第三章
魂の眠る場所1
朝影に塗られた石畳を革靴で踏んでいく。荒れた村から駅のある街に戻り、列車に乗って
日が昇った街路は殷賑としている。店に客を呼び込む声、遊びに出かける子供の声、談話する通行人の声。音の絶えない道に対して、俺の故郷がどれほど寂び返っていたかを改めて思い知る。
食べ物が入った紙袋を左腕で抱え直し、右手に提げている鞄を持ち上げて、肩から落ちていたコートを直した。
鞄には血塗れのシャツと、穴の開いたトレンチコートが入っている。暗色の為あまり目立たないとはいえ、着替えた方がいいとマスターに言われ、先ほど服飾店で真新しい服に着替えていた。
見下ろしたコートは普段より丈が長く、サイズがやや大きかったな、と僅かに後悔してから顔を持ち上げる。前を歩くユニスの鼻歌は雑踏の中でもはっきり聞こえるほど大きかった。彼女の隣にいるメイも苦笑をしていた。
「ミルフィーユ~ミルフィーユ~!」
「ユニスは朝からご機嫌だね……」
「だって帰ったらエドウィンがミルフィーユ作ってくれるんですよ!? ミルフィーユですよ!? メイさんはなんでそんな静かなんです?」
「いや、眠くて……」
メイの言葉尻はあくびに呑まれる。長閑やかな二人に、マスターも俺の隣で微笑を零していた。
昨日の列車の事件について、時折通行人が話しているのが聞こえた。事実と推測が混ざった流言は俺達と無関係な内容で、少しだけ安心する。
乗客が暴れ、危険だと判断した乗務員が車両を切り離したのではないか、という話になって伝わっているらしい。横転した車両内で亡くなった少年が加害者で、魔女たる少年を庇ったあの男性は、少年を止めようとして自分も亡くなってしまったと解釈されたみたいだった。
大通りを歩いていると新聞を配っている男性がいて、列車の事件も記事になっているのだろうかと気になりはしたものの、瞥見しただけで手は伸ばさない。香水屋から出てきた貴婦人達の蘭麝に目を細め、彼女達の傍を通り過ぎた時、腕を引かれて足を止めた。
振り向いた先にいたのは、黒と銀の制服を纏った中年男性だ。制帽に影を落とされた目元が真っ直ぐに俺を見つめて、撓んだ。
「君、少し話せるかな? 警察だ」
鷹のような瞳がこちらを見下ろす。警察、という言葉に心臓が跳ねた。思いのほか、自身が罪人だという自覚があったみたいだ。糾問する眼差しがどの罪を暴こうとしているのか分からない。思えばこの手は汚れすぎている。
返事をしようと唇を開いたものの、返す言葉が浮かばないまま視線を交差させていたら、肩に手が置かれた。
異変に気付いたマスターが隣に立ち、俺に微笑んでから警察へ向き直っていた。
「話なら私が聞こうか。私は彼の親だからね。ってわけでエドウィンは──」
「いや、私が話を聞きたいのは彼だ」
警察の双眸は俺を射抜いたまま動かない。ふとマスターの背後へ目をやれば、不安げな面持ちで様子を窺っているメイとユニスがいた。
息を吐き、冷静になっていく。自若とした頭で、大丈夫だと自身に言い聞かせた。紙袋と鞄をマスターに差し出す。
「マスター。ユニスとメイと先に戻っててくれ。ユニスがミルフィーユを食べたがっていたから、作っておいてもらえるか」
何かを言いたげに、マスターの唇が声を伴わず動いていたが、彼は「わかった」と言って荷物を受け取った。メイとユニスに彼が何かを囁き、三人は遠ざかっていく。その後ろ姿はすぐ人混みに紛れた。
視線を戻せば、男性の手の平が差し出されていた。握手を求めるそれに、眉をひそめつつも手を伸ばして軽く握った。
「応じてくれてありがとう。私はカーティス・エルガー捜査官だ。君は?」
「エドウィンです」
「エドウィンくん。名字は?」
「……アッシュフィールド」
偽名を口にするわけにはいかない。無難に返していればすぐに解放されるだろう。
通行人とぶつかりかけ、道端では邪魔になると思い隘路へ足を進ませた。俺は小暗い細道に背を向けて、大通りの陽射しを浴びるエルガーを見据えた。彼は俺の後背を指さす。
「ここを上った先……イースト通りの奥にある、木々に囲まれた屋敷で遺体が発見された。その屋敷のことは分かるかな?」
