第二章

いつかの残香1

     (一)


 魔女に関する確認は終わったのか、マスターオッサンに出発を促され、僕が先陣を切って運転室から外へ出ることになった。


 目路の中でいもうとの白髪が舞い上がる。着地した地面を踏みにじったら、砂と草がざらついた音を立てた。


 森然とした植物の幽香に鼻を顰めてからエドウィンを探すべくあたりを回視する。彼はすぐに見つからない。不思議に思って首を傾け、踏み出した爪先が何かに躓いた。


 ほの暗い翠影に身を委ねた人影──エドウィンは、糸の切れた人形のような様相で、地面に横たわっていた。


 重力に従って流れ落ちる黒髪の、その隙間から窺える氷肌はいつにも増して青ばみ、唇から息吹がこぼれているのかさえわからない。華奢な彼が羽織っているトレンチコートのせいで、呼吸によって肩が上下しているかも定かでなかった。


 慌てて彼の傍に膝を突き、白らかな細腕を持ち上げて脈動をたしかめる。僕の親指に彼の心拍が伝わって愁眉を開くも、意識のない彼を見つめるほど不安が胸裏に充盈じゅうえいしていく。目を覚まして欲しくて彼の肩を揺さぶった。


「エドウィン! エドウィン!?」


「メイちゃん、どうしたんだい!?」


「っオッサン、エドウィンが……!」


 列車から飛び降りて来たオッサンが僕とエドウィンの向こう側に回り、彼の状態を看ていく。血塗れの服が捲られて露わになった痩身に生傷はなく、古傷のような痕だけが見て取れた。オッサンは彼の衣服を正すと、今度は瞳を確認していた。


「腹部の傷口が開いたわけではなさそうだし……血が回復していないことで貧血になったのか、魔力が回復していないから気を失ったのか……両方かな。それとも……」


 意識のない虚ろな明眸を瞼で隠し、オッサンが険しい面立ちで彼の躯幹を眺める。やはり魔女に貫かれていた傷が未だ彼の身を苛んでいるのだろうか。


「な、なに。他にも原因があるの? エドウィン、大丈夫なの?」


「──私の、せいですか……?」


 消え入りそうな声音に振り向く。まだ列車に残っているユニスが憂慮を宿した両目で僕達を見おろしていた。言葉に詰まっていると彼女は続ける。泣き止んだばかりだというのに、また泣き返ってしまいそうな涙声だった。


「エドウィン、魔女と戦った後で消耗していたのに、私が思いっきり突き飛ばしてしまって……いえ、それよりも、私を守って地面に打ち付けられたから、それで……!」


「っユニスのせいじゃないから! 落ち着いて、大丈夫だよ……!」


 木漏れ日を浴びてきらめく団栗眼どんぐりまなこをじっと見つめた。落涙の音を聴きたくなかった。伝播してくる自責の念を振り払いたい。僕まで自分を責めて、ユニスと共に泣き出してしまいそうになる。それを必死に堪え、安心してくれと訴え続けている間、樹葉を揺らす颯声だけが時の経過を奏でていた。暫くして、場違いなほどの朗笑が項の向こうで上がった。


「ユニスもメイちゃんも、まるでエドウィンが死んじゃったみたいな顔して……子供って本当に可愛いよねぇ」


「っオッサンはこんな時でもふざけてられるんだな」


「生きてるから大丈夫、そのうち目を覚ますさ。葬式みたいな空気を流さないであげてよ。起きたらいっぱいご飯食べさせてあげよう。栄養不足のせいかもしれないしね!」


「栄養不足って……でも確かに、エドウィン、今日はケーキを二口くらいしか食べてないかも」


「まったく、本当この子は……」


 オッサンがエドウィンを細目で見るなり咨嗟しさを吐き出す。オッサンは僕達を子ども扱いしているが、彼にとってはエドウィンも僕達同様子供なのだろう。いや、僕やユニスに対しては、知人の子供を預かった大人みたいに甘い対応だが、エドウィンに対する顔は実子を叱る親のように思えた。過ごした年月の問題なのだろうか。彼の知っているエドウィンを僕も知りたくなってしまって、問いかけようとしたものの、話し出したのは彼の方が先だった。


「エドウィンは私が担いで、とりあえず線路を辿って次の駅を目指そう。そこで馬車を手配してから彼の村に向かった方がいい」


「……わかった。オッサンが疲れたら僕がエドウィンを運ぶよ」


「ははっ、メイちゃんは逞しいね。でも私としては女の子にそんなことを任せられないし、エドウィンだって目覚めた時に女の子に抱えられてたなんて恥ずかしくて死んじゃうかもしれないから、お兄さんが頑張るよ」


「お兄さんって誰。オッサンでしょ」


「そこ訂正されちゃうのかい!?」


 エドウィンの腕を肩に回したオッサンが大げさな勢いで僕をかえりみたが、僕はそれよりも隣に降り立ったユニスへ視線を引きつけられた。彼女の表情は硬いものの涙は乾いたようで、藤色の瞳は綺麗な玻璃のごとく澄んでいた。「行くよ」とオッサンに言われて、僕もユニスも彼の足跡をたどり始めた。


 隣を歩くユニスをちらと窺う。少しばかり俯いた童顔は地面を眼差していて、マスターとエドウィンの影を追っているみたいだった。顔色が暗く見えるのは、木暗がりのせいだけではないだろう。驚かせないようそっと近づいたら、彼女が小さく肩を跳ねさせ、僕を見上げた。


