魂の眠る場所2

     (一)


 酒場の暖色の明かりは眠気を誘う。元々眠かったのもあって、僕はカウンターに側頭部を押し付け、瞼を閉じていた。オッサンがクリームを泡立てる音が、僕を眠りから引き上げてくれていた。


「エドウィン、まだですかね……?」


 僕の隣に座るユニスの声に、目を開ける。軫憂する横顔を認めて、僕も眉尻が下がっていく。彼が戻ってくるまでは起きていたかった。


 エドウィンに声を掛けた男性は警察で、何か事件があって事情聴取をするだけだろう、とオッサンが言っていた。列車の事件と関係しているのかもしれないし、僕達とは全然無関係の事件の話かもしれない。どちらにしろエドウィンが捕まるようなことはない、と信じたい。


 食器が涼やかに音を立てる。僕とユニスの前に置かれたのはミルフィーユだ。オッサンはユニスを安心させる為か、いつも通り朗笑していた。


「少ししたら戻ってくるさ。ミルフィーユを食べて元気を出すんだ」


「エドウィンのミルフィーユが食べたかったです」


「私のミルフィーユも美味しいから食べてね!?」


 二人のやりとりを横目に、僕はフォークを持ち上げてパイ生地に落とした。軽い音を立てて割れたパイが、柔らかなクリームの上で傾く。崩れてしまう前にフォークの上にのせて口腔へ運んだ。


 甘いクリームは舌触りが良くて、それに包まれている苺も芳甘な味わいだった。香ばしいパイが甘さを抑えてくれているから飽きることもない。二口目を口に含んで咀嚼していればオッサンが僕の正面に紅茶を置いてくれた。


「メイちゃんどうだい? 美味しい?」


「あ、うん。普通に美味しい」


「普通に、は喜んでいいのかな!?」


「オッサンみたいな変態でも美味しいものが作れるんだよなって、食べてるといつも思うよ」


 変態呼ばわりは気にしていないのか、ひたすら満面の笑みで僕を見てくるものだから目を逸らす。みずみずしい苺を頬張って、ユニスを瞥視した。彼女も『美味しい』と零しそうなほど欣喜しているのが目見から伝わって来る。それに微笑んでから最後の一口を呑み込み、オッサンに皿を渡した。


「ごちそうさま」


「おかわりはいるかい?」


「いいや。ユニスにあげて」


「そういえばメイさん、エドウィンの故郷で妹さんのことは何か分かったんですか? メイさんは妹さんに体を返したいって、言ってましたよね」


 ティーカップに指を引っ掛けて、僕はユニスの問いに数秒固まった。昨夜あまり眠れなかった理由は、そこにある。紅茶を一口飲み込み、心を沈着とさせていく。


 シャノンに体を返すことはきっと可能だ。シャノンがこの肉体で生きている限り、いつか返せる日は来る。彼女が彼女自身の肉体で生きていくことは正しいことで、そうなるべきなのだ。


 なのに強欲な僕が、僅少の拒否を滲ませていた。僕にとって大切な人達と、僕はこれからも過ごしたかった。隣でシャノンも笑っていてくれたらもっと幸せだ。けれど、僕かシャノン、どちらかしか自我を持てないのかもしれない。


 もし、肉体をシャノンに返す時が来て、僕はなんの悔いもなく体を明け渡せるか、日に日に分からなくなっていく。大切なものがシャノンだけだったのに、今は失いたくない存在を知ってしまった。


 考え出すと懊悩の渦が止まらなくなる。僕は回り出した脳を止めて、ユニスに頷いた。


「この体には僕の魂しかなくて、妹の魂はもう天に還ってしまったのかも、と思った時もあったけど、どうやら魔女の肉体には二つの魂が収まってるらしいんだ。だから、妹はこの体の中にいる。彼女が目覚めてくれれば、返せるんじゃないかなって、思うんだけど……」


「妹さんが表に出るようになっても、メイさんも魂が消えるわけではなく残るんですよね? 人格の解離、みたいな感じになるんでしょうか?」


「む、難しいことはよく分からないよ」


「とりあえず、メイさんの妹さんが亡くなっていないこと、妹さんが目覚めてもメイさんが消えるわけではないこと。この二つが分かって私は安心しました。だって、妹さんに肉体を返すのは良いことなのでしょうけど、私からしたらメイさんがいなくなるみたいで、寂しくて嫌ですもん」


 胸に銀燭が灯るみたいに、ユニスの言葉が僕を照らす。寂しい、と、僕も呟いた。そうして小さく頷く。僕を悩ませていたのは、寂しい、という感情なのだろう。けれどユニスの言う通り、僕が消えるわけではない。