「いえ」
返答をしつつこの街の地図を脳内で辿っていく。場所と特徴からしてそこはおそらく、俺が
エルガーの言っている遺体は、ユニスが仕留めてくれた男のものだろう。だとしても彼女の弾丸は魔力によるもので、ユニスが殺したという証拠は何も残っていないはずだ。
顔色を変えることなくエルガーの問いを待つ。彼は胸元から取り出した手帳をめくって続けた。
「現場には、被害者の男性の二十九センチの靴跡と、二十七センチの紳士靴の靴跡、それから二十一センチのブーツの靴跡が残されていてね。紳士靴を履いていたのは恐らく細身の男性、ブーツは小柄な少女だろう。それで、靴のサイズや特徴が当てはまる男女を探していたんだ」
ああ、と理解する。彼は、俺とユニスの背格好を見て声を掛けてきたのだ。
賑やかな
下手なことを言えないため苦笑するしかない。切り上げて立ち去るのは疑われやすい。平静に頷いてみせた。
「そうですか」
「エドウィンくん、靴のサイズは?」
「二十七です」
「だと思ったよ。さっきの女の子の靴のサイズは?」
「分かりません」
「そうか。もう一度聞くけど、あの屋敷に行ったことはあるかい?」
「いいえ」
緊張のせいか、彼の後ろを通り過ぎていく人々の跫音がやけに響いて聞こえた。自身の心音を誤魔化すようにさざめきへ耳を澄ませる。軽く瞼を下ろして息をしていると、エルガーが僅かに腰を屈めて俺に近付いた。些細な変化すら見逃さないと言わんばかりに、こちらの相貌を
「もう一つ聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「魔女について知っている?」
低声の余響が、冷たく心臓を押しつぶす。
どうにか容色を固めたまま、けれど、瞳孔が開いていくのを自覚していた。体温が下がっていくのが分かる。何故警察が魔女について知っているのか、それを思惟するよりもまず、失態としか言いようがない自身の反応をどう
けれど二の句を継げぬまま、繊月を象った彼の口元を見上げていた。
「君に会うまで二組ほど声をかけたんだがね。魔女に食いついたのは君が初めてだよ。ウォルトを殺してアテナ様を連れ去ったのは君だな?」
満足げに歪んだ彼の目元が皺を作る。魔女だけでなくアテナについても知っている、となると、この男は俺にとって敵だ。善良な市民の仮面をはぎ取って、彼を睨め掛けた。
「警察は、アテナを探しているのか」
「いや、警察では探していない。私は警察にも所属しているが、魔女を研究している組織の一員でもあってね」
「……そうか」
懐に手を伸ばす。けれど、武器を身に着けていないことに気付いて、無意味にコートの襟を引っ張った。
通行人から俺を覆い隠すように、直線上で影を落とす彼。本当に隠したいのはその手に握られている拳銃だろう。鉄の感触が剣状突起に沈んで胸骨を辿る。
「屋敷内には夥しい血痕とアテナ様の腕が残っていた。アテナ様が殺された可能性を考えたが遺体が見つからない。君はアテナ様をどこに隠した?」
「俺は知らない」
「それならさっきの女の子に聞いた方が早いかな」
「彼女に近付くな」
「穏便に済ませたかったんだけど、仕方ないね」
撃鉄を起こす音に魔力を突き動かす。拳銃を握る彼の腕を捻り上げようとした
「逃げようとしても無駄よ。少しずつ全身が痺れていって、吐き気と痙攣に襲われて抵抗なんて出来なくなるわ」
「……ッ!」
女を振り解いて距離を取る。空になった注射器が地面に落ちて割れていた。
首を押さえて肩で息をする。震える指先を握りしめて彼らを睥睨する。大通りを背にしたエルガーと、路地の先を塞ぐ女。上着も羽織らず赤いドレスだけを身に着けている女は、拳銃などの飛び道具を持っていないだろう。先に仕留めるべきはエルガーの方。
筋肉が痺れたところで、そもそも初めから動かない手足だ。魔法さえ使えれば問題ない。
鉄管の折れた音は高く響いた。傍にあった街灯を素早く叩き折り、それが地面に落ちる前に握って携えた。エルガーの影の中へ踏み入る。見上げた先にあったのは一驚。反射的に持ち上がった彼の腕が、搔き払った街灯と
