いつかの残香5

 紺色の帽子を取り去った彼女の眩燿な金髪が、そよ風になびく。俺が吃驚しているのは伝わってしまったのか、彼女は静かに言葉を続けた。


「お願い、します」


 瞳孔を刺し貫かれたまま、数秒の時が流れる。それは、彼女の目尻から溢れた真珠が頬を伝い、顎の先から落ちていくのを、見届けられる程度の時間だった。


 手を、持ち上げた。嫌悪感を抱かせてしまうのでは、と考えてすぐ、彼女に言われたことを思い出す。勝手に気持ちを決めつけ拒否すれば、それこそ彼女の勇気を傷付ける。


 指先をわずかに、不可視の隔たりへ沈めた。


「……不快に思ったら、すぐに言ってくれ。突き飛ばしたって構わない」


「突き飛ばしたくはありません。でも、もしそうしてしまっても、私から離れないで、ほしいです」


「分かった」


 少しでも動けば触れられるほどの距離まで手の平を進ませた。そうして柔らかな髪をそっと撫でる。触れられた、と認識した彼女の体は鮮少の恐れを発露させて小さく跳ねた。


「っ……」


「……嫌なら、無理はしなくていいからな」


「まだ、やめないで」


 横髪に触れる俺の前腕を、彼女が掴む。その手はひどく震えていた。弱々しい五指は力を緩めて、引き止めた事実だけを袖に刻み残し、離れていった。


 彼女を慰めるように、掌を彼女の輪郭に滑らせた。


「ユニス、大丈夫だ」


 表皮がその髪状かんざしに触れる程度に。髪の隙間に指が沈まないように。熱を伝えたら溶けてしまう雪華を、包み込むみたいに。大丈夫だとささめき続け、柔らかな髪の流れを辿っていく。


 ユニスの震えていた肩が少しずつ落ち着いていた。それに安堵の息を零したとき、彼女が俺のシャツを引っ張り、倒れ込んできた。


 胸元に顔を埋めた彼女に瞠若しつつも、二人まとめて倒れ込んでしまうことがないよう、片手を床に突いて彼女のつむじを覗き込んだ。


「っユニス?」


「……そのままで、いてください」


「……ああ」


 彼女が身動ぎをすると馥郁ふくいくたる香りが鼻先に漂う。聖水の香りだと語られたことを思い出し、瞼を下ろした。聖水は洗礼で使われる。この国の人間や、同じ聖水を使っている国の者ならば嗅いだことのあるものなのだろう。懐かしい清香に過去を思いなだらんだ。


 眠りにつけそうな安閑に寄りかかっていた。けれど静まれば静まるほど彼女の怯えが顕出してくる。撫でてやるべきなのか、今は何もしないで好きにさせてやるべきなのか判断がつかず、黙って見守ることにした。


 無為に秒針の音だけを聞いていたら、彼女の腕が背中に回される。コートの背を引っ張る手から、震えが伝わってくることはなかった。


「……っふふ」


「何笑ってるんだ。大丈夫か?」


「大丈夫です。貴方の心音が聞こえて……なんだか、私一人で心臓バクバクなのが馬鹿らしくなってきました」


「……俺だって、どう応じるのが正しいのかあまり分かっていない」


「そのままでいて欲しいです」


 しがみつくように、彼女は身を寄せる。暖かな体温が胸元に広がっていく。人肌と同じほどの熱を帯びた気息が、襟に触れていた。


「私、人の体温が、気持ち悪くて。怖かったんです。ずっと、人に触る想像すらあまりしたくなくて。でも、最近は……羨ましかった」


「羨ましい……?」


「貴方が、メイさんのことを優しい顔で撫でて。メイさんが、嬉しそうに笑っていて。『触れ合えることが幸せだ』って顔をしてる人を見てるの、羨ましくて。『私も』って……言いたくなるのに、私はきっと突き飛ばしちゃうから、求めてはいけなくて」