 大丈夫、と自分を元気付け、紅茶を飲み干した。


「シャノンに体を返せるようになったら、シャノンにお願いして日替わりで体を使わせてもらおうかな」


「日替わりメイさん……ふふっ、面白いですね」


「今日は僕の日なのに、とかシャノンと喧嘩したりするかもね」


 考えてみたら、少しだけ明朗とした気持ちになっていく。寂しいことばかりではないと気付いて、胸を撫で下ろした。空っぽのティーカップを絵取る自身の影から目を逸らし、ソーサーを鳴らしてから離席する。


「僕、やっぱりエドウィンのところに行ってくるよ。心配だから」


「一人で大丈夫かい? まだ開店前だから私も付いて行こうか?」


「なら私も行きますよ。一人で留守番も嫌ですし」


「オッサンもユニスもまだミルフィーユ食べてるんだから、ゆっくり食べて。多分そろそろ話も終わってるだろうし僕だけで平気だよ」


 二人に背を向けて扉の方へ向かう。ナイフを持っていくべきか悩んだが、部屋に取りに行くのも面倒だし、魔女である僕ならば武器がなくても戦える。何事もないとは思うが、何かあっても対処できるはずだ。


 エドウィンが妙な事件に巻き込まれてなければ良いが、と思いながら扉を開けて、外に出ようとしたら見知らぬ女性とぶつかった。


「っすみません!」


「いえ、大丈夫よ。……貴方もしかして」


 質素なブラウスに灰緑色かいりょくしょくのスカート。落ち着いた雰囲気の女性に、僕は見覚えがない。女性は僕と目線を合わせるようにほんの少し前屈みになって、胡桃色の柳髪を耳にかけていた。


「メイちゃん、って子? 妹が、アビーがお世話になったって。アビーのこと知らないかしら」


 アビー、と反芻してすぐにハッとする。思い浮かんだ往時おうじで、幼い少女が泣いていた。人を魔女みたいにしてしまう薬物の事件。あの時、僕が妹と重ねてしまって、慰めたかった女の子だ。


 薬を飲まされたお姉さんに、片腕を折られてしまったアビー。そのお姉さんの名前もすぐに追思出来る。


「じゃあ、貴方がカレンさん!?」


「ええ。アビーからお礼の手紙を預かって、酒場の名前を聞いて、朝から探してたの。辿り着けてよかったわ。これ、よかったら受け取ってくれる?」


「手紙、嬉しいです……! カレンさんも無事でよかった!」


「ありがとう」


「えっと、よかったら、中でお茶でも……」


 言いかけて、エドウィンのもとに向かいたい爪先がぴたりと固まってしまう。カレンさんに貰った手紙を片手に握ったまま硬直していれば、彼女はにこりと笑って店内へと進んだ。どうやら手土産も持ってきてくれていたらしく、彼女はオッサンに会釈をして紙袋を渡していた。


「『酒場・化物退治』の方々にお世話になったと、母と妹から聞きました。これ、焼き菓子の詰め合わせです。よかったらどうぞ」


「化物退治の依頼をくれた方かな? ありがとう、お嬢さん。またいつでも頼っておくれ」


 オッサンとカレンさんが話している横で、ユニスは彼女をちらと見てから僅かに体を背けていた。やはり慣れていない他人は苦手なのだろう。焼き菓子には興味があるらしく、ミルフィーユを食べながらも紙袋を気にしているのが後頭部の動きだけでも分かって苦笑した。


 あとはオッサンに任せてエドウィンのもとへ向かおうとしたが、カレンさんの鶯舌おうぜつに足を縫い留められた。


「あの、黒い髪に赤い瞳の、綺麗な男の人……彼もここの方なんですよね? さっき見かけたのだけれど、なんだか心配で……」


「エドウィンのこと? エドウィン、どうしたの?」


 跫然とブーツを鳴らしてカレンさんに詰め寄る。彼女は吊り目気味の大きな瞳を瞠ってから僕を見下ろした。困り眉で微笑んで、それから言葉に迷っているみたいだった。視界の端でユニスとオッサンも色を正してカレンさんを見つめていた。


「彼、エドウィンさんっていうのね。さっき大柄な男に支えられて、酔い潰れたから家に送るって言われていたのだけど、様子が変で。男は警察の服を着ていたけれど娼婦みたいな女性も一緒だったし、なにか危ないことに巻き込まれてるんじゃない……?」


 自身の面貌が顰められていく。確かに警察の男性と話していたが、エドウィンは酒を飲まないし、女性もあの時いなかった。家に送る、というのもおかしい。それならばエドウィンはここに帰ってきているはずだ。