打突が叶わぬまま取り落とした街灯は鈍い音を散らした。彼の手に首を掴み上げられ、壁に叩きつけられる。
「ぐ……ッ」
「街灯を折るなんて、《拡張》の魔法かな? 私もなんだよ」
「っ、……!」
頸骨が軋んでいく。視界が暗らかに染まり、ぼやけていく。酸素を求める唇からは呻き声が溢れていた。
震える手足に、上手く魔力が込められない。動け、と念じても魔法が使えなくなっていく。脳の伝達機能すら麻痺しているのだろうか。それでもここで倒れるわけにはいかなかった。
思考を一つに
彼の油断を、その骨を、一思いに圧砕した。
「くっ!?」
まだ、魔法を使える。雑念を払って集中すれば動ける。
俺から距離を取ったエルガーと、彼に駆け寄った女を虎視し──眼界は揺れた。小刻みに震える全身から力が抜けて頽れる。ひどく寒気がした。締め付けられる臓腑から胃液が込み上げてくる。焦点の合わない瞳で地面を見つめたまま、口元を押さえた。
「う、ぇ……ッ……! げほっ……!」
胃の内容物が指の隙間から零れ落ちていく。先程刺された薬のせいだろう、せり上がる嘔吐感が治まることはなく、吐けるものなどなくなっても胃液と唾液を吐出させられる。見えない手が、咽喉を潜って内臓を取り出そうとしているような、ひどい不快感が意識を朦朧とさせていた。
手の平で口を覆って俯いたまま、喘鳴だけを零すようになった頃、腕を引っ張られて立たされた。脱力した腕はそのままエルガーの肩に回され、体は無抵抗のまま彼に凭れる。
「立ち話もなんだからね、場所を変えて話そうか。リズ、屋敷に着いたら私の腕を治してくれるか」
「分かったわ」
「離、せ……」
「──あの!」
僅かに震えた、女性の高い声が響く。リズと呼ばれた女も、俺を支えるエルガーも、焦慮を滲ませて大通りの方へ目をやっていた。
力の入らない首を持ち上げる。どこかで聞いたような声だった。メイでもユニスでもない。
目映い朝陽を浴びた茶髪が、彼女の歩みに合わせて揺らぐ。蜂蜜色の諸目は震怖していた。彼らが危ない人間だということは感じ取っているのだろう。それでも意思の強い眼差しが俺を射抜く。
カレン・バーナーズ。
一時的に魔女となる薬を飲まされ、憂き音に沈んでいた女性。遭逢したあの日、暗然としていた目顔は、今やもう曇っていなかった。強張っているものの凛とした声が、路地の静寂に落ちる。
「その人、知り合いなんです。どうしたんですか?」
なぜ隣街に住む彼女がここに、と思議している場合ではなかった。彼女を巻き込むわけにはいかない。彼女に害が及ぶ前に二人の敵を仕留められるか、という自問に対する答えは否定しか出てこない。
唇を噛み締めて爪先を見下ろす。エルガーの柔和な声がカレンに返されていた。
「一緒に飲んでいたら潰れてしまってね、家まで送るんだ」
「こんな朝からお酒を? どこで? それに彼、嫌がって……」
「……頼む、早く、送ってくれ」
ささめきほどの掠れ声は届いたのだろう。頭上で微笑の吐息が聞こえて切歯した。奥歯を軋ませる力すら、次第に溶けていく。浅い呼吸を繰り返す中で、聴覚も遠のいていく。
「彼もこう言ってるし、すまないねお嬢さん」
靴音が鳴っていた。それが誰のものかは分からない。絡んだ睫毛をほどくことが出来ないまま、俺を引き摺る彼に身を委ねるしかなかった。
「今の子、逃がして良かったの? 連れていって痛めつけてあげたほうが、彼もアテナ様の遺体について話してくれたんじゃないかしら?」
「無関係な人間まで傷付けるのはあまり好きじゃなくてね。だからエドウィンくん、君も自分以外に被害が及ぶ前に、アテナ様の居場所を話してくれよ?」
煩わしい笑声に吐き気がした。
俺にとって大事な妹は、彼らにとって崇めるべき
死して尚、彼女は利用されなければならないのか。
雑音が鼓膜を支配していく。無意識の中に意識が
妹を穢そうとする者など──必ず殺してやる。
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