いつかの残香4

 馬車から降り、吸い込んだ空気は植物の香りがした。膝丈ほどに伸びた草が広がる、藹藹あいあいたる草原のようなそこは、確かに廃村だった。俯仰すれば見覚えのある民家がいくつも見つけられる。


 緑の扉の家を見つけ、あそこに住む女性にコーデリアが懐いていたことや、その向かい側の家に俺がボールをぶつけてしまって怒られたことなど、子供の頃の思い出に唇がたわむ。少しだけ懐かしい気持ちに浸っていたら、マスターに肩を叩かれた。


「とりあえず君は食事と休息をとろうか。適当な家に……そうだな、あそこにしよう」


「食事も休息も必要ない。メイが魔法について調べるんだろ。一人で何冊も目を通すのは大変だろうから俺も……」


「僕なら大丈夫。エドウィンが倒れたのは栄養不足かもしれないんだから休まなきゃダメだ」


 メイに腕を引っ張られ、眉を顰める。我が物顔で民家の扉を開けているマスターを後目で捉えながらメイを見下ろした。


「なんだ、栄養不足って」


「栄養が足りないことだよ」


「そういうことを聞いてるんじゃない」


「でも実際ぜんぜんご飯食べてないし、心配だからエドウィンは休んでて。僕の手伝いはオッサンがしてくれるから大丈夫」


 華奢な彼女の細腕に引かれて転びかける。戦っていないと忘れかけてしまうが、彼女は魔女だ。魔力を込めなければその腕力に抗えない。


 俺が意識を失った原因は恐らく魔力不足で、それゆえ、彼女に抵抗するために魔法を使うのは躊躇われた。


 誘掖ゆうえきされるまま民家の中へ引き摺りこまれる。メイの腕がほどけると、マスターが陽射しを遮って俺の前に立った。


「また倒れられても困るんだよ。今日は安静にしててくれ」


「だが」


「エドウィン、君を列車から駅まで運んであげたのは誰だと思っているんだい? 疲れたなあ、君が無茶をしなければ私がこんなに疲労することはなかったんだけどなぁ」


 言いながら、肩を押さえて腕を回し始めるマスター。列車から駅まで俺を担いでくれたことに今更心付き、申し訳なさがせり上がってくる。唇を噛んでから僅かに俯いた。


「……悪い。迷惑をかけて」


「分かればいいんだよ。はいコレ食料、お腹が空いたら食べてね。ユニスはエドウィンが動き回らないように見張っててくれるかい?」


「えっ、あ、はい!」


 押し付けられた紙袋を開けて中を覗いてみれば、街で買ったのか、焼き菓子やパン、果物や数本の瓶が入っていた。食欲はないため、食べ物は食べられそうにない。水分は取っておこうかと思い、瓶を確認したが、三本すべて酒で呆れかえってしまう。明らかにマスターが自分で飲むために買ったものだ。俺とメイとユニスに水分を用意するという頭はないのだろうか。


 ワインのラベルが巻かれた瓶を持ち上げ、天光に透かす。酒場で見慣れた葡萄酒の色とは違う気がした。揺れる水面は未開封の量でもなく、空き瓶に飲み水でも入れてきたのかもしれない。


 メイとマスターが退室し、扉が閉まると、室内はほの暗くなった。とはいえ、この家の窓は壊されており、壁にも数ヶ所穴が空いていて、手元が見えるほどの陽光は注がれている。室内を見回し、器を探す。硝子製の容器を見つけ、そこにワインボトルの中身をいでみた。色は透明。濁りもなく、気泡もない。アルコールの香りもしなかった。


 毒見のように少量を口に含み、それが水であることを確かめてから喉を鳴らす。床に座り込んで、罅割れている壁を見つめた。


 ここは誰の家だったか、あまり思い出せない。全ての村人と親しかったわけではないし、人の家に上がり込んだこともほとんどないからだ。それゆえ思い入れはない。けれど棚に飾られている、ナナカマドの赤い果実を模したお守りや、鉢植えで枯れているカトレアの花が懐かしい。どちらもこの村でよく見かけたものだった。花はもしかすると、主がいなくなった今でも、吹き込む雨水や日輪をよすがにして咲いていたのかもしれない。


 手にしていたグラスと紙袋を床に置く。四肢に纏繞てんじょうさせていた魔力を弱めて、棚の側面に肩と側頭部を預ける。このまま眠ってしまおうかと思ったが、近付く足音に睫毛を持ち上げた。


