離れない。


 同じ《拡張》の魔法を使う者。底上げされた腕力は容易に骨を圧壊する。


「く……っ」


 奥歯を噛み締めて蹶然けつぜんと地を蹴った。引き千切れていく手の痛みに顔を顰めながら着地。魔法で止血しつつ、足元に転がる鋏を執刀する。


 エルガーは俺の手を放り捨て、胸に刺さっていた寸鉄を引き抜いて構えていた。


「エドウィンくん、君の生命力は魔女みたいだな。君を魔女の実験体にするのも面白そうだ」


 不快な口舌に冷眼を向ける。掌中で鋏を回しながら握る感触を確かめた。ナイフの代用にするのなら逆手に握るのが扱いやすそうだった。


 不意に、メイと初めて出会った時、彼女が鋏を武器にして向かってきたことを思い出す。攻めては退避し、冷静な足取りで挑んできた彼女。


 ふ、と肩の力を抜いた。殺したいあまり、攻めることしか考えていなかった自分に苦り笑う。


 亡きコーデリアに手を伸ばされるのも、人を利用することしか考えていない言動も、心の底から吐き気がする。それでも冷静にならなければ殺せない。


 この男も魔法を使う者であり、意思のある人間であることを留心して、刃を構え直した。


 睨み合ったのは数拍の間。先に動いたのは彼。


 身を引いた。剣尖が睫毛を掠める。ナイフを振るう彼の腕、足さばき、呼吸の速さを注視しながら避ける。腕を振るうことなく、最小限の動作で全てを躱す。


 彼の刃先が衣服にさえ触れぬほど、悠悠と。空を切る感覚だけを与え続け、少しずつ避く距離を縮めていく。


 僅かに髪が切られて散る。眇たる痛みが赤い線として刻まれる。頬に、腕に、首に、少しずつ傷が生じていく。切り傷の増えていく俺を前にして、彼の太刀筋が乱れ始めていた。


 惑乱の原因として彼が抱いたのはきっと焦慮でも動揺でもない。防戦一方に転じている俺を仕留められる、という愚かしい謬見びゅうけん


 浅い踏み込みを深くして俺を穿つ好機。彼がそれを窺窬きゆしているのが感ぜられた。


 高らかに、彼の靴底が鳴った。繰り出されたのは突き。深手を負わせるのが目的だろう、その利刃は激しい風韻を糾って空無を潰した。矢庭に躱す。彼の腕をいなして素早く踏み込む。左に振るった剣鋩。反射的に身を引いた彼には当たらない。姿勢を低くすると共に、返した刃を右に振り抜く。大腿だいたいの肉を抉った感覚を握りしめて踵を引いた。


 深追いはしない。上体を反らす。反撃の刃が吐息を裂く。肌に至らない彼の連撃を後退して避ける。踵を鳴らす。後退。彼の剣先から焦りが滲んでいる。我武者羅に攻めてくる彼と一定の隔たりを保ったまま、血塗れの足を後ろへ引き続けた。


 赤い水たまりが互いの足付きを響かせる。滴の音が索索さくさくと耳朶を打った直後、身を屈めた。


 血痕を踏み散らした彼の跫音。頭上に突き出された彼の腕。突きの姿勢で中空に留まるナイフ。それが構え直される前に秒を数えた。


 彼が腕を引くまでの一弾指に捻じ込んだのは蹴り上げ。跳ね上がった彼の腕を見つめたまま、振り上げた足の勢いに任せて宙を舞う。そのまま後方に跳んで着地。血の海に滑らせた足は金属音を踏み潰す。俺は握っていた鋏を彼に投げつけ、足元の鉄塊を拾い上げた。


 投擲した鋏は彼の肩に突き刺さっていた。片腕しかない彼はそれを抜かず、ナイフの先をこちらに向けている。その面貌はひどく憤慨していた。彼の一挙手一投足を見逃さぬよう睨み据え、後目で自分が掴み上げたモノを窺った。


 装飾の施された小銃に眉を寄せる。弾が込められていない可能性もある。しかし確認している時間も、別の武器を探る暇もない。


 飛び掛かって来たエルガーを見上げて後背へ飛び退く。目の前に降り立った彼は俺に向けて素早く腕を振るっていた。痛撃は止まない。彼の腕は止まらない。連撃に乗せられているのは、こちらの肌を裂く程の浅い力。発砲する隙を与えたくないのだと推察した。


 躱しているうちに、背中に衝撃が走り息を呑んだ。壁にぶつかった俺を見下ろし、彼が嗤っていた。


 振り上げられたさい。舌を打って小銃の撃鉄を起こす。恐らく彼の方が早い。だからその流れを捻じ曲げる。


 一秒間を意識した。


 彼の鋭鋒が頭上にある。持ち上げた銃口が彼の足を捉える。まだだ。刃が双眸の高さまで落ちる。銃身は下方に傾いたまま。早く。


 自身を急かし、弾道を彼の心臓へ定めた。


 引き鉄を引こうとして──指先から力を緩める。


 灯光が、翻ったナイフに受け流されて光芒を散らしていた。俺の首を狙っていた小刀の軌道は変わっていた。彼の狙いは平明に分かる。銃口を突き付けている右腕。これを断ち切りたいのだろう。


