凋落2

     (二)


 コンパートメントの扉を閉めたエドウィンから目を逸らし、僕はユニスと並んで歩を進めた。彼と二人きりだった先刻、結局本心を吐き出せず、適当なごとばかり連ねた己に項垂れる。まるで彼のことを『恋愛的な意味で好きだ』と告げてしまったような失態を、上手く弥縫びほうすることは出来ただろうか。


 もちろん僕は、彼に恋愛感情を抱いているわけではない、と思う。女の子いもうとの肉体になったとはいえ、僕は男だ。男性である彼に恋などしないだろう。だけど彼に対する『好き』は特別なものだった。これがもし恋なのだとしたら、彼に嫌われるのではないかという煩憂はんゆうばかりが胸宇きょううを巡る。しかしいつまでも胸次きょうじを曝け出せないのは息苦しかった。


 思いの色が彼に気取られないことを祈る。虚勇きょゆうでもいいから、逃げることなく告白出来る勇気が欲しい。無告むこくに悩まされる日々は息が詰まるが、僕が自ら明かすまでは何も知られたくない。僕が男であることも、特別な思いも。いつか、絶対に、自分の言葉で正直に告げたかった。


 優柔不断におぼめく気持ちから意識を逸らした。焦思しょうししていたせいで寄っていた眉間の皺を指で押さえた。明昼あかひるの陽射しはひどく眩しい。視線を落とすと、あゆく紐が腕に纏わりついていた。左上腕部に縫い付けられた魔女の証。エドウィンは、多分コレが嫌いだ。魔女を憎んでいる彼が、時々この紐に睚眦がいさいを向けているのを知っている。僕に嫌な思いをさせないようにか、彼は苦り切った顔をすぐ無表情で覆い隠していた。


 彼に少しでも嫌悪されたくないため、この紐もいつかはどうにかしないといけない。と、そこまで擬議ぎぎしてから、彼のことばかり考えてしまう自身に、喟然きぜんと息が漏れた。これでは本当に、恋心になずむ少女ではないか。


 エドウィンに対する気持ちは、兄がいたら彼みたいな人なのだろう、というものだ。しかし、彼に撫でられたい、褒められると嬉しい、優しく笑ってくれる顔を見ると抱き着きたくなる、という思いが、ユニスに勧められて読んだ恋愛小説のヒロインと依稀いきしていて、複雑な気持ちになる。いや、だが、親にだって撫でられたいし褒められると嬉しいし笑っていて欲しいものだろう。決して恋では──。


「メイさん、メイさんってば、聞いてます? メイさん、さっきからなんで難しい顔してるんですか?」


 肩口に触れた息差いきざしにびっくりして体が跳ねる。聖水の衣香いこうをほのかに振り撒いて、ユニスが僕の腕を軽く叩く。ぶつけられる袖のフリルがぱたぱたと揺曳ようえいしていた。


 リスみたいに頬を膨らませている面形おもかたを前にしたら、強張っていた表情がほぐれ、僕は緩頰かんきょうしていった。


「ごめん、なんでもないよ。そうだ、ユニスが勧めてくれた本、読み終えたから今度返すね」


「早いですね……! 面白かったでしょ!」


 煥乎かんことして両目を輝かせるユニスに微笑する。本当にあの小説が好きなのだろう。男の僕が読んでも面白いと感じたため、良く出来た物語だなとは思った。莞然かんぜんと笑いかけながら、ふと、小説の話題に乗じて自身の悩みに答えを出せるかもしれないと考えた。モヤモヤし続けるこの鬱懐うっかいを晴らしたくて、さりげなく問いかける。


「ユニスも誰かに撫でられたいとか思うことあるの?」

「はい!? 私は触られるの嫌いなんですよ!?」


 勢いよく顔を上げて僕を平視へいしするユニス。真明まさやかな羞恥が花貌かぼうを赤く染めていて苦笑してしまう。そんな僕から顔を背けると、彼女は唇を尖らせながらも真剣な音柄ねがらで続けた。


「でも、過去に何もなかったら私も彼女ヒロインみたいに、素敵な恋を出来たのかなぁなんて思います。彼女が師匠に抱く気持ちが、憧れじゃなくて恋だと気付いたところで泣いてしまいました」


「僕はあの場面意外だったな……女の子って、好きな男性に守られたいじゃなくて、守りたいって思うものなんだね」


「人によりますよね、この人に守られたいと思ってときめくか、この人を守りたいと思って恋に落ちるか」


「僕は……」


 自分はどちらだろう、と深念しんねんする。妹やユニスのことは守りたいが、恋とは違う気がした。エドウィンのことも仲間として勿論守りたいし無理はさせたくない。だけど僕を庇ってくれるあの優しい手が好きだ。冷艶れいえんたる目見が優しい形を象って、僕を安心させてくれる瞬間が、好きだ。


