凋落4

 フライドポテトを味わいつつ空の青さを確かめる。晴天が天陰ひしくことはなく、日輪が耀映ようえいとしていて胸を撫で下ろす。このまま糸雨しうさえも降らなければいい。せっかくサンドイッチを作ってもらったのに、外で食べられなかったら落胆する自信があった。


 食べ物を食べながら食べ物のことを勘考している自分にハッとして微苦笑が顔を賦色ふしょくしていく。ユニスの影響を受けているのかもしれないと思ったが、僕は大食なわけではないから、食欲旺盛なユニスとは違う。


 多分、好きな人達と食事をするのが楽しいからだ。普通の家族みたいに旅行やピクニックをして、何も気にせず逸遊いつゆうと笑い合えるのが、嬉しくてたまらない。家族と幸せに過ごす日々を夢見たところで、そんなものは徒夢あだゆめでしかなくて、叶わないものだと思っていた。ずっと憧れていたものに手が届いたようで悦喜えっきした。


 けれども、眼裏まなうらで『家族』の姿を見てしまう。妹の哀咽あいえつが思い出の匣から溢れ出して、僕を呪うように悵然ちょうぜんと泣き続ける。


 病死した母を救う術は本当になかったのか? 妹と僕が縫い繋がれる前に、本当に逃げられなかったのか。そんな追悔ついかいが無意味なことはわかっている。


 奥歯を擦り合わせて牙噛きかんだ。


 孱弱せんじゃくな子供のままでいたくはない。だから後ろを向くのはやめたはずだ。元に戻したいんだろ。色の違う二つの粘土を無邪気に捏ね回すように、一つの肉体に旁魄ほうはくされた『僕達』を。


 僕だけが存生ぞんじょうしてしまったことをいつまでも傷悲しょうひしたくはない。心骨しんこつで、熄滅そくめつしてしまいそうに揺らぎ続ける決意へと薪を焚べる。この世に跡留あととむことが出来た僕だからこそ成せることを、しかと成せ。


 己に言い聞かせていたら、目の前でユニスの袖が飄揺ひょうようと踊った。


「わっ、なに!?」


「なにって、メイさんが怖い顔して固まってるから呼んでたんですよ。魚のフライに骨でも入ってました?」


「入ってない。美味しいよ」


「ふむふむ、ではお一つ下さい。あーん」


「手枷してないんだから自分で取って食べなよ……っというか、列車に乗ってからずっと手枷外してない? 大丈夫なの?」


 ユニスは他人との接触にトラウマを抱えており、いつもなら自分を守るために拘束具で両腕を覆っている。マスターオッサンやエドウィンにその拘束具を外してもらっているのを時々見かけるが、それも何かを食べる際くらいだ。


 無畏むいな佇まいで平然としていたから気付くのが遅くなったものの、思い返してみるとコンパートメントから食堂車に来るまでの間も、彼女は手枷をしていなかった。所持していないところから、恐らくオッサンが預かったままなのだろう。


 繊手せんしゅが白身魚のフライを一つ摘まんで持っていく。


「大丈夫じゃないですけど大丈夫です」


「つまりどういうこと?」


「……メイさんやエドウィンやマスターがいる間は、外してても大丈夫な気がする、と言いますか……。大丈夫、になっていかないと、いけないような気もして、少しずつ手枷を着けない時間を伸ばしてみたり──っなかなか美味しいですねこの魚!」


 真剣な話の流れを断割だんかつするユニス。誤魔化された気もするが、ユニスが自身の弱さに叛意はんいを抱えていることはよく分かった。苦手なことに立ち向かい、踏み越えていこうとする彼女を素直に尊敬する。だが同じくらいの大患たいかんも、横溢おういつと込み上げてきていた。その心配は口にしない方がいい、と、なんとなく思った。


「……なんだ?」


 エドウィンの独り言は珍しく、僕もユニスも彼を窺ってしまう。彼の采色さいしょくは砥がれた鋒鋩ほうぼうみたいに鋭い。索索さくさくとした胸騒ぎが一時だけ僕の味覚を奪っていて、呑み込んだフライドポテトは味がしなかった。