 手枷から覗くフリルを揺らし、ユニスが俺の傍に両膝を突いた。その顔気色は不安に染まっており、微笑んではいるものの、どこか緊張しているようにも思えた。


 何故ユニスは表情を強張らせ、何に対して不安を──と尋思じんしして、すぐに見当がつく。横転した列車内で庇う為とはいえ、他人との接触を嫌う彼女を抱き寄せ、挙句泣かせてしまった。俺に対して怖がっているのだろう。


 怯えさせない応じ方が分からず、俺は彼女から目を逸らした。見つめれば、意図せず視線で刺し貫いてしまうような気がしたから。


 そうして緘黙かんもくに身を委ねる。寂び返った部屋に、少女の鈴の音が転がった。


「エドウィン、具合は、どうですか?」


「大丈夫だ。……俺は大人しくここにいるから、お前はメイとマスターのところへ行っても構わないぞ」


「私は本やお勉強に興味ありませんから」


「……そうだとしても、俺と二人でいるのは嫌だろ」


 草葉の揺れる音が聞こえる。そのくらい、室内は闃然げきぜんとしていた。それは穏やかな時間ではなかった。音のない空気に耳朶が凍えていくような、冷え切った零下れいかの静寂。この場を包み込む薄氷を溶かしたのは、慮外なほど暖かな色音だった。


「嫌じゃないですよ。私、貴方とちゃんと話がしたくて、ここにいるんです」


 徐に顔を上げる。ユニスの困り眉の下で藤色の双眸が濡れていた。けれども雫は流れない。こちらへ微笑みかける彼女と、今度は真っ直ぐ向かい合った。彼女の言葉を脳内で繰り返し、首を傾ける。


「話……?」


「列車でのこと、ごめんなさい。痛かったですよね」


「まだそんなことを気にしてたのか。大したことはないし、お前が嫌がることをした俺が悪い」


「違います。貴方は、私を助けることを優先してくれただけです」


「……次は、出来るだけ触れないようにする」


「っ、違うんです……!」


 上嗄れた声は悲鳴に似た響きをしていた。彼女が何を訴えたいのか、それを見解くことは難しい。返辞が浮かばず、徒口ただくちになっていれば、ユニスが困ったようにうそ笑む。そうして彼女の双肩が持ち上がる。正座をしている彼女の、紺色のスカートに重なっていた袖のフリルが、今は虚空で揺らいでいた。


「エドウィン、手枷、外してください」


 諸腕を差し出す彼女の言色は硬い。緊張、とはまた違う空気。その気貌からは何らかの覚悟の片影が覗いていた。俺は然無顔しかながおを緩めて呟く。


「なんだ、いきなり」


「いいから、とって」


 音を立てないほどの緩やかさで、ユニスは両腕を下ろした。そうして金具がほどかれるのをただ待ち受ける。彼女が何をしたいのか分からないまま片手を持ち上げた。わずかに、彼女の体が震える。その両目が俺の指先を瞻視せんしする。


 彼女の首輪から垂れているベルトに指を引っ掛け、サスペンダーを思わせる金具を弾くと、黒革の手枷は衣擦れの音を立てて、彼女の膝の上へ沈むように落ちていった。


「……あの」


「まだ何かあるのか?」


「話があるって言ったじゃないですか」


「列車でのことだろ。それなら今終わった話だ」


「そうですけど、違います……! ちゃんと聞いて!」


 碧落を閉じ込めた宝石のような瓊玉ひとみが、その直情が、真っ向からぶつけられる。彼女は蕭然しょうぜんとした廃屋の、陰陰とした影を受け止めている。けれども、さやかな虹彩を搔き暗すものは何もなかった。


 ユニスは膝の上で両の手を固める。中手骨が浮きあがるほど強く、手枷が深い皺を刻むほど爪を突き立てる。それは、激情を抑え込んでいる様体だった。


「私が、言いにくかったり、怖くて、言葉に詰まっちゃうのが、悪いんですけど……でも、ちゃんと最後まで、聞いてくれませんか。私がもし上手く言えなくても……貴方の中で、勝手に私の気持ちを決め付けないで、私の言葉を待ってください。私の気持ち、聞いてください……っ」


 少しずつ掠れていく訴えの遺響が、耳の底へ深く沈んでいく。手を伸ばせば触れられるくらいの小隙しょうげきを挟んで、互いに噤口する。静けさが降り、木の葉の香りと清籟せいらいの響きが遠くから吹き込んでくる。