 微かな哀感を滲ませて、けれども薄らと喜色を湛えて、ユニスは俺を見上げた。


「エドウィンは、冷たい顔をしてるのにこんなに暖かいんですね」


「……悪かったな、冷たい顔で」


「いいえ。私は貴方の顔、嫌いじゃないです。嫌な視線を感じないから」


 眼差しが直線上で結ばれる。それは分陰の間だけで、彼女は笑み曲げた花貌を見せ、俺に凭れる。彼女が穏やかな気持ちでいられることを祈って、その様子を看視した。


 教会で育ったユニスがどんな日々を送っていたのか、俺は知悉ちしつしていない。それでも人との接触を嫌悪する理由から想像がつく。魔女の研究者が起こした強姦殺人事件の際、彼女とマスターの反応からも、ある程度察していた。


 だからこそ深憂を注いでしまう。俺との接触が、嫌な既往きおうを想起させてしまうのではないかと心配になる。


 彼女の肩が、また震竦しはじめているように思えて、呼びかけた。


「ユニス、辛くなってきたらいつでも離れてくれ」


「も、もう少しだけ」


「……少し、触れてもいいか?」


「へ!? ぇっ、ど、ど、どこに、触りますか」


「背中……いや、肩か……?」


「わ、わかりました。覚悟は決まりました。どうぞ……」


 跳び上がったり小刻みに震えたりする彼女が、だんだん小動物に見えてきて苦笑してしまう。俺にしがみついて待ち懸く背中に手を伸ばした。


 軽く、体温が伝わらないくらいの力加減で、秒を刻むように肩甲骨へ触れる。髪飾りの時計の針がふれるたび、手首を動かす。一秒、二秒、三秒。繰り返して、繰り返す。


 震えていたユニスが、寝返りを打つ子供みたく、顔の角度を変えた。


「それ……落ち着きます。眠くなっちゃいますね」


「そう、かもな。昔、眠れない時に母が、よくこうしてくれた」


「優しいお母さんだったんですね」


 ああ、と返した声は歎息に呑まれる。彼女に相槌として届いたかは分からない。眼裏に幼い頃の思い出が滲む。


 母は、優しい人だった。母がくれた優しさを、見様見真似で妹にしてやった。今はそれをユニスにしている。優しさの伝え方が、このくらいしか浮かばなかったから。


 ユニスの声は、少しばかり明るく聞こえた。


「心臓、さっきまで早かったんですけど。貴方がゆっくり叩いてくれるから、それにつられて落ち着いていってる感じがします」


「そうか。落ち着いたなら良かった」


「私、エドウィンの匂い好きです。落ち着──……」


 腕の中で微睡むように、俺に身を委ねていたユニスが俄かに黙りこくった。寂静じゃくじょうに包まれている間、彼女が言いかけた言葉を鼓膜で繰り返す。匂い、と首を傾けていれば、彼女が俺の胸骨に額を打ち付けてきた。


「っ違います!! 好きなわけないでしょ!」


「あ、ああ」


「ぁ、違っ、嫌いでもなくて! えっと、ミルフィーユくらいの好きじゃなくて、焼きたてのパンくらいの好きです!」


「……パンの匂いがするのか? 悪い、自分の匂いなんて分からないんだが」


「だッッだから! 匂いの話なんてしてません! ばか!」


 顔を上げない彼女の甲高い叫びが、重なり合う影の中に落ちる。コートを引っ張っていた指が離れていくのを、背中で感じる。俺に抱き着いていた腕をほどくと、彼女は唸りながら握った手でこちらの胸を打った。力は込められておらず、肩を叩くくらいの弱さだった。


 頭を持ち上げたユニスの、熱でもあるのかと心配になるほど赤ら引いた雪膚を前にし、目を瞠った。彼女が勢いよく顔を近付けてきたため、反射的に息を呑む。鮮やいだ懸珠は俺だけを反射していた。


「私が言ってるのは、エドウィンのことです……! 私は貴方のことが、その、だから! ミルフィーユみたいな特別感はないけど、あったかいパンくらいには好きって言ってるんです!」


