いつかの残香6

 魂の移植。アデライン・ファラーとノーマ・サットンの物語。


 それは童話のような、児童小説のような文章で綴られていた。いつも笑顔で明朗快活だけれど、病で動けなくなっていく少女アデライン。怪我をしてもすぐに治る体質で丈夫な体を持っているけれど、内気なせいで虐められている少女ノーマ。


 二人は友人だったわけでもなく、接点があったわけでもない。アデラインが本を読んだり、窓外そうがいを眺めたりするだけの時間が増えていく中で認めたのが、虐められているノーマだった。


 いじめっ子がいなくなった道端で、一人蹲るノーマに、アデラインは窓を開けて枕を投げた。ノーマを傷付ける硬いものでは駄目だったし、風に煽られてしまう軽いものでは彼女に届かなかったからだ。突然降ってきた枕を拾って頭上を見上げるノーマ。二人が顔を合わせたのはそれが最初だった。


 彼女を部屋に手招いたアデラインは、救急箱を貸してやってから他愛ない話を交わしていく。二人は話し相手になり、友達になった。


 その時のアデラインは弱弱しくも動くことが出来たが、次第に動けなくなっていく。ベッドから降りることさえなくなった頃、アデラインは自身の病について打ち明け、ノーマに言った。


『私、貴方の見ている世界を見てみたい』


 アデラインは弱り切った体で、動けないあいだ読み続けていた書物をノーマに見せた。そこには、人の魂を他の人間に移す術が書かれていたらしい。


『私の病はいずれ呼吸さえ出来なくなるものなの。この体が魂を手放す前に、貴方の中で生きてみたいと……そう願うことは許されないかしら』


 体は弱くとも元気に笑い続けていたアデラインが、悲懐を覗かせて披歴した願い。それを聞いたノーマが抱いたのは、彼女を救いたいという気持ちと、救われたいという気持ちだった。引っ込み思案なだけで虐められるようになったノーマは、暗い性格から親にまで見放されていた。だから親に愛され、暴力と無縁なアデラインが羨ましかった。


 友情と利害の一致によって、二人は小指を絡ませて約束を交わす。魂を捧げる誓いと、体を与える契りは、口約束だけで終わらない。


 アデラインは両親にも事情を話し、両親は快く承諾した。彼らはノーマを養子として迎えたいと、彼女の親にかけあった。愛情などなかったのだろう、ノーマはすぐにアデラインの家族として招かれた。


 魂の移植のためにノーマは昔の記録を参考にし、魔法陣を描いて術の準備をした。術にはアデラインの両親も協力した。


 アデラインとノーマは陣の中心に鎮座する。噛み切った唇を触れ合わせ、互いの血液を、そこに流れる魔力を、熱く溶かし合う。両親の歌うような言の葉が空気を満たして、目に見えない魔力は熱として現実に具象し、室内にあまねく流伝していった。


 歌が余韻となったとき、蔓延していた魔力の熱が爆ぜた。アデラインの体が倒れていく。両親がその脈拍を確かめると、アデラインは亡くなっていた。代わりにノーマが自身の体を見つめて生を確かめていた。暗然と俯いてばかりだったノーマは、生前のアデラインと同じ表情で晴れやかに一粲いっさんした。


 しかし、ノーマがアデラインになった、というわけでもなかった。アデラインは嫌っていた野菜を美味しいと言って食べるようになり、元々好きだった肉料理も嬉しそうに食べる。ノーマが嫌いだった茸はノーマの口に合わないのか、平然と口に入れてから顔を顰めていた。決して泣かなかったアデラインが小説を読んだだけで泣いたり、落ち込んだり。過保護な父親に対して生前はやや冷たかったが、ノーマの体になってからは父に懐いてさえいる。


 彼女はアデラインであり、ノーマでもあった。アデラインが好きなものはノーマの肉体が拒絶しない限り好きなまま。ノーマが好きなものは生前のアデラインが嫌っていても好きになっていった。煌びやかな服を着たがる時と、質素な服を着たがる時が同じくらいの頻度である。アデラインのような表情をすることもあれば、ノーマらしい表情をする時もある。


 両親は時折、彼女が独り言を言っているのを聞いていた。それはまるで、アデラインとノーマが二人で話しているかのような独り言だった。


 次第に両親は、彼女をアデラインとして接すればいいのか、ノーマとして接すればいいのか分からなくなり、彼女に新しい名前を授けることにした。


 アデラインとノーマはそうして、二人でたった一人の少女になった。


 けれど一人の少女の体は、二つの魂を抱え続けていられない。四季が一度巡る。少女が二度目の季節を見ることはなく、永い眠りについた。体が悪かったわけでも、事故でもない。ふ、と。萎れずに落ちる椿のように、その拍動は前触れもなく止まった。少女はアデラインのように微笑んで、ノーマのように涙を流して、棺に体を横たえた。