 勝手に、気持ちを決めつける。聞き留めた言葉を咀嚼して、ああ、と気付く。


 俺は彼女の言う通り、列車で彼女の気持ちを勝手に決めつけた。今し方のこともそうだ。俺と二人でいるのは嫌だろうと、彼女の意思を何も考えずにそう思った。


 ユニスが何に不満を抱いていたのか理解した今、思い返せばいくつも浮かんでくる自身の失態に顔を顰め、眉根をきつく押さえる。恐らく思い出せない出来事の中にも、そういったことはあったのだろう。


「……悪かった。お前が、嫌な思いをしてたことに気付けなくて、すまない……これからは気を付ける」


「い、いえ……っ」


「それで、話って、なんだ。今度はちゃんと聞くから、話してくれないか」


 彼女を傷付けぬように、出来るだけ柔らかな声貌を心掛けた。すると彼女は気抜けた顔で俺を見つめていて、気まずさを覚える。何か、また言葉足らずだったろうかと心思うらおもっていれば、彼女は莞然と微笑んだ。


「私……列車で、助けてもらったのに貴方を突き飛ばしたこと……貴方のことが嫌だったわけじゃないって言ったでしょ? そうしたらエドウィン、無理はするなって言いましたけど、本当に、無理してるわけじゃないんです。あの時私は……私、エドウィンになら……」


 桃唇が弓なりにしなったまま沈静する。婉容は歪まず、崩れることもない。彼女の顔に、不安や恐れの類は今や見られなかった。落ち着いたのだろう。それでも粛然とした時間が流れるのは、恐らく想いを表す言葉を探しているからだ。口を挟むことなく彼女を待った。


 迷いを振り払うように、ユニスが小さく頭を振った。絹糸のような横髪がなだらかな肩から揺落する。彼女の大きなはざめ夢許ゆめばかり細められて、透き通った角膜に俺を映し込む。


 不思議と、目を逸らせない。その藤色に吸い込まれるまま、濁りのない透徹に浮かぶ、己の影を眺め入った。


「私は、エドウィンになら、触れられてもいいって……言いたかったんです」


 金の睫毛が上下して、またたくと共に彼女は片笑みを象る。白い繊指がこちらへ伸び、控えめに俺の袖を引いた。その接触には温度が生じない。触覚を働かせたのは布帛ふはくだけだ。


 彼女は閑言する。混じりけのない澄んだ虹彩に、波紋が広がったように思えた。


「でも、言えなかった。嘘だからじゃありません。私、エドウィンにも、メイさんにも、マスターにも心を許してるつもりです。なのに、体が許してくれないんです」


「……傷を癒す時間がもう少し必要なんだろう。そんなことは、俺もメイもマスターも分かってる。焦らなくていい」


「皆さんが理解してくれてても、私は嫌なんです……!」


 哀叫で揺らいだユニスとの間隔が近付いた。座っていなければ、きっと彼女は靴音を立てて詰め寄っていたのだろう。俺の袖を強く手繰る彼女が、泣き出しそうな顔で見上げてくる。その目が宿す景色はきらめいて揺らぎ、滴の中へ溶けていった。


「だって、私だって手を握ったりしたくなっちゃうのに……! 私だって撫でてもらったりして欲しいのに! 皆さんと過ごせば過ごすほど、どんどんそんな気持ちが溢れていくのに、私……! ずっとこのままかもしれないんですよ!? 触れられたら突き飛ばして、守られたのに傷付けて、そんなの繰り返してたら、いつか嫌われちゃう……!」


 震えた音吐と泣き声の余韻が、草葉のさざめきに攫われる。ユニスは自身の影に閉じこもり、床を絵取っていく涙を見下ろしていた。


 かんばせは髪に隠されて窺えない。しゃくりあげる息の音が止まない。そのまま影の中へ倒れ込んでしまいそうな頭に、手を伸ばしかけた。帽子の上からなら触れても大丈夫だったはずだ。だから触れようとしたものの、怯えさせてしまう可能性が脳を過ぎって、指先は行き場を失くし脱力した。


「ユニス。メイもマスターも、俺も……そんなことでお前を嫌うような人間じゃない」


「それでも私は、私の大切な人を理不尽に傷つける私のことが、嫌になっていくんです……。だから、慣れていきたいのに……っ」


 涕涙し続ける彼女が、ゆっくりと相貌を持ち上げた。朝暉ちょうきを浴びた頬で涙痕が浮き彫りになる。陽光の欠片を点々と零すと、彼女は、しおれてしまいそうな笑みを咲かせた。


「…………ねえ、エドウィン。私のこと、撫でて、もらえませんか」


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