 食堂車よりも奥の車両で、子供が哭泣こっきゅうしていることに心付く。泣き返った子供の哀号あいごうは次第に大きくなる。悲啼ひていはあまりに喧狂けんきょうで、その異常さに肩を震わせて畏伏いふくしてしまいそうだった。


「なにか、あったのかな……赤ん坊の泣き声とも違う感じがするし……」


「……不審者が現れたとか、殺人事件みたいなことが起きていなければいいが」


「そういえば私がぶつかった男の人が言ってましたね。鼓膜が破れそうなほど子供がわーわー泣いてたって。よっぽど泣き虫の子が乗っているとか、虐待されてるとか、お金持ちの人が、奴隷でも連れてるとか」


 彼女の言貌げんぼうに翳が落ちる。怨言えんげん吐却ときゃくする蒼白い顔容。玩弄がんろう物として扱われていた過去に歯噛みしているみたいだった。おそらく彼女はまだ、汚泥のような雑穢ぞうえが自分に纏わりついていると思っている。己の細腕を抱いた彼女の指先は、袖に深い皺を刻んでいた。


 隠隠いんいんと、独りきりの世界に閉じこもるみたいに、彼女が頭をかぶす。しかし頻闇しきやみに沈んで行きそうなユニスを、温言おんげんが引き上げようとしていた。


「もしそうだとしても、その子供はお前じゃない。今のお前は奴隷なんかじゃないし虐げられてもいない。俺もメイもマスターも、お前が嫌がることはしないし、もし嫌なことや欲しいものがあったらなんでも言っていい。とりあえず今は……そのケーキを食べきるんだな」


 寒声かんせいにも聞こえるエドウィンの声遣いは僅かに途切れ途切れで、慰めることに慣れていないのが僕にまで伝わってくる。伏し沈むユニスへ、僕も温かな気味合いで励ましたくなった。


「ユニス、大丈夫だよ。僕は君を守りたいって、言ったでしょ。その気持ちは変わらない。何かあっても、僕もエドウィンも君を守るから。君を一人ぼっちで泣かせたりなんかしないからね」


 こくん、と、小さな頭が頷く。ゆっくりと面を上げたユニスが打見したのはエドウィンのいる方向。彼のティーカップの隣を、繊指せんしが示した。


「チョコケーキ、食べたいです。エドウィン、取って」


「ああ。……ユニス、ほら」


 ユニスを慰解いかいするような優しい声音。彼は片手で皿を持ち上げ、もう片方の手で一口大に切り分けたチョコケーキをフォークで刺すと、ユニスの方へ差し出していた。食いつこうとしていたユニスが、はたと固まって、拳をテーブルへ叩きつけた。


「た、食べさせてなんて言ってません! そんな恥ずかしいことよく出来ますね!?」


「……悪い、子供相手だとつい……」


「五歳しか変わらないんですから子供扱いしないで──」


「うわぁあああ!?」


 卒然そつぜんと、男性の悲鳴が上がった。それを皮切りに、食堂車には泣哭きゅうこくが鳴り満ちる。助けてと鳴りかかりながら後方車両へ走り出していく人達。驚怖きょうふする彼らを横目に、僕が席を立って振り向くと、前方車両へ繋がる扉の前に少年が立っていた。


 窓硝子を割りそうなほどの喧擾けんじょう充盈じゅうえいしていく中で、ただ唸っている少年。その手には女性の首が握られていた。頭部を失くした断面から溢れる腥血せいけつ。四肢までも千切られた、マネキンのような躯幹くかん朱殷しゅあんが彼の足元を満たしていく様に惨慄さんりつして立ち竦んだ。


