いつかの残香3

     (二)


 知らない人間の香りがするベッドに横たわり、俺はただ壁を見つめていた。そこに何かがあるわけでもなく、そこではないどこかを眺めたいわけでもない。起き上がれない体が、目界をその一辺だけに制限していた。


 室内光が灯っていないというのに、どこからか──恐らく窓からだろう──暖かな明かりがこぼれ、微かな埃をちらちらと煌めかせていた。今は朝か昼頃であると見当をつけ、首を傾ける程度の身動ぎをした。


 リアム、と名乗った男性の家で朝を迎えるのは何度目か、正確には分からない。まだ一週間は過ぎていないと思うが、一月が経過したような感覚にも陥る。それは、いつが夢かうつつなのか分からないせいだった。


 悪夢の出口をこじ開けたところで、露わになった虹彩が映すのは見知らぬ部屋。現実味のない一室と静けさが、この現実を残夢だと思わせる。


 目を覚ましたらコーデリアが俺の腕を引っ張って、早く起きてと甲高く騒いだり。父に怒られたり。母が優しく頬を撫でてくれたり。そんな、当たり前にあったことが、何一つ起こらない。


 俺に手を伸ばす母の、優しい目顔を想起して。朱殷しゅあんに転がる母の頭部が、その思い出を掻き消した。代わりに思い出した手の平は膏血こうけつで滑ったバケモノのもの。眼窩をそのまま見つめているような、空空とした女の冷眼。頭蓋に響く妹の悲鳴と、肌骨をこじ開ける切っ先の、歯が浮くような、脊髄から凍えていくような、悍ましい痛み。その全てが臓腑を震わせてえずいた。


「うっ、……ぇ……」


 口元を押さえようにも手は動かない。唇を噛み締めて、布団の中で腰を丸める。


 出来ることなら、この羸弱るいじゃくな腕に爪を突き立てたい。何も守れなかった傷跡あかしを掻きむしりたい。己に対する悲憤が熱を帯びて、次第に全身を灼いていく。それは錯覚ではなく、癒えていない傷の痛みなのだろう。血管という導火線に火が点けられて、灼熱の痛みが皮下を巡っていく。


 ──痛い。痛い、痛い、痛い。早く治まれ。早く治れ。手も、足も、はやく、動くようになれ。はやく。


「大丈夫かい?」


「っ!」


 圧しかかっていた影が離れていく。布団を捲ったのはリアムだった。眉も目尻も垂れ下がり、困り顔で俺を見下ろす彼。千草色の諸目から顔を背けるも、大きな掌が俺の額を撫でた。


「傷、痛む? 痛み止めを持ってこようか」


「要らない」


「そう、かい? なら良いんだけどね。そろそろ起きるかと思って昼食を用意したんだ。甘いのとしょっぱいのどっちがいいかな?」


「…………どっちがおいしい?」


「ははっ、どっちも美味しいよ。なにしろ私が作ってるんだからね! どっちも半分ずつもってこようか」


 彼の作る料理は、確かに美味しい。見たことのないものばかり出てくるが、不味いものは少なかった。


 膝をついていた彼が立ち上がり、広い背中が廊下へ向かう。背格好も年齢も俺の父親くらいだからか、少しだけ父と重ねてしまう。歩みに合わせて靡く後ろ髪を目で追っていたら、扉を開けた彼が、知らない男性と衝突しかけていた。


「っおっと、どうしたんだいグレン」


「リアム、知人から返事の手紙が来たんだが──……」


 扉を開けたまま応じているリアムの肩越しに、客人と思しき男性と視線が絡む。男性が言い果つ前に固まったからか、リアムは彼の目路を辿って俺を顧みる。横たわる俺に、リアムは相好を崩して男性を手で示した。


「エドウィン、彼は医者でね。君が眠っている間に毎日看てくれてるんだ。ほら、起きてる間だと君は看病にすら嫌な顔するだろう?」


「……だからって、知らない間に看られてるのも気分が悪い」


「まあ、そうかもしれないけども。ご飯は少し待っていてくれ、彼を見送ってから持ってくるよ」


 苦り笑ったリアムが俺に片手を振る。医者だという男性は無言のまま軽く会釈をしていた。閉められた扉の向こうで、彼らの気配が跫然きょうぜんと遠ざかっていく。靴音が止んだのは、聞こえないほど離れたからか、と思ったがそうではなかった。


「リアム」と、医者が彼を呼び止める声が僅かに聞こえた。水の中みたいに曖昧に聞こえてくる会話が煩わしく、つい耳を澄ませてしまってから、すぐに後悔した。


「あの少年の手足だが、手を尽くしても治せるものじゃない。知人らに話しても見解は同じだ」


 あの少年。それはきっと、俺のことだ。


 彼は今、なんて言った?