 同じ瞳で同じ世界を見つめた一年を、彼女たちは果てのない夢の中で何度も思い返すのだろう。


 僕は、最後のページを見つめたまま黙考していた。


 この物語の少女たちは、恐らく一つの肉体に二つの魂が宿っていた。魔女のように自我を失くすこともなく、二人が一人の存在として生きた記録を、両手でそっと閉じる。眼差しを左右にやってオッサンを見つける。彼は古そうな本に没頭していた。


「オッサン。この、魂の移植って本、読んだのか?」


「うん? ああ、以前読んだよ」


「これに出てくる少女は、魔女とは違うもの?」


「そうだね……魔女は二人の生命力や魔力、肉体が持っている情報や力まで一つにまとめるものだ。この物語だと魂だけを片方の体に移した感じだから、人間のままでいられたんじゃないかな」


 彼の言葉を頭の中でまとめて細思していく。


 魂を移植するだけなら、肉体は強化されることなく人並みの生命力しか持たない。自我を失うこともなく、二人の意識が消えることもなく、一つの器の中で二人がしかと共存できる。その代わり、人並みの肉体は二つの魂に耐えられずすぐに朽ちてしまう。


 アテナせんせいが物語った過去を追懐して照らし合わせた。双子が生まれたら片方を殺さなければならない環境で、先生のお姉さんがどちらも生かす術を案出しようとした。もし、彼女がこの物語を読んでいたのなら、なぜ魂の移植をせず、魔女を生み出すような魔法を作ってしまったのか。


 きっと、『二つの魂を入れても長く生きられる、人の枠を超えた肉体が必要だったから』。


 とすれば、魔女の肉体には、二つの魂が宿っている可能性が高い。成功作であるいもうとの体の中で、シャノンの魂も残っているのではないかという希望が電のように走り、指先が跳ねた。それは欣快と不安を同時に伝えてくる。


 僕は僕なのか。僕の気持ちは僕のものなのか。深く沈吟したら分からなくなりそうだった。


 食の好みはシャノンとあまり変わらなかったから、この肉体になってからの味覚の違いは分からない。女物の服に抵抗がないのも、シャノンの体だから似合うのは当然だしおかしくないだろうという気持ちからだ。魔女としての日々を送ったのは確かに僕で、エドウィン達のことを大切に思っているのも僕の衷情で。


 僕は。


 唾を呑み込もうとして、唇がひどく乾いていることに気が付いた。ひび割れた薄皮が裂けて血の味が滲む。吐く息は自覚できるほど震えていた。


 僕は、エドウィンが好きだ。ユニスも好きだけれど、彼は、特別だ。その特別は、どういうものなのだろう。


 それはけだしく、僕の五感を通してシャノンが抱えてしまった──恋情なのではないか?


 至った解を冷静に振り払おうとする。臆説でしかない。それに、シャノンが生きているのなら、それは心憂がることではない。


 もう一度ページを捲って、魔女についておもいみる。目を落とした一行に眉を寄せた。胸宇に生じた疑氷が、惑乱していた僕を落ち着かせていった。


「オッサン、この本に書いてある『魂の移植のために昔の記録を参考にし、魔法陣を描いて術の準備をした』だけど、昔の記録ってことは、コレよりも昔の本に魂の移植の魔法陣が描かれているってことだよね。それって魔女にも繋がるものなんじゃないか?」


「そう思って私も古そうな書物を捲っていたんだが、これじゃないかな」


 差し出された本はかなり古そうだった。黄ばんだ表紙やページが、褪せた日々の香りを纏っている。背表紙の端の方はたわんで、歪んだ紙を覗かせていた。灯光を浴びて鱗粉のように散っていくのが埃なのか、はたまた崩れた紙の砕粉なのかは分からない。本の表面を軽く払ってから文字をなぞった。


「これは……歴史書?」


「神話に近いかもしれない。メイちゃんには話してないかな? 昔の人は誰もが魔法について知っていた。けれど人々が魔法によって争いをしたものだから、神が魔法についての記憶を人々から奪った。エドウィンの一族だけは魔法の記憶を残され、魔法の管理を任された……っていう話」


「それは、ユニスから聞いたかも。神様が魔法の種を人間に植え付けた、って。その種が血液型を四種類に分けた、みたいな……。神様も魔法の種を取り除けないから、記憶だけを奪うしかなかった、って話だっけ?」


「そんな感じだね。詳しいことはその本に書いてあるが……。つまり、人々にとって魔法が日常だった、古の時代の話さ」


 幾年もの日射しが焼き付いた紙を、そっと指で摘んで、僕は文字を追いかけた。それは、空想じみた在りし日の記録。


 神は人々の暮らしを見守る中で、彼らに力を与えようと考えた。感情を持つ人々が、無力さゆえに苦悩し、争う。そんな姿を哀れに思ったからだ。神は自分の力の半分を小さな種にして、人々の心臓に一つずつ植え付けた。魔力の種は各々の血の性質を変化させ、それぞれ異なった魔法を扱える、四種類の血液が作り出された。


