忘れえぬ恩怨2

 シャノンは、母の部屋で眠っていた。渡すつもりの花を握りしめて、母の目覚めを待っている間に寝てしまったのだろう。床に膝を突いた姿勢でベッドに凭れて眠るシャノン。彼女を起こさないよう、静かに母へ歩み寄る。


 婉美えんびな寝姿は精巧に造られた人形のようだ。けれども痩せ細った芳姿ほうしの美しさは、たぶん僕と妹にしか分からない。


 母の胸元までかかっていたはずの布団は、シャノンが引っ張ってしまったのか、楚腰そようが窺えるほど落ちてしまっていた。かけ直すべきか悩んだが、これから夕飯で、起きてもらうことになる。


 あたたかくて栄養のあるものを食べてもらって、その後薬を飲んだら少しは元気になるかもしれない。だから冷める前に母に食事をしてもらいたかった。


「お母さん、スープを分けてもらったんだ。お母さん起きて。冷めちゃうよ。お母さん」


 そっと肩を揺さぶる。母は眠ったまま寝がえりすら打たない。呼びかけて、呼びかけて、呼びかけ続けて。だんだん怖くなる。


 僕が声を静めると、耳鳴りみたいな夜音やとばかりが広がっていく。微かな風で夜窓やそうが揺れた音さえ聞こえてくる。母の頬には生気がなく、薄白うすじろ月気げっきだけに塗られていた。室内のロウソクを溶かす寒灯かんとうはいつから点いていたのか、今にも消えてしまいそうで、それが母の命みたいで、僕は見えない何かに喉を絞め上げられていく。


 月魄げっぱくの光に呑まれる蒼白い手を、握りしめた。表皮に伝わる体温がひどく冷たくて、自身の心音が恟然きょうぜんと騒ぎ出す。必死に細腕を握り込んだ。骨の浮いた手は、いつもなら温かかったはずだ。今は、命の残灯ざんとうさえ感じられない。ただ僕の熱を奪っていく。そっと手首に指を滑らせた。脈打つことのない氷肌に、唇が震えた。


「お、かあさん」


 死を知らない子供のように、母は眠っているだけだと思い込みたかった。だのに慧悟けいごな脳が僕に告げてくる。これが死なのだ、と。


 まだ生きているのではないか、なんて希望じみた疑殆ぎたいを抱くことさえ許されない。


 今更薬を奪ってきても何の意味もなかった。気付け薬とされている紫麝しじゃでも持ってくればよかった。──違う、全部今更だ。もっと村人と戦うべきだった? もっとお母さんの傍にいるべきだった? 僕はどうすればお母さんを死なせずに済んだ?


 起きてと叫びたかった。感情に締め付けられた喉は引き攣って、上手く声を出せない。誰かに助けを求めたくて振り返り、眠る妹の姿を見て、どこにも行けなくなる。騒げば妹は起きるだろう。母が亡くなったことを知って泣くだろう。


 数刻前のことを思い出す。母は死なない、僕が守ると、出来もしない空贅からぜいを告げた自身を思い出す。全て、嘘になったのだ。


 妹に何を話せばいい? 妹をどう慰めればいい?


 なにも分からなくて声を殺したまま泣き続けた。


 どうすればいいかなんて、分かるわけないじゃないか。誰も何も教えてくれない。助けてくれない。シャノンだけは守り抜かないと──いつまで? ずっと僕がシャノンを守り続けないといけないのか? 母さんはもう僕を褒めてくれないのに? 僕のことは誰も守ってくれないのに?