 腥羶せいせんたる血の臭いが鼻を刺す。震恐しんきょうして尻餅をついている女性の前に、エドウィンが立った。


「立てますか」


「え、あっ、あ……」


「……メイ、ユニス。彼女を安全なところに避難させてくれ」


 エドウィンはこちらに背を向けると、傍にあったテーブルの上からナイフを手に取っていた。戦闘用のナイフを所持していなかったからか、食器で代用するつもりのようだった。僕達が会遇かいぐうしたあの少年が何であるのか、彼はけだしく見当が付いているのだろう。普通の子供とは懸絶けんぜつした異様さに、僕もアレが『魔女』なのではないか、と感じていた。


「エドウィンはどうするんですか!? 私も残ります!」


「残ってどうする。武器がなければ戦えないだろ。一度コンパートメントに戻って──」


 虚ろにどこかを見つめていた少年が、僕達を斜眼しゃがんする。ひっ、という女性の恂慄しゅんりつを耳にしてすぐ、僕は彼女を抱き上げた。


「エドウィン、すぐ戻るよ。ユニスも早く!」


「わ、かってます!」


 少年の哀叫あいきょうが耳を刺す。今にも泣き出しそうな悄愴しょうそうで染まる泣き声。それを無視して駆け出した。錚然そうぜんとした刃物の衝突音と、エドウィンの舌哭したなきが重なる。彼なら大丈夫だ、と自身に言い聞かせて食堂車を飛び出した。


 のんびりしていられない。空気を切る速さでうぐつく。震怖しんぷする女性を強く抱きしめて先を急げば、の如く集まっている乗客達に足止めをされる。この先にたぶれ人がいるなどと思いもしないのか、食堂車へ近付こうとする者達。彼らを近付けさせないよう説得しなければならないことに煩冗はんじょうを覚えながらも、僕は叫んだ。


「食堂車に行っちゃダメだ! 人が殺されてる! 危ないから逃げてください!」


 死人が出ていると聞いた彼らは、この先にどれほどの危殆きたいが待ち受けているか理解したようで、蒼褪めた顔でいわく。そうして焦るあまり、転びそうな足取りで逃げ出す人や、大塊おおぐれな男性になんとかしろと泣きつく人、列車の乗務員に怒鳴る人などが立ちとよむ。


 一人一人の声など聞き取れないほど煩擾はんじょうする彼らを前に、どうするべきか思考する。ひとまず抱えていた女性を近くにいた乗務員に預けることにした。


「この人を安全なところまでお願いします」


「あ、ああ。君も早く避難しなさい! ──エリック達は犯人の確保に向かってくれ!」


 二人の乗務員が彼の指示で食堂車へ向かおうとする。乗客にもしものことがあっても守れるよう訓練を受けているのかもしれないが、それでも魔女を相手にするのは死にに行くようなものだ。乗客のように惑乱わくらんしてくれたなら良かった。けれども彼らは正義に従い足を踏み出す。僕は慌てて彼らの進行方向へ躍出やくしゅつした。


「っ待ってください危ないんです!」


「大丈夫だよお嬢さん、私達は乗客の皆さんを守らないといけないからね」


「そ、れは、そうだけど……! あんなの相手にしたら貴方達が死んじゃうって!」


 彼らの命はすぐに散ってしまう徒物あだものだ。魔法について知らない人間が魔女と相対したところで、殺されずに在りつことなど出来ないだろう。魔女は和談わだん出来る相手ではないのだ。僕は彼らに生きとまってほしい。どうすればこの意念いねんが伝わるのか分からず、唇を噛み締めて彼らを見上げるしかなかった。


 いっそのこと、食堂車に近付けば殺すと威迫いはくした方がいいのかもしれない。自分たちでは敵わない相手に立ち向かい、禍敗かはいを味わわせるよりは、どんな手を使ってでも引き止めるしかないと思った。けれど上手い言葉は見つからず、無言のまま歯切はぎりして、乗務員の袖を強く握ることしか出来ない。すると彼が、僕の頭に手をのせて優しく按撫あんぶしてくれた。