 例えるなら彼は、手触りが良くて暖かい毛布みたいな感じだった。ときめく、というよりも、落ち着く。やはり恋とは違うのかもしれない。


「ユニスは、どっちなの? 守ってくれる人と、守りたいと思う人、どっちが好き?」


「私はいつも守られてますから、守られてときめくことはもうないですね。でも私は弱いので、守りたいと思うような人も……」


 ユニスの話を聞きながら、そういえばエドウィンはどうしているだろうと後顧こうこした。僕達の後方を歩いていたエドウィンと、見知らぬ女性の姿が目を射る。僕達と彼らの距離は思いのほか離隔りかくしていた。小説の話をしている間、エドウィンはずっとあの女性に話しかけられていたのかもしれない。


「エドウィン──」


「っ別にエドウィンのことなんて考えてませんよ!?」


「え? いや、声掛けられてるから……」


 列車内でなにかあって相談でもされているのだろうか、と考えたがそれは謬想びゅうそうだったかもしれない。女性が困っている様子はなく、エドウィンに対する媚諛びゆが透けて見えた。


 女性の丹花たんかの唇が艶笑えんしょうでしなっている。男性を簡単に枉惑わわくしてしまえそうな色人いろびとに、エドウィンは冷然れいぜんとした佳容かようで応じていた。


 どうするべきか悩んでいると、ユニスの金髪が揺れて芳馥ほうふくとした香りを散らしていた。


「だいたい察しがつきました。助けてあげましょう」


 迷情めいじょうを持たないようなユニスの足取りを追いかける。二人の様子を見放みさくと、エドウィンに振り払われても取りすがる女性の姿があった。女性の艷色えんしょくは息を呑むほど婀娜あだめいていて綺麗だ。彼に触れようとする指先。その艷冶えんやな仕草から、彼女が男性を機巧わかつることに慣れているように見えた。


「用がないのならどいてくれ」


「食堂車に付き合ってってさっき言ったじゃない。私は食事を終えたところなのだけれど、貴方を見ていたらお茶をしたくなってしまったの。ねぇ、一緒にお茶でもしましょう?」


「悪いが……」


「お兄ちゃん早く行きましょ〜! お腹空きました!」


 割って入ったユニスを女性が下瞰かかんする。エドウィンは僕達に眼付がんつくと、謝辞でも口にしそうな気貌きぼうで、整った姸容けんようを歪めていた。


 女性は名残惜しそうにエドウィンをめかりうっていたが、諦めたのか「ごめんなさいね」と歩き去っていく。


 ユニスを見やると、その眉は吊り上がっており、瞋目しんもくにエドウィンを映していた。


「なにしてるんですか、もう……!」


「絡まれただけだ」


「そんなこと分かってます」


「……悪かったな」


「別に怒ってません」


「怒ってただろ」


「怒ってません! いいから早くケーキ食べさせてください!」


 拗ねるように方向転換した彼女が、前から歩いて来た男性とぶつかる。ひっ、と彼女が気息きそくを呑んだのが聞こえた。人間嫌いな彼女にとって、赤の他人と接触してしまう嫌悪感は凄まじいのだろう。だがぶつかったのはユニスで、謝罪もせずに怯えているものだから相手を怒らせてしまいそうだった。慌てて僕は彼女の肩を引き寄せた。


「ユニス、謝らないと」


「あ、う、ごめんなさい」


「あぁ?」


 不機嫌そうな男性の声貌せいぼうにますますユニスが引き退いていく。酒臭い男性の酔眼すいがんが僕達をめ回す。引き攣った諂笑てんしょうを浮かべてもう一度謝ろうとしたらエドウィンのコートが目界めかいでひらめいた。


「すみません、お怪我はありませんか」


「自分のガキのことくらいちゃんと見とけよ。思いっきり足を踏みやがって、この靴高いんだぞ」


「……幸い、あまり汚れなかったみたいですね、よかった。お大事になさってください」


「はぁ!? よく見ろよ、汚れただろ! 弁償しろよ!」


「靴磨き代だけで充分でしょう。これで足りると思いますが」


 威喝いかつする男性の声にユニスが肩を震わせていた。エドウィンはユニスと違って畏憚いたんすることなく、冷めた玉貌ぎょくぼうのまま懐から紙幣を取り出していた。


「ありがとよ」と心のこもっていない虚礼きょれいを吐いた男性が紙幣を掻っ攫っていく。彼が被害者であるのは確かだが、金を求める必要などなかっただろう。大人気のない彼の悪相あくそうを見れば見るほど牙を剥きたくなるが、僕達を庇うように立っているエドウィンに迷惑をかける訳にはいかなかった。