 自分のことばかり考えてどうする。我欲を捨てて、冲虚ちゅうきょな気持ちで妹に尽くしてやるのが兄というものだろう。頭では分かっている。だけど。


「っ、お母さん……まだ、いなくならないでよ」


 ──お兄ちゃんなんだから、シャノンのこと、守ってあげてね。


 母の言葉が蘇る。笑い方を忘れた僕の口元が、いびつな苦笑を象っていた。声帯を震わせる幽咽ゆうえつはみじめなくらい掠れていた。


「ねえ、お母さん。僕……お兄ちゃんだけど、シャノンと同い年なんだよ。僕だって、子供なんだよ。もう、無理だよ……」


 全部、やめてしまいたくなる。良い子でいるのも、優しいお兄ちゃんでいるのも。だけど、兄として生きてきた僕が、まだ兄で在りたがっていた。母に何もできなかったうえに、妹まで泣かせるなんて、僕が自分を許せそうになかった。


 俯いた視野で、花影かえいが揺れる。妹が握っている花の色すら暗がりのせいで分からなかった。母は、鮮やかな花の咲く佳所かしょに行けたのだろうか。赤々と美しい天蓋花てんがいばなに、その身を委ねるのだろうか。


 母の頬を片手で包み込む。七情しちじょうの一つも、その表情には表れない。心はもう天へ還ってしまったみたいだった。


 魂だけでなく、その肉体も、綺麗な花畑に斂葬れんそうしてやりたい。お母さんの好きな花が植わっていて、お母さんの墓だけが建てられた、僕達家族だけの塋域えいいき。誰にも傷付けられない所で、シャノンと二人で、色んなことをお母さんに語り聞かせるんだ。


 叶うはずもない現実逃避に、乾いた自嘲があふれる。


 冷静に考える。シャノンを泣かせない術を。


 もう少しだけ、嘘吐きでいよう。僕は妹の手から花を抜き取り、母に握らせた。眠るシャノンを抱きかかえて母の部屋を出る。


 沛然はいぜんたる飛雨ひうが降り出していた。脆い家に雨音が怖いくらい響いてくる。やめてほしかった。僕の頬まで濡れてしまいそうだったから。


 シャノンの寝顔を見下ろす。穏やかな童顔を打ち守って、唇を噛み締める。


 花は代わりに僕が渡しておいた。お母さんは花を受け取って喜んでいたよ、でも疲れているのかすぐ眠ってしまったんだ──そう、妹に嘘を吐けるように、頭の中で綺語きごだらけのセリフを考える。シャノンが少しでも傷付かないように、少しでも納得してくれるように、母の死は、まだ告げてはいけなかった。


「っ……ごめん……」


 溢れ出したそれが、何に対するものか自分でも分からない。僕の判断が正しかったのかも、分からない。


 雨は、夜頃よごろに止んでいたようだ。


 翌朝、晴れ空の下で、僕はぬかるんだ地面に叩き落とされた。食料と薬を強奪した僕を糾罪きゅうざいしにきた村人によって、母の死まで暴かれ、シャノンにも全てを知られた。


 親がいなくなった僕達は、無慈悲に売られることになった。


 光風こうふうに運ばれた雨上がりの臭いは、とても苦々しかった。せめて、母がちゃんと棺斂かんれんされ、丁寧に埋めてもらえることを祈った。僕のせいで、かばねに血をあやすような真似だけはされたくなかった。そんなことを願っても、大人に押さえつけられた僕達は、何もできなかったけれど。


 シャノンは僕を責めなかった。だけど僕が僕を責める。嘘と、暴行と、強奪と、重なりすぎた罪が、僕に影従えいじゅうし続ける。


 影は僕の形になって僕を責める。それは、妹とよく似た顔をしていて。僕なのか妹なのか、次第に分からなくなっていった。


 シャノンは僕を、恨まなかったのだろうか。


     (二)


 佳芳かほうがふわりと舞う。香水みたいな人工的な匂いではなく、花や果実を思わせる優しいものだった。凍り付いていた心が渙然かんぜんと解けていく。鼻腔まで薫染くんせんした香りに心が安らぐ。このまま眠ってしまいたくなる。けれども、寝返りを打った体は引き起こされた。


「メイ、朝だぞ。出掛けるんだろ」


「ん……」


 肩を揺さぶられるまま瞼を持ち上げる。曈曈とうとうたる朝日が眩しい。どうやらカーテンを開かれているようで、晨暉しんきが直に注がれていた。それが室内光と混ざるものだから目に痛い。光彩陸離こうさいりくりに美しさを感じられるほど寝起きの機嫌は良くなかった。