 食べ物に例えられた台詞は晦渋で、それを理解するべくユニスのことを追想する。


 以前ミルフィーユを作って出した時、ユニスは嬉笑して頬張っていた。時折作ってくれとねだってくることもあり、好物のうちの一つなのだろう。パンは彼女が好むようなスイーツではないが、嫌がることなく毎日口にしている。


 俺と顔を合わせた時に、ミルフィーユを見た時ほど嬉しくはならないが、パンのように毎日見ても嫌にはならないものなのだと思われる。


 精慮しているうちにそれが正解かも分からなくなってきたが、懸命に俺の返事を待っているユニスに頷いた。


「……そうか。分かった」


「わかっ、てます? ほんとにわかってます?」


「酒場に戻ったら、ミルフィーユ作ってやる」


「絶対分かってませんよね」


「お前の言いたいことは理解した……つもりだ。つまり、嫌いな食べ物ではない程度に、気を許してくれてるんだろ。ありがとな」


 緩慢に腕を上げて、頬を膨らませているユニスを撫でる。特別なものでなくとも、俺を好意的に見てくれている彼女に感謝を伝えたかった。そのせいか、自然と頬が緩んでいく。つややかな髪をもう一度だけ撫でて、呆然としている彼女に笑いかける。


 彼女の額に軽く手の甲を押し当てた。熱はないようで、白皙を染める朱はきっと、感情的になったことで一時的に気上がったのだと推察した。生成り色の前髪が額を覆う。さらりと落ちる影を受け止めて、花瞼かけんがまばたきをする。凝然としている彼女の前で、俺は立ち上がった。


「少し外の空気を吸ってこようと思うんだが……一緒に行くか?」


「え、あっ! 行きますっ」


 手枷を両手で握り締めて跳び上がるユニス。その形貌はもう鬱懐としておらず、淋漓りんりな幼子みたいに晴れ晴れとしていた。


 軋んだ音を立てる木製の扉を開き、民家の壁から差し込んでいた白光の下へと踏み入る。壊頽かいたいした村を顧望する。変わってしまったものと、変わらないもの。見覚えのあるすべてが思い出と結びつき、顰笑を浮かべた。


 あらぼねはどれだけ転がっているのだろう。出来ることなら、亡くなった者達を皆、静かな土の中で眠らせてやりたかった。


     (三)


 開扉した家に踏み入ると、古い紙と埃の匂いが鼻腔を通って噎せかけた。僕をここまで案内してくれたオッサンは、塵埃を意に介さず、どんどん部屋の奥へと進んでしまう。誰もいない建物の中は落莫らくばくとしていて、歩く度に木板が泣いていた。


 廊下の先、オッサンが消えた部屋に目を凝らすと銀燭が灯る。開かれたままの扉を瞥見し、長方形の光の中へ足を進めた。


 明暗差に痛む眼を細め、部屋の中をぐるりと顧眄こべんする。室内には燭台や洋燈がいくつも置かれていて、どうやらオッサンが手持ちのライターで全ての照明器具に火を与えたみたいだった。


 暖色の明かりに賦色ふしょくされて煌めくのは、本の背表紙に金で記された題名。部屋の壁は本棚で埋め尽くされており、床にも積み重なった書物の塔がいくつか点在していた。


「すごい本の数……オッサンはココが図書館か何かだってどうして分かったんだ?」


「分かったというか、私は一度魔法について調べに来ているからね。覚えていただけさ。ちなみに床に置いてあるものは全て他の民家から私が集めてきたものだよ。一か所にまとめておいた方が調べやすかったから」


「へえ。昔のオッサンに感謝しないとな……」


「今のオッサンに感謝してもいいんだよ!?」


 僕につられてか、自分で自分をオッサンと言った彼に吹き出しそうになる。震えながら笑いを堪えて唇を噛み締め、色を正して本棚と向き合う。


 顎を持ち上げ、瞻仰せんぎょうした棚はとても高い。僕の背丈では一番上の本など届かない。上から二、三段目のものも難しいかもしれない。地を蹴って跳べば届くだろうが、本を壊してしまいそうだ。


