いつかの残香2

 閃爍せんしゃくな白日を見上げて、ベンチの背もたれに寄りかかる。時刻はまだ昼前か、ちょうどお昼時だろうか。食堂車でケーキとフィッシュアンドチップスを食べたから空腹感はなかった。陽だまりの暖かさが心地良くて微睡む僕の意識を、ユニスが呼び留めた。


「メイさん、私の帽子、ちょっとずれてません? 直して欲しいんですけど」


「え、ああ。ちょっと待ってね」


 向かい合ったユニスの、生成り色をした柳髪がさらさらと揺曳ようえいしている。長い睫毛がまたたき、そよ風を煩わしそうに受け止めていた。修道女の頭巾を思わせる帽子は薔薇のレースで縁取られていて、後頭部から背中にかけてベールが零れ落ちている。横髪に被さるよう垂下している紐は本来首の下で結ぶものだと思われるが、彼女はいつもそれを結んではいなかった。帽子がずれている、と言われたものの、帽子の側面に付いている蝶の飾りも傾いているようには見えない。どこがずれているのか、一花のあいだ黙考してしまった。


 とりあえず整えるために触れてみよう。そんな思いで手を伸ばせば、ユニスが跳び上がる勢いで後退していた。人に慣れていない野良猫みたいな反応に苦笑してしまう。


「……ユニス」


「ご、ごめんなさい。やっぱり駄目みたいで」


「手枷外そうか? そうしたら自分で直せるでしょ」


「いえ、本当は、帽子が気になったんじゃなくて。触れられることにもっと慣れたくて……」


 どうりで、と納得した。やはり帽子はずれていなかったのだ。ユニスは、情けなさからか、或いは羞恥からか、どんどん俯いて小さくなっていく。薄暗い影を落とすその顔を覗き込むと、少しだけ彼女の眼差しが持ち上がった。僕は彼女に笑いかけて、長い金糸の隙間に手を伸ばした。


 ユニスの肩が弱弱しく震える。けれど今度は避けられない。だからそのまま、彼女の頬を両手で摘まんだ。口角を持ち上げるように引っ張ると、柔らかな頬はチーズみたいに伸びる。それがおかしくて笑う僕と、瞠目して固まるユニス。彼女ははっとしてから、犬みたいに頭を振るって僕を振り払った。


「なっっなにするんですか!」


「ご、ごめん……! 笑って欲しかったんだけど、嫌だった?」


「い、やでは、ないですけど! 私のほっぺが伸び伸びになったらどうしてくれるんですか!」


「伸び伸びって。っふふ、よかった。元気になったみたいで」


 顔を赤くして頬を膨らませるユニスに咲笑えわらう。僕が触れたことで蒼褪めてしまうかもしれないと眇たる不安があったが、安心した。ユニスは自身の顔に両手を当てて、マッサージでもするみたいに頬の形を整えている。朗笑を浮かべて見守っていたら、彼女が腰を折って僕に鼻先を近付けた。


「メイさんは、あんまり暗い顔しないですよね」


「え、そんなことないよ」


「……列車での魔女と、あの男の人のこと。メイさんは、もう気にしてませんか? どうしてそんなに早く、気持ちを切り替えられるんですか。私はまだ少し、エドウィンのこと引き摺ってるのに」


 長い睫毛の艶が見えるほどユニスを見つめた。真剣な眼を前にして、僕はゆっくりと交睫こうしょうする。


 黒一色のような、はたまたいくつもの色が明滅しているような眼裏に、列車での出来事が浮かび上がる。目の前の人を守れなかった悔しさは消えたわけではない。仕方がないと飲み下しただけで、あの苦々しさはまだ舌根に纏わりついている。けれど今の僕にとって、その苦味はもう過去のものだった。


 味のしない唾液を嚥下して僕は少しだけ笑った。 


「ユニスの悩みは、エドウィンと話すことで解決できるものなんじゃないかな。そういう『解決したい悩み』って言うのは、解決するまで引き摺ってしまうんだと思う。けど僕が……魔女に殺されたあの人を守れなかったことは、悔やんでいたってなにも解決しないでしょ」


「そう、ですね……」


「だから、僕だって、何か解決したい悩みがあったら、スッキリするまで思い悩むと思うよ。僕が強いわけでも、ユニスが弱いわけでもない」


 慰めは届いたのかどうか分からない。ユニスは唇をへの字に曲げたり、小さく口を開けたり、一文字に引き結んだりと落ち着きなく面色を変えていたが、結局相槌だけが返される。頭を撫でてやれば気が紛れるだろうか、と持ち上げた指先は風に触れたまま固まった。


「二人とも! 馬車の手配が出来たからついておいで!」


 聞き慣れた大声と、注意を引くように手を叩いた音が、僕の肩を跳ねさせる。いつの間に戻ってきていたのか、オッサンが僕達のベンチをニコニコ眺めていた。


 彼の肩には黒茶色のロングコートが掛かっているだけで、数刻前まで彼に凭れていたエドウィンはそこにいなかった。


「オッサン、エドウィンは?」


「馬車に乗せてきたよ。御者が見守っててくれてる。メイちゃんかユニスだったら誘拐の心配があるから置いてきたりしないんだけどね! エドウィンを誘拐する物好きはいないだろう!」