「外国はどうだろう。どこかの国では治せたりしないのかい」


「どこの医者を当たっても同じだ。治せる術式はない。あの子の四肢はもう二度と動かないだろう」


 もう、二度と。


「うご、かない」


 悄然とした孤独な部屋に、自ら糾返あざかえした言葉が反響して、耳底を深々と穿つ。


 秒を刻むくらい緩やかだった心音が、次第に秒針の音を置き去りにしていく。早鐘を打つ心臓が呼吸を急かす。乾いた唇を、止まらない片息が震わせていた。


 シーツに押し付けた側頭部を左右に揺らす。治らないはずがないと、否定したくて堪らなかった。


 この手足を動かせるようになったら、妹を探しに行く。あの女に連れて行かれた妹を助けて、守れなかったことを謝って、抱きしめて、妹の夢をこれからいくつも叶えていく──そんな未来は、叶わないのか。


 さざめいて生を証かす拍動と息差しに、死んだ四肢は沈黙したまま呼応しない。


 嫌だ。噛み締めた奥歯が軋んだ音を立てる。嫌だ。熱く痙攣した空気が涙声に伴われる。嫌だ。嫌だ。いやだ。もう動けないなんて、信じたくない。動け。お願いだから、動いてくれ。


「ッ、ぁ……ぁあ……!」


 見えない何かに首を絞め上げられ、そうして絞り出された、泣き声とも言えない呻吟は、ひどく、掠れて。柔らかな褥にくぐもった音で沈み込み、擦り切れた金属の残響のような、高く冷たい、虚しい余韻だけを空無に散らしていた。


 拳を強く握り込んだ。それは願望でしかなく、実際は指を曲げることすら出来なかった。垂下している自分の腕を見下ろす。手を握る感覚。動かす感覚。爪が沈むほどきつく握り締める感覚。全て知っているのに、何も形にならない。それでもひたすらに動けと念じる。


 弾かれるように跳ね上がった腕が、激しい熱を流伝させて、思わず目を見開いた。


「あッ、つ……!」


「エドウィン!?」


 廊下から俺の呻き声を聞いたのか、慌てた様子でリアムが駆けこんでくる。両手で持っていた食事を机の上に置くと、傍らに膝をついていた。


「大丈夫かい……!? どこが痛む?」


「いや……なんでもない」


「……もう、大丈夫なら構わないんだが……」


 憂わしげに注がれる視線に一見すら返さず、自身の左腕を下瞰する。静電気のような速さで、熱した鉄に触れた時のような痛みが駆け抜けた方今。思い違いでなければ、あの瞬目のあいだ、指が、腕が、動いたような気がした。


 そんな魔法のようなことがあるはずもない。そう沈思してから、唇の裏で「魔法」と反芻する。


 それは、御伽噺でも戯言でもない。両親や村人が言うには、あの村の人間だけが使い方を受け継いでいる、血の力。魔法の使い方は、成人してから、と両親に言われて、教えてもらえなかった。


 もし、先程の熱が魔法によるものだとしたら。魔法を使うことで、この手足が再び動かせるとしたら。


 一抹の希望に縋りたくて、瞼を伏せた。そうして絡ませた睫毛をほどくと、リアムをめ見る。


「リアム。俺の村に行って、魔法について調べてくれないか」


 それは彼にとって存外な頼みだったのか、彼は眼伸まのしして少しのあいだ返答に窮していた。もしかすると、魔法があるということ自体、あの村の人間以外知らないのかもしれない。馬鹿にされる可能性も考えて返事を待ったが、彼は真剣な面持ちで答えてくれた。


「魔法? どうしてだい」


「魔法なら、この手足を動かせるかもしれない」


「……君の手足は」


「もう、動かないんだろ。聞こえてた」


 彼は、まるで自分が絶望の淵に落とされたように、ひどく傷付いた顔をする。弱い俺自身を見ているようで顔が歪んでいく。仮面の裏に隠した真情を暴いて、真実を映す鏡を前にしているみたいだった。


 空寂を暖かに染めるためか、彼は温然と笑う。


「エドウィン、心配しなくていい。君が動けなくても、私は君を放り出したりしないし、こうやってご飯も食べさせてあげる。そんな体で無理をしようとする必要はないよ。ここで美味しいものを食べて、穏やかに暮らそう。ここには、君の村を襲ったような、君を脅かすモノなんてないんだ」


 どこまでも優しい音容に、優しい台詞。そこに嘘や詭偽きぎの響きは感じなかった。だからこそ、何故、と思う。偶然見つけただけの、死にかけていた子供を拾って、何故そこまで親身になれるのか、俺には分からなかった。けれど、彼に渡される深憂が暖かくて、『彼を信用できない』と撥ね退ける気にはなれなかった。