 銃声は響かせない。右腕を後ろへ引いて左腕を前に出す。手首から先を失くした左前腕部。そこに魔力を注ぎ込んで彼へと突き出した。


 男のくぐもった悲鳴。泡が弾けるような流血の音柄ねがら。左腕を侵す熱。彼の脊椎まで貫いた腕に、重くのしかかってくる体重。


 エルガーの指先から滑り落ちた刃は甲高く、戛然かつぜんと幽寂を劈いていた。


「ぐっ、う……!」


 臓物を穿げ除かれた彼は、傷口と口腔から紅血を垂れ流す。服に沁みていく緋色の温度は不愉快だった。腕を捻ると彼が苦し気に呻き、彼の内臓が蠢いて俺の腕を圧迫する。


 魔力を搔き集めるために息を整える。その間、彼の怯え切った脈拍を片腕で感じていた。その心臓は正確な時間を刻まない。狂った律動を元通りにはさせない。


「……終わりだ」


 吐き捨てると共に、自身の口端から喀血が溢れる。魔力の消耗が激しい。血の味を噛み締め、目路を掩蔽していく白霧はくぶを理性で振り払う。この男の命を終わらせるべく、銃を持ち上げた。


 彼の胴を貫いたまま、その顎に銃口を突き付ける。


 見上げた形相は恟恟きょうきょうと震えていた。眼窩から落としそうなほど見開かれた瞳が、命乞いでもするかのように濡れ始めていた。やめろと言わんばかりに、彼は首を左右に振る。


 引き金にかけた指が、込み上げた怨憎で揺れ始める。


 魔女の実験体として壊されていく人々へ、研究員達こいつらは哂笑だけを返していたのだろう。零れる涙すら、嘲笑って血の中へ溶かしたのだろう。


 そんなお前らが、都合よく救われると思うな。


 筒音が、止まない呻き声を打ち消した。鼓膜にこびりついた余響が悲鳴なのか、銃声なのか、判断がつかなかった。


 伏せた瞳を上げてみると、紅雨が舞っている。顔を濡らしていく腥血に渋面を浮かべる。亡骸から腕を引き抜いて、倒れ込んできた体を払い除けた。


 前髪から零れ落ちる血が煩わしい。軽く額を拭い、血を払う。


 外耳道を侵す雑音に口元を押さえた。耳鳴りが激しくなればなるほど、喉奥から血の塊が這い上がってくるのを感じる。深く、深く息衝いて、魔力を取り込もうとした。


「っ……」


 それでも魔力が足りない。血も、足りない。だが、コーデリアの墓を探しに行ったあの女も殺さなければいけない。


 自身を叱咤して足を進ませた。けれど、気付けば猩々緋に身を委ねている。瞑目しそうになって瞼を持ち上げた。目の前にあったのは、洋紅色だ。


 転がった眼球が静かに佇んで、俺を諦視していた。まなこを収める透徹の容器は赤く染まっている。玻璃は薄らと室内を反射しており、抉られた虹彩を見つめるよりも瞭然と、鏡みたいに俺を映していた。


 薄く苦笑いをこぼして、力無く首を振る。


 俺と妹の共通点は、両親から受け継いだ髪色と、瞳の色だけだ。感情豊かで可憐な妹に比べて、俺はあまりにも、どこか異質で。自身と妹を重ねることなど、朧気な意識の中でも出来なかった。


 五感が沈淪していく中で、足音が聞こえた。血の味が滲むほど唇を噛み締め、目を覚ます。手放してしまっていた拳銃を拾い上げて立ち上がる。扉の向こう、廊下から確かに近付いてくる気配。あの女が戻ってきたのだと臆断し、壁に背を預けて待ち構えた。


 ドアノブが回る音。軋む開扉の響きに撃鉄を起こす。人影を視認すると共に引き金を引こうとすれば、その腕を闖入者に捻り上げられた。照準は逸らされ、銃声は壁へ突き刺さる。


「くっ……!」


「エドウィン落ち着いてくれ!? 私だよ!」


 目の前の敵を蹴り飛ばそうとして、聞き慣れた声に爪先を止めた。見上げた先にあったのは冷や汗を浮かべた温厚な顔。苦笑するマスターに瞠目を向けてから、彼の後ろを見遣れば、落ち着かない様子のユニスがいた。


「マスター、ユニスも……」


「助けに来て風穴を空けられそうになるとは思わなかったよ」


「エドウィンが無事でよかっ……」


 解放された腕を下ろしているとユニスが歩み寄ってくる。童顔は安堵を湛えて俺を見上げたが、漸次に蒼褪めていくものだから首を傾げてしまう。水浴び後の犬みたいに首を振ったかと思うと、ユニスはマスターに手枷を打ち付けていた。


「良くないです! 全然無事じゃないです! マスター早く治して!」


「分かっているよ! 治す為に欠損部位を集めるからちょっと待ってくれ!」


「ユニスとマスターだけか? メイは……」


「エドウィンはいいから休んでください! メイさんは派手な女と戦ってくれてますけど、メイさんだから大丈夫です!」


 メイが戦っているのなら加勢しに行きたい。そう思えど、貧血気味な体は上手く動かない。促されるまま床へ腰を下ろし、彼女の無事を祈って瞼を伏せた。

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