 だが、力を手にした人間は優劣を知り、競い合うようになる。身分などなかった世界に、権力が生まれる。人間は魔法を用いて戦い、最も強い魔力を持っていた者が王となった。


 王は人々を支配して国を作る。望むがままに、最も美しい女性を妃に迎えて子を生した。生まれた子供は妃に似て美しく、王に似て強い魔力を宿していた。子供はのちに母と交わり、より美しい子供を産む。


 彼らは身内同士で血を繋ぎ続け、より強く、より美しくなっていった。人々が魔法を得てから二百年も経つと、力を繋ぎ続けた王族は、誰にも負けぬほど高い魔力を持っていた。


 それでも王の支配に不満を抱く者はいる。そうした者たちが別の国を作り、二国の戦が始まった。王はすぐに民の弱さを嘆いた。隣国の民は強く、自国の民はあまりに弱い。自分だけが強くても意味が無いのだと、ようやく気付く。


 そこで王は、一人で二人分の力を持った人間を造るべく、人と人を繋いで強化人間を生み出そうと考えた。編み出されたのは、一人の魂と魔力を、もう一人が継承する魔法だった。


 王は望む魔法を形にするべく、血液型の異なる民を招集した。彼らは円形と多角形を組み合わせて魔法の文色あいろを描く。魔法を使う為の想像イメージを書き記し、使用する魔法を血で刻み、発動条件となる詩で円を象った。


 一人は魂と魔力と肉体の力を《譲渡》し、もう一人はそれを《吸収》する。魔力が器から溢れ出さぬよう器を《拡張》、二つの魂が肉体から出てしまわないように《収縮》して押し込む。


 その魔法陣に立ち、生き残り、強くなった者達は、しかし長く生きられなかった。魔法を重ねたところで、のだ。


 一つ分に収縮された二つの魂は時の流れと共に膨張し、拡張された魔力の器はやがて──はち切れた。


 神は人々の所業に憤った。神から慈悲まほうを得て引き起こしたのが醜い戦争だという事実も、戦の為に肉体を壊す魔法を編み出したことも、全てが神にとって冒涜だった。


 終戦とともに、多くの人々は魔法に関する記憶を失くした。勝利した王の首は、神によって横截おうせつされた。


 転がった王の首。美しい王子は目の前で父を殺されて呆然としていた。天罰のように王を殺した神は、泣き出した王子の婉麗さに打たれて、憐れみをかけることにした。王子だけでなく、信仰深かった民にも同様に声をかける。


『お前達からは魔法を奪わない。その代わり、誰にも知られぬ森の奥でまとまって暮らすんだ。人間の犯した過ちを書き留めて、罪を忘れることなく、正しい形で魔法を使いなさい』


 このとき神は、王子だけにあることを告げていた。


『お前の髪と瞳の色は必ず継ぐように。それは魔力の高さの表れであり、色深しい罪の証となるものだ。人々が犯した罪の色を、そしてわたしに与えられたその魔力と美しさを。今度は過ちを犯すことなく受け継いでいくんだ』


 王子は罪を重く受け止めていた。王とは違い、彼も神と同じように、戦争と魔法を良く思っていなかった。彼は神に問いかけた。


『私の一族の罪は……父や人々の罪は、いつ許されるのですか。魔法などいらない。消してしまっていいから、許してください』


『魔法を消したくとも、今の私にそれほどの力はない。私は力の半分を魔力の種にして人々に与えてしまった。種はもう抜くことが出来ず、私の目にも見えない。花の種を土に植えるのと同じだ』


 神が何故魔法を奪わず、魔法の記憶だけを奪ったのか、理解した王子は項垂れた。魔法の源が種だというのならば、種が芽吹かなければ摘めないのだろう。神は王子の心を見通したように苦笑して続けた。


『魔力の種が開花したなら、私はそれを知覚し、摘むことが出来る。高い魔力を持つ花を摘めれば、魔法をなくせる力を取り戻せるはずだ。だからお前にはその血を継いで欲しい』


 神の言葉を噛み砕けていない王子に、神は説いた。曰く、他の血が混ざってしまうと、種は変質して弱まる。同じ血を継ぐことで、同じ種が子供の肉体に継がれ、それを繰り返し続ければ種はいつか強い花を咲かせるそうだ。


 魔法を消す力を神に還す為には、先祖の血を今に至るまで継ぎ続けている王族が、子孫にもその血を受け継がせ、強く美しい花を咲かせるしかないのだという。


 王子はうなずいて、それから言問うた。


『花は、どこに咲くのですか』


『それは心臓に宿る魔力の花だ。けれどその花の佳芳と魔力は肉体から滲み出す。さながらかぐわしい毒花のように、人間は本能でその存在を美しいと感じ、その存在を恐れる。もしその花が──。


 ページを捲る手を、僕は止めた。


 そこから数枚分の紙が千切られていて、続きを読むことが出来ない。魔力の花のことも、誰が何の目的で続きを切り離したのかも分からず、眉根を寄せてしまう。古い紙上に書かれた物語と挿絵を眺めて、見つけた魔法陣を寓目した。

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