「まあいないだろうけど……」


 僕達を誘導する足付を追いかけて石畳を鳴らしていく。ユニスも無言のままベンチから跳ね降り、僕と肩を並べて歩いた。通行人の多い駅前から離れていくと人通りも疎らになり、大きな馬車が道の端に見えた。


 黒い車体は艶めき、金の装飾が施されていて、どこかの貴族が乗っているみたいだった。僕達が乗る馬車はどこに、と左右を見ながら歩いていれば、オッサンに「アレだよ」と引っ張られていく。


 彼の言うアレ、とは、僕が瞥見して目を逸らした、あの豪奢な馬車だ。僕が田舎者なだけで、もしかするとあれは一般的な辻馬車なのかもしれない。初老の御者が開けてくれた扉の中を覗き込み、なんだかワクワクしてくる。列車に乗った時もそうだったが、僕は初めて乗る乗り物に胸が躍るみたいだった。


 オッサンに促されて僕が乗り込むと、四人掛けの車内でエドウィンが眠っていた。壁に肩を預ける彼の隣に、僕は腰を下ろす。次いでユニスが斜め前に座って、オッサンが彼女の隣に着座した。


 突き合わせた膝がぶつかることもなく、隣にいるエドウィンとの距離もそれなりに空けられる広さに、視線が落ち着かない。柔らかな背もたれに肩甲骨を沈めて嘆声をこぼした。


「馬車って初めて乗るけど、結構広いし綺麗なんだね」


「私も初めて乗りました。座り心地も悪くないですね」


「当たり前じゃないか、可愛い女の子二人が乗るんだから良い馬車にしてもらったんだよ。金の力でね」


 朗らかに話すオッサンの長い指が、丸いコインを象る。彼の言葉が冗談なのかそうでないのかは定かでないが、確かに彼は金持ちだし、気にしないことにした。


 オッサンは街で何か買ってきていたのか、紙袋を漁っている。取り出されたのはチョコレートで、彼はユニスの口元にそれを運んであげていた。


 餌付けされているユニスから目を逸らし、窓の外を眺望する。住宅街から離れた馬車は麦畑の傍を通っていて、金に波打つ稲穂から上風の流れが見て取れた。通り過ぎた木から数羽の鳥が羽ばたき、雲一つない青空を色付けていく。


「あと少しで、エドウィンの故郷か……」


 独り言ちてから、オッサンに聞きたいことがあったのを思い出した。エドウィンに対しては口うるさい父親みたいになる彼。そんな彼しか知らないエドウィンのことを、僕も知りたかった。


「ねえオッサン、昔のエドウィンってどんな感じだったの?」


「うん? 私に聞かれても、故郷にいた彼のことは知らないよ。私が知っているエドウィンは……彼の故郷が魔女に荒らされて、辛うじて生きていた彼を連れて帰ってからの姿だけでね。あの頃はまだ、メイちゃんみたいだったな」


「メイさんみたいなエドウィンって、想像できないですね」


「僕もイメージ出来ないや。今のエドウィンよりもっと元気だった感じ?」


「元気というか、反抗期の子供みたいだったね。いや、十五歳だったから、『みたい』というか実際反抗期の子供だったかな。ローストビーフを出したら生肉なんて食べないとか文句言うし、ベイクドビーンズは要らないとか言い出すし、ブラッドソーセージなんて二度と出すなって怒られたよ」


 眠っているエドウィンの側顔そばがおを諦視する。彼の冷艶な目顔からは、我儘を言う子供を上手く想像できない。それはユニスも同様だったようで、口をあんぐりと開けていた。


「えぇ……意外です。エドウィン、少食だけれど好き嫌いはあんまりなさそうなのに」


「食べず嫌いが多かったかな。彼の村では見ない食べ物が多かったのかもね。けど、なんでも口に突っ込んであげてたから、今はあんまり好き嫌いせず食べるようになったよ」


「食べたくない食べ物を口に突っ込むって、悪魔かよオッサン……」


「食べられるようになったんだから良いことじゃないか!? 私のおかげだね!」


 顎を高く上げて手柄顔をしている彼に、僕は冷ややかな半眼を向けた。そんな視線を気に留めず、オッサンは相変わらずニコニコと解顔したまま喋々する。


「今は反抗期も終わって、気が利くし落ち着いた良い子になったけど……無茶ばかりするのも、諦めが悪いのも昔から変わらないね。まあ、私はあの子のそんなところが気に入っているんだが……」


 オッサンが今脳裏に映し出しているエドウィンの姿は、きっと僕もユニスも知らないものだ。オッサンだけが知っている彼の話を、一人懐かしく語っている。それに気付いたようで、柔和な目元を一瞬見張ってから、緩やかに細めていた。


 もう少し昔話をしようか、と、彼は窓外の景色を見霽みはるかし、片笑みを浮かべた。

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