「メイさん、どうしました?」


「いや……ユニス、大丈夫かなって。エドウィンだって、ユニスが悪いなんて一切思ってないよ」


「……分かってます。あの人は、そういう人ですもの。冷たくて、ぶっきらぼうで、でも、理不尽に怒ったり責めたり、あんまりしないんですよね」


 彼女の声差しは先程よりもずっと落ち着いていた。それに安堵していれば、今度は彼女が僕に近付く。互いに歩みを進めながら見つめ合う。彼女が何かを言いたいのであろうことはその目見から伝わってきていた。だからこそ言葉を待っているのだが、緊張した様子で何度も開口と閉口を繰り返されて僕まで緊張してくる。


 暫くして、ようやく意を決したユニスが僕に言問う。


「ねぇ、メイさん。エドウィンが起きたら、二人きりになりたいです。あとで……彼の時間を、少しだけ私にくれませんか」


 思いもしなかったお願いに面食らって反応が遅れる。彼女の問いかけを頭の中で繰り返し、味解してから笑声を吹き出した。


「エドウィンが起きたらエドウィンに言ってよ。僕が許可するようなものじゃないでしょ」


「メイさんにも言っておかないと二人きりにはなれないじゃないですか。マスターも、お願いします」


「ああ、構わないよ。ふふ、青春だね」


「はい?」


 顔だけを振り向かせたマスターの背中に、ユニスが吊り上がった瞋目しんもくを突き付ける。彼はへらへらと笑ったまま、長い髪を揺らして進行方向へ視点を戻していた。


 木香を散らした風に目を細め、羽織っているケープを引っ張って整える。今朝エドウィンに『薄着は避けろ』と言われて着てきたものだが、彼の言う通りにして正解だった。表皮に触れる空気はほんのりと冷たい。


 オッサンはコートを着ているが、ユニスはいつもと変わらない服装だ。寒くないだろうかと打見してみるも、寒がっている様子はない。横髪を風に弄ばれても、ユニスは静淑な佇まいを崩さなかった。


「私、エドウィンにちゃんと謝りたいですし、ちゃんと……私が思っていることを彼に聞いて欲しいんです」


「じゃあ、僕はエドウィンの故郷に着いたらオッサンと色んな書物を見てくるから。ユニスはエドウィンを休ませて、看ててあげて」


「わかりました」


 微笑んだユニスに僕も笑い返し、道の先を見据える。いつのまにか木々の茂る道を抜けていたらしく、見回す景色は拓けた場所になっていた。敷かれた線路を踏み越えていけば喧騒が聞こえてくる。

 やがて陽光が屋根に遮られ、建物が見えてくる。列車を待ちながら談笑する家族や、荷物を持って線路を横断していく人、待ち時間が退屈なのか走り回って遊んでいる子供。駅構内はそれなりに混雑していて、各々が自分の世界に夢中なおかげで、線路の方から歩いて来た僕達を訝しむ人はいなかった。

 それに胸を撫で下ろしていれば、オッサンが満面の笑みを振り向かせてくる。


「駅に着いたね! 思いのほか近くてよかったよ!」


「オッサンは元気だな……」


「え、メイちゃんは元気ないのかい!?」


「今のはオッサンの声がうるさいって遠回しに言ったんだよ」


「メイちゃんはいつになったら私にも優しくしてくれるのかな……悲しいような嬉しいような……」


 冷たくされて嬉しいとも思える彼に口端が引き攣る。人海を掻き分けていく長身を追いかけて、僕達は駅の外へ出た。見慣れない街の景色をぐるりと眺め遣る。遠くにスイーツのお店を見つけて、美味しそうだなと目を凝らしていたら袖を引かれた。


「二人とも、あのあたりで少し待っていてくれるかい? 馬車を探してくるから」


「ああ……うん。ユニス、あそこに座ろう」


「はい」


 道の端に点々と置かれているベンチを指さして、ユニスと歩幅を合わせ歩いていく。オッサンはエドウィンを引き摺ったまま、色々な店が並んでいる街路へ進んでいった。


 二人の背が見えなくなった頃、隣に座るユニスが思い出したように「あ」と桜唇を開けていた。


「そういえば、列車を切り離す前に必要最低限の荷物しか持ってこれなかったんですよね。だからメイさんごめんなさい」


「えっなにが? 必要なものとか、大切なものは身に着けてるから大丈夫だよ」


「いえ、あの、エドウィンお手製のサンドイッチが……」


 僕にとって大切なものなんて、この肉体と、ケープの襟に通してリボン結びにしているストールくらいだ。エドウィンからもらった紺色のそれを撫でていたら、ユニスの一言につい手が止まった。


 思い返した記憶の中で美味しそうに艶めくフルーツサンド。卵とチーズが溢れそうなほど挟まれたサンドイッチに、サーモンと小エビがたっぷり挟まれたサンドイッチ、香ばしく色付いたベーコンとレタスのサンドイッチ。


 すべてが美味しそうなことに加えて、エドウィンが朝から僕達のために作ってくれたことも考えると、後悔しかなかった。やはり列車の中で食べておくべきだった。

 あまりの悔しさに、両手で額を覆って項垂れる。


「それは……食べたかった……」


「か、帰ったらまた作ってもらいましょ!」


「うん……」


 サンドイッチの悲しみから顔を持ち上げて、オッサンが歩いていった道を凝望する。すぐには戻って来ないだろうが、エドウィンのことがまだ心配だった。雑踏を見ていると時折知らない人と目が合ってしまい、気まずくなって街衢がいくから顔を逸らした。

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