 魔女や魔法、魂について書かれている本が下方にあることを祈って背表紙を一冊ずつ睨視げいししていく。集中していたせいで、両肩に重みが圧し掛かってきたとき、驚駭を露わに叫んでしまった。


「うわっ!?」


「っいきなり大声出さないでくれるかいメイちゃん!? びっくりした!」


「ビックリした、はこっちのセリフだ! っというかなんで僕をひじ掛けみたいにしてるんだよ……!」


 背後から項垂れるように僕の肩へ凭れたまま、オッサンは離れない。振り払おうとした僕の視界に白橡しろつるばみの長髪がぱらぱらと零れてくる。それに伴われていたのは煙草の匂いと、色褪せた紙の匂い。胸元に回された彼の手には、一冊の本があった。刻まれた題名は、魂の移植。


「魂についての本なんだが、これなんてどうかな?」


 耳殻に彼の声が吹きかかる。眉根を寄せて本に手を伸ばそうとしたが、ページを捲ったのは彼の長い指だ。子供を抱いて読み聞かせをする親みたいに、彼が離れないものだから溜息を吐き出した。


「言っておくけど僕は文字くらい読める。一人で読めるから本だけ渡して離れてくれ」


「……せっかくメイちゃんと二人だから、心の距離を近付けるチャンスかと思ったんだが、やっぱり私は嫌かな?」


「物理的に近付いてどうするんだよ、普通に気持ち悪いから近付くな」


「うーん相変わらず辛辣だね! メイちゃんが可愛くてつい……ごめんね」


 背中から離れていく体温に安堵し、けれども侘しさに似た罪悪感が唇を歪ませた。彼が後ろにいて良かったと思う。僕の放った棘を、一体どんな顔で受け止めたのだろう。少なからず傷付いたのではないかと思いして俯く。本を捲ることが出来ないまま言い訳みたいに付け加えた。


「あの、さ。オッサンはホントにウザいけど、別に嫌ってはないよ」


 返答のない蕭寥しょうりょうがひたすらに耳を刺す。まだ言葉が足りなかったのかもしれない、と、思考する。


 大人は苦手だ。それはきっと、僕が大人と深く関わらずに生きてきたから。村人は僕を蔑視していたし、孤児院の先生達は優しかったが、結局上辺だけだった。母は弱い人だったから、僕に構ってくれるほど元気じゃなかった。


 オッサンは、本当に心から僕を可愛がってくれているのだろうか。分からないから怖い。だけど傷付けるのは嫌だ。もし僕に父親がいたら彼みたいな感じなのかもしれない。そこまで回思して、自分の心をほんの少しだけ理解した。


 彼に対して上手く応じられないのは、僕が、父親という存在を知らないからだ。


 跫音が背後で響く。振り向くと彼が泣き笑いのような顔をして肩を揺らしていた。


「それは、本当に本当かな? つまり私のことも好きなんだね!?」


「うざ……」


「ふふふ、メイちゃん、今度二人で出かけたいんだが……どうだろう。メイちゃんは来てくれるかい? デートをしよう」


 ふざけた口吻に目を眇めたが、彼の面体があまりに真剣なもので戸惑った。どうしてそんな顔をしているのか分からない。微かに下がった柳眉が煩憂を覗かせる。背を屈めて近付いた距離は控えめで、僕を反射する双眸は蒼然とした影に呑まれそうだった。


 僕は、その表情を知っている。思い出すのは、頑是ない子供だった僕が、お母さんを困らせた時のこと。子供に『嫌だ』と言われるのを予想している大人の顔。


 オッサンに背を向けて、唇を噛んだ。


「……デートって言い方はキモイからやめて。出掛けるのは別にいいけど、どこに行くんだよ。美味しいもの売ってるとこ?」


「そう、だね。美味しいものも……食べられるかもしれないね」


「ふうん……まあいいけど。本、読むから、オッサンは他にも良さそうなのがないか探しといて」


 かすかに嬉しさを孕んだ彼の声が、何故だか面映ゆい。味わい慣れない感情が発露してくる。その居心地の悪さから逃れたくて古ぼけた紙を擦り鳴らした。

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