「お嬢さん、心配してくれてありがとう。君も早く奥の車両まで避難を」


 震悚しんしょうしながら逃げていく乗客の波に逆らって、見慣れた男がこちらへ走ってきていた。白橡しろつるばみの長髪を振り乱し、マスターオッサンが僕と乗務員の影を荒々しく踏み付ける。難色なんしょくで顰められた彼の顔は真っ直ぐ乗務員だけに向けられていた。


「そんなところで何をしているんだ! 列車の乗務員ってのは客も守れないのかい!? 早く犯人を捕らえないか!」


「す、すみません。今から向かうところで……」


「そっちじゃない、向こうだ! 奥の車両で人が撃たれて、犯人が人質を取ってる! 早く行ってくれ!」


「え? けど皆さん前方車両から逃げてこられて──」


 乗務員の男性の声を遮ったのは、少女の悲鳴と数度の銃声。食堂車に向かおうとしていた彼らは顔を見合わせ、オッサンに頭を下げてから後方車両へ走り出した。オッサンは息を一つ吐いてから沈静ちんせいと熱を静め、僕を見て微笑んだ。彼は腰を屈めて僕につつめく。


「これで大丈夫だ。私達はエドウィンに加勢しに行こう」


「大丈夫って、時間稼ぎにしかならない……! だって今の悲鳴と銃声ってユニスだろ⁉ 不審者がいないと分かればすぐこっちに戻ってくる!」


「時間稼ぎで良いんですよメイさん。早くそっちの車両に移ってください」


 僕たち以外誰もいなくなった車両に現れたのはユニスだ。乗務員が素通りするよう、どこかの部屋コンパートメント屏息へいそくして待機していたのだろう。オッサンに着けてもらったのか、華奢な諸腕もろがいなは拘束具でおおわれていた。その掌裡しょうりにはきっと、まだ拳銃が握られているはずだ。じっと彼女を見つめていたら、彼女は呆れたように吹嘘すいきょする。


「はぁ……メイさんってば、なに私に見惚れてるんです?」


「え、違うけど……」


「分かってますけど! 冷静に否定できるのなら冷静に判断して早く隣の車両に移動しなさい! さっきの乗務員が戻ってくる前に前方車両と後方車両を切り離しますから!」


 説明されてようやく彼女らの作戦を理解する。先に前の車両へ移っていたオッサンに続いて僕も急いで移動する。ユニスが僕の隣へ踊りる。響いた靴音が消えていくまでの寸隙すんげき。そののち、筒音が轟いた。袖のフリルが舞い上がる。垣間見えた拳銃の火身かしんはユニスの魔力のせいか煥然かんぜんと光って見えた。それは錯覚かもしれないが、強い魔力が込められていたのは確かだ。たった一発の透明な弾丸は車両の結合部を圧砕あっさいし、僕達のいる前方車両と、他の乗客や乗務員がいる後方車両を切り離した。


「ユニス、すごい……!」


「ぶ、無事切り離せてよかったのですが……ちょっと、魔力を込めすぎました……耳鳴りが……」


「後は私とメイちゃんとエドウィンに任せてくれればいいさ。ユニスは安全なところで待っていて」


 労おうとしてか、頭を撫でようとしたオッサンから勢いよく身を引くユニス。普段通りの様子で、整った紅顔こうがんを苛立ちで染めていた。


「触らないでください!」


「ああ、済まないね……いや、帽子の上からならエドウィンには触れさせてるじゃないか⁉」


「たっ……確かに服の上からなら耐えられますけど! 嫌なものは嫌なんです! いいから早くエドウィンのところへ行きますよ! 私も一応近くで待機しますので!」


 僕達を足早に追い越したユニスの、聖水みたいな香気こうきがふわりと散った。遠くから高く聞こえてくる鍔音つばおと啼哭ていこくに、僕は唇を噛み締めた。やがて銃声が耳を突き、焦慮が込み上げる。


 足早に食堂車へ踏み入れば、敵影てきえいが遠くに見える。そこにはエドウィンと、魔女と思われる少年と──少年を庇蔭ひいんするように立ちはだかる、壮年の男性の姿があった。


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