 ただ静かに、首を左右に動かした。


「貴方が、優しさからそう言ってくれてるのは分かってる。けど……動けないまま、ずっと貴方に世話をされて、ただ寝て起きるだけの、生きている意味も分からない日々を繰り返すのなら……俺は死んだ方がマシだ」


「っ何を言ってるんだ君は! 死んだ方がいいなんて──」


「死にたいわけじゃない。俺は、このまま生きるのも、死んでいくのも、絶対に嫌なんだ」


 聴覚が震える。幻聴が脳髄を揺り動かす。それは、鼓膜がけざやかに記憶しているバケモノの笑声。予言のような、呪いのような。俺を冥暗に誘い込む音吐。


『妹を助けられないまま、衰弱して死ぬと良い』


 俺は、喉の奥が抉れそうなほど唸り、鋭利な怨声を吐き捨てた。


「絶対に死んでやらない……諦めてたまるか。だから、お願いだリアム。魔法について調べてほしい」


 そうしてリアム──マスターの助力を得て、俺は魔法の使い方を知っていった。


 だんだんと、色褪せていた目の前が鮮やかになっていく。今、自分が過去の夢を見ていたことを、自覚していく。


 列車での戦闘。横転した列車。列車から降りたのちに気を失ったことを思い出しながら、瞼を持ち上げる。


「──って感じでね、昔からこう、なんていうか頑固なんだよねエドウィンって! 子供なんだから子供らしく泣いてくれても良かったのになぁ」


 何故今になってあんな夢を、と思ったが、どうやら、眠っている俺の脳からあの記憶を引き出したのは、マスターのようだった。寝ぼけ眼も醒めてきて、ぼやけていた風景の輪郭を捉えられるようになってから、馬車の中にいることを理解する。舌打ちと大息を吐き出し、対角線上に座るマスターを斜眼した。


「おい……何の話をしてるんだマスター」


 破顔したまま固まったマスターと、玄黙して俺を凝視しているユニス。自身の隣を見遣るとそこにはメイがいて、彼女は声を伴わない開口だけを繰り返していた。数秒ののち、掻い澄んだ空気を裂いたのは俺に詰め寄ったメイだ。


「っエドウィン目が覚めた!? 大丈夫!?」


「あ、ああ」


「よかったぁ!」


 いきなり抱きついてきた彼女を瞠視する。魔女との戦闘で負った傷は治っているものの、服は血塗れで、彼女が汚れてしまうのではないかと気付く。離れようとしたが、羽織っていたトレンチコートのボタンが留められており、血痕は見えなくなっていた。恐らくマスターが、通行人や馬車の御者に怪しまれぬよう隠してくれたのだろう。


 メイを押しのけようと思って持ち上げた手を、そのままそっと彼女の頭にのせた。柔らかな白髪を撫でてやると、喜色を湛えた童顔が俺を見上げた。無言のまま笑顔だけを向けられるものだから、どうしたら良いか分からず、数度撫でてから顔を逸らす。


「その……心配かけて悪かった」


「ううん、エドウィンが無事ならそれでいいんだ」


「俺が寝ている間に何を聞かされた?」


 突き刺すほどの眼勢を向けた先でマスターが両手を上げて苦笑していた。


「安心してくれエドウィン、大したことは話していないよ。ねえユニス?」


「そうですね。ローストビーフを生肉って言って食わず嫌いしてた話とか、まだ魔法を使えなかった頃の話を聞いてただけです」


「余計なことばかりベラベラと……──ッ」


 突然馬車が大きく揺れて、反射的に口元へ手をやった。慣れない乗り物に乗り続けている感覚はあまり気分の良いものではない。一瞬だけ込み上げた嘔吐感を鎮めている間、マスターが御者に声を掛けていた。会話の内容から察するに、どうやら目的地に到着したみたいだった。


「さ、エドウィン。文句ばっかり言っていないで降りる支度をしなさい」


「誰のせいで文句を言ってると思ってるんだ。そもそも何も持ってきていないんだから支度も何もない」


「物の話じゃないさ。君の心の話だ。変わり果てた故郷を見つめる覚悟は、出来ているのかい?」


 彼の目遣いには、俺に対する心痛が滲んでいた。心配してくれる恩顔を直視できず、頷きながら俯く。マスターはメイとユニスに声をかけ、三人とも先に降りて行った。また要らぬ気遣いを、と微苦笑を浮かべてから、俺も馬車の扉に手を掛ける。


 覚悟など必要ない。五年前、鮮血が飛び交うのをこの目で見た。止まない悲鳴を今でも思い出せる。切断された人体から赤い余沫が噴き溢れる様を。見知った顔が血溜まりに眠っていく様を。母の頭部が血の海にしずく様を。そのどれもが、記憶の中で色褪せることなく鮮麗に残っている。


 後悔も悲しみも、幽咽さえも、きっと零れない。無感覚の虚しさだけが肋骨を満たすのだろう。

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