 しかし視点を動かした先に顰め面の佳人かじんがいて目が覚めていく。エドウィンは柘榴みたいな瞳を呆れたように細めていた。彼の長い睫毛が揺れて静かにまたたく。眼差しのせいだろうか、それとも現実離れした顔立ちのせいだろうか、彼を見るといつも、一瞬だけ心臓を穿刺せんしされたような感覚に陥る。羞花閉月しゅうかへいげつの美貌というのは、きっと彼みたいな容姿を指すのだ。僕も閉月のように隠れてしまいたい。今の彼は絶対怒っている。研ぎ澄まされた刃物みたいな瞳孔に射抜かれるのは、寝起きの僕では耐えられそうになかった。


 上半身を起こし、僕は彼から目を背けて口ごもる。


「あの、その……ごめん……」


「それ、寝言でも言ってたな」


「え、あぁ……嫌な夢見て」


「そうか」


 静かに近付いた彼の手が、僕の頭に触れる。先程と表情は変わらないが、優しく見えた。もしかすると初めから怒ってなどいなかったのかもしれない。よく考えたら、彼はあまり怒らない豁如かつじょな性質だ。美しい彫塑を思わせる相貌を、じっと見つめた。鋭い目つきは艶めく劔のようで、けれども刃先は剣室けんしつに収められていて、僕を切り裂かない。


 魔女狩りに行くわけではないからか、エドウィンは仕事着の上に黒いトレンチコートを羽織っただけの服装だった。ボタンを留められていないコートの合間から、ワインレッドのシャツと、緩めに絞められたネクタイ、カマーベストが窺える。


 僕の髪を梳いた彼の指はそっと離れていく。優しい体温が名残惜しくて上目遣いで彼を見ると、柔らかな苦笑がそこにあった。


「髪、ひどいことになってるぞ」


「ぇ……、……え!?」


「少し整えた方がいい。それと、今日はあまり気温が高くない。薄着は避けろ。まだ出発まで時間はあるから急がなくて大丈夫だ。下で待ってる」


 僕が一言も返す前に、彼は涼風のように出て行ってしまう。自分で押さえた髪の毛は、確かに普段よりボサボサな気がした。そういえばシャノンも、毎朝髪が爆発していたなと想起して片笑みを浮かべる。


 明るい窓に目をやった。民家の煙突から雲煙くもけむりが昇る空には、白い月痕げっこんが薄らと浮かんでいた。暁闇ぎょうあんはとうに過ぎ、明るくなり始めている昧爽まいそうの道。街衢がいくを行く人々は早朝から活気づいている。鈴の瓊音ぬなとを目で辿ったら、子供が玩具を落としてしまったようで、転がるそれを追いかけていた。眠そうに欠伸をしている男性は仕事で日にいだ職人だろう。朝から横笛の演奏をしている人もいて、聞きふけってしまう。長閑やかな街並みに微笑を零してから、「あ」と大口を開けた。


 のんびりしている場合ではない。今日はエドウィンの故郷に行くのだ。魔法の知識を唯一受け継いでいる一族の村。そこなら魔法や魂について、通暁つうぎょうすることが出来るかもしれない。


 寝巻のブラウスを脱ぐと、露わになった左上腕部で赤い紐が揺らめく。針と紐を肉にくぐらせ、僕と妹をくさり合わせた証。マスターが言っていた。死者は肉体が爛壊らんえして、骨だけにならなければ天に還れないと。ならばの体に、妹の魂はまだ繫縛けいばくされているのかもしれない。


 清寧な日々に落ち着いていると忘れそうになる。僕の魂が、妹の肉体に宿ってしまったことを。置き去りにされた僕の肉体が、冷たい孤児院で朽ちていっていることを。


 鏡と向かい合って今一度誓いを留心りゅうしんする。君の体だけでも守り抜くという誓いだ。


 僕はいもうとを、二度も死なせるわけにはいかない。 

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