「エドウィンを支えてた男は、どこに向かったんです?」


 蕭条とした空気を攫ったのはユニスだった。銀器を鳴らした彼女は椅子から飛び降りてカレンさんを嘱目している。だんまりを決め込んでいた少女がいきなり喋ったからか、カレンさんから一瞬の動揺が見て取れた。彼女は細い指を顎に添え、首を左右に振っていた。


「わからないわ。路地の階段を上っていったけれど……警察を呼んだ方が良かったかしら……」


「お嬢さん、どこの路地だい?」


「えっと……ごめんなさい、この街に来たのは初めてで、あんまり覚えていないのだけれど……近くに香水屋さんがあったわ。改装したばかりなのか綺麗な外装で、身なりの良い女性が沢山出入りしていたから印象に残ってて。そのくらいしか分からないわね」


「その路地って、階段を上った先の通りを歩いて行ったら、魔女研究施設があるところですね」


 ユニスの指摘にオッサンの顔様が険を孕んでいく。カレンさんが言っているのは、僕が先生アテナと再会した、あの路地のことだ。思えば、エドウィンが警察に声を掛けられた場所もあのあたりだった。


「警察が魔女の研究員かもしれない……? もしそうなら、エドウィンじゃなくてメイちゃんを狙うんじゃ?」


「僕は腕の紐をケープで隠してたから、魔女だって分からなかったはずだ。でもなんでエドウィンを……」


 自分の体を抱くように指を滑らせる。ケープを脱いだ今は、肩が見えるように着崩したブラウスと、それを支えるベストの間から紐に触れることが出来た。赤い紐をなぞってから、一顧した洋紅色の眼差しが推考に結びつく。


「魔女の研究員が、アテナを探しているとしたら? エドウィンの髪と目の色で、アテナと関係があると思われて声を掛けられた可能性もあるんじゃ?」


「もしそうなら、エドウィンが連れて行かれたのは研究施設の可能性が高いです。マスター、助けに行きましょう」


「そうだね。もし魔女とあの警察が無関係だとしても、連れ込むのなら人気のない場所だ。そう考えて見ても、通りの端にあって庭も広く、研究施設だったあの屋敷に向かう可能性はある」


 真剣な外貌の彼が、カウンターの後ろにある机から拳銃とナイフを取り出して懐に収めていた。僕にもナイフを二本差し出すと、彼は両腕を持ち上げるユニスに手枷を嵌め直す。


 太腿のベルトにナイフを挿して踏み出した僕の前で、カレンさんが踵を鳴らした。


「私も、一緒に行っていいかしら」


 整った令色は少しばかりの慄然を滲ませていた。けれど同行したいという意思は真っ直ぐに僕を貫いて訴えかけてくる。彼女の背中の向こうで、オッサンが首を左右に振っているのが見えた。駄目だと言わなければならないのは、彼にそうされるまでもなく僕も分かっていた。


 せめて優しく、相好を崩して、僕は頭を振る。


「危ないので、カレンさんはここにいてください」


「でも、私、彼の力になりたいの。助けてもらったのに、私は彼を助けられないなんて……。確かに、魔女とか、研究とか、よく分からないけれど、私は彼に直接お礼がしたくて会いに来たのに……連れて行かれる時、引き止められなかった。呼び止めたら彼、私から顔を逸らして、抵抗するのもやめて男性に従ってたわ。やっぱり、引き止めるべきだったのに、私……!」


 橙の室内光が泡沫の形になって零れ落ちる。水膜をまとった両目を押ししおる彼女に、胸が痛んだ。助けたくて伸ばした手や、踏み出したい勇気が振りほどかれる切なさを、僕も知っている。だから、彼女の無力感を和らげたくて、温然と言葉を紡いだ。


「カレンさんのおかげで、僕達がエドウィンを助けに行けるんです。カレンさんがいなかったらすぐ助けにいくことすら出来なかったと思う。だから、ここにいて。エドウィンだって、貴方を巻き込まないように貴方から顔を逸らしたんだと思うから。貴方が危ない目に遭うのは、ダメだ」


 悔し気に紅唇を噛むカレンさんの腕を引っ張る。椅子に座らせて、「待っててください」と微笑んだ。


 扉の前で待っている二人に頷き、僕達は街衢がいくに進む。


 あの細逕さいけいを辿るのは何度になるだろう。晨風しんぷうではためいた紐の根で、皮膚が引き攣る。僅かな痛みと、祈りを握り込んで、強く扼腕した。


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