「列車はマナーのなってない親子連れが多くて嫌になるな。向こうでも変なガキがギャーギャー泣いてやがったしよ。鼓膜が破れるかと思ったぜ」


「……そうですか。では、俺達はこれで」


「お前、ずいぶん若いのに二人も子供がいるんだな。似てねぇし腹違いの姉妹か? 女癖の悪い親に育てられたら、そりゃガキも礼儀知らずに育つよなぁ」


 彼の悪舌あくぜつに苛立っていく。勝手に僕達の関係性を想像して投げつけられる事実無根の託言かごとは不愉快だった。彼の無礼な毀謗きぼうはまだ止まなかった。


「兄ちゃんよぉ、キレーな顔して笑ってればなんでも許されると思うなよ?」


 男性は馬鹿にするように口端を引き上げてエドウィンをる。エドウィンがどんな顔をして男性の言葉を受け止めているのか分からない。男性は仇視きゅうしを向ける僕に気付くと、恟恟きょうきょうしたように青びれた顔を浮かべ、足早に立ち去っていった。


 怒りに満ちた号叫ごうきょうを上げたのは僕よりユニスの方が先だった。


「な、なんですかあれ! モテない僻みですか!」


「ユニス、お前はもう少し反省しろ」


「たっっ……確かに私が悪いんですけど! でもあの人だって千鳥足で、前も見ずに歩いてたからぶつかったんでしょ! そもそも私は足なんて踏んでません!」


「分かってる」


 ユニスが男性とぶつかっただけであることを、エドウィンはその双眸で目睹もくとしていたのだろう。とすれば、あの男性は足を踏まれたなどと僕達を譎詭けっきして金をせしめたことになる。それを理解してなおさら心火しんかが沸き立っていた。


「そもそも私達とエドウィンってどう見ても親子に見えないですし、エドウィンのどこが女癖悪そうに見えるんですか! ムカついたら言い返しましょうよ! なんで何も言わないんです!?」


「酔っ払いに言い返したら殴り合いになる恐れがある。揉め事は避けた方がいい」


「っでも……エドウィンはそんな人じゃないのにって、私はムカつきました」


 感情的になっていたせいか、ユニスは濡れた両目を押ししおり、悲しげにも怒っているようにも見える面立ちでエドウィンを真っ直ぐ見つめていた。


 あの男性の毀言きげんに対して抱いていた瞋怒しんどが、ユニスを見ているうちに和らいでいく。彼女の言色げんしょくがエドウィンへの思いで満ちていて微笑ましかった。その愁意しゅういはエドウィンにも伝わったようで、彼の翠眉すいびが困ったように下がっていく。彼は何度か開口と閉口を繰り返して、ため息を吐き出していた。


 ユニスの帽子を手の平で軽く押したエドウィンが跫然きょうぜんと進み始めた。


「いいから、食堂車に行くぞ。今度はちゃんと周りを見て歩け」


「分かってます」


 エドウィンの後ろに跟随こんずいしていくユニスに続いて僕も歩き出す。彼の背中を見つめるユニスへ、僕は微笑しながらささめいた。


「ユニスはエドウィンのこと、大好きなんだね」


 僕を見上げたユニスが瞬目しゅんぼくのあいだ硬直したかと思えば、勢いよく背進はいしんして壁に突っ込んで行った。鳴り渡った衝突音に慌てて駆け寄ると、エドウィンも振り向き、ユニスを瞠視どうししていた。


「ユニス大丈夫!?」


「周りを見て歩けって、今言ったばかりだぞ」


「ッだってメイさんが! メイさんがわけのわからないことを言うから! 別に私は好きとか思ってませんし全然好きとかじゃないですし好きじゃないんです!」


 のべつ幕なしに疾言しつげんを連ねるユニスに僕は目を丸める。エドウィンは「何の話だ」と溜息混じりに呟いていた。ユニスにとって好意を指摘されるのは予想だにしていなかったものなのか、ワタワタと卒遽そっきょし続けるものだから笑ってしまう。


「何笑ってるんですか、メイさんのせいで壁にぶつかったんですよ! メイさんのせいで!」


 言いたいことを言い果てたのだと思って気を抜いていたら、とに怨声えんせいを放たれビックリした。呪うような疾視しっしを受けて「ご、ごめん」と一応謝罪するも、ユニスの機嫌は治らなかった。毛を逆立てている猫のようなユニスと、身構える鼠みたいな僕。こんな状況を前にしても、エドウィンは閑全かんぜんとして人形みたいな面体めんていのまま、ユニスの首根っこを掴んでいた。


「こんな通り道で喧嘩するな。通行の邪魔になる」


「う……すみません」


「ごめん……」


 エドウィンの言葉でユニスも落ち着いたようで、僕も晏然あんぜんとした気持ちで一息吐いた。数歩進んだ先で、打ち薫った良い匂いに鼻先を動かす。辿り着いた車両にはテーブルと椅子がいくつも置かれており、客達の食事はどれも美味しそうだった。

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