誅戮のヘイトレッドⅡ

藍染三月

プロローグ

忘れえぬ恩怨1

 鳴き声が聞こえた。それは、あまべにを駆けていく夕烏ゆうがらすのもの。


 僕は窓枠から顔を覗かせて、羽ばたく片影へんえいを何の気なしに目で追いかける。そうして気付いたが、家の前に妹が立っていた。


 赤々と眩しい返照へんしょうを受け止めて、白髪が光華こうかを散らしている。夕風ゆうかぜに靡く髪の合間で陽光が明滅しているのか──否。それは、涙のきらめきだ。彼女の泣き声が僕に届いて、ようやくハッとした。晩景ばんけいの中で、妹は、泣いていたのだ。


 窓から覗き見たその姿に、僕は動揺した。暗香あんこうをかすかに吸い込んで、窓をそっと閉める。静かな寝息を立てる母に布団をかけ直し、外へ走り出す。


 妹は、花を握りしめていた。扉を開けようともせず、玄関の前で悲懐ひかいを溢れさせる彼女に、僕は慌てて駆け寄った。


「シャノン、どうしたの? どこか怪我でもした? 誰かに、何かされた?」


「ううん……」


「えっと、お花、綺麗だね。虫でも付いてた?」


「ちがうの」


 村の近くにある花畑は、僕達がよく行くせいで、村の子供達に荒らされてしまった。村の大人も、子供も、僕達から居場所を奪っていく。


 村人あいつらと顔を合わせるかもしれないし、綺麗な花なんて残っていないかもしれないのに、それでもシャノンは、残英ざんえいを探して摘んできたのだろう。薄暮うすぐれの赤い影を背負ったまま、シャノンは顔を上げてくれなかった。


「ねえ、メイ。お母さん、死んじゃうの?」


「え……まだ、いや、そうじゃなくて……」


「最近、前より顔色が悪くなってる」


「死なないよ。お母さん、元気になるよ」


「ならないよ。病気は、お薬飲まないと治らないって本で読んだでしょ」


 そんなことは僕だって分かっている。恢廓かいかくとした心で笑顔のまま聞き流せたなら良かった。だけど僕は妹と同じ子供で、簡単に不満を表に出してしまう。俯いている彼女からは見えていないだろう顰め面をほどいて、優しさだけを搔き集め粋然すいぜんたる微笑を繕う。


「シャノン、大丈夫だから。家に入ろう」


「お花」


「うん、お花。どうしたの?」


「お母さんに、元気になって欲しくて持ってきたの」


 シャノンの、母に対する悽惻せいそくが涙となって零れていく。母が元気になってくれることを想望そうぼうし続けているのは僕も一緒だ。だから妹の気持ちは痛いほど分かる。


 母はあと何回、月の盈虚えいきょを眺められるのだろう。


 母は花物はなもののような人だった。面足おもたる目鼻立ちは人形みたいで、血管を透かす肌は綺麗だけれど不健康で、すぐに白片はくへんを散らして枯れてしまいそうな色様いろさま。父は──亡くなっているのか、いなくなってしまったのか、母は詳細を語ってくれないが──もう、いないのだという。か弱い母と、忌み嫌われる双子の僕達。村から離れて暮らせと命じられて、村はずれの壊屋かいおくに移り住んだ母は、その繊弱さゆえ抗うことなく屈従くつじゅうするしかなかったのだ。


 それだけなら、まだ良かった。村人は僕達に食料も薬も仕事も分け与えてくれない。お金を出しても売ってもらえるのは残飯程度。ずっと寝込んでいる母を診てくれる医者もいない、薬なんて一度もくれたことがない。僕達に早く死んで行けと、言外に告げているようだった。


 だから僕は村人あいつらが、恨殺こんさつの念を抱くほど嫌いだ。


 思い出した怒りが狂炎きょうえんみたいな熱さで胸を焼く。深怨しんえんを見なかったことにしたくて、心の眼を蔽目へいもくしていく。


 落莫らくばくとした風声を、シャノンが「あのね」と遮った。 


「本当は、お薬持ってきたかったの。でも薬屋のおばさん、お金がないとダメだって。お金の代わりにお手伝いするって言ったら、呪われた子供なんて雇うわけないだろって」


『呪われた子供』。しくも、同じ日に同じはらから生まれる双子という存在を、みな気味悪がった。村人は僕達の名前を忌言いまいごとみたいに扱っていて、決して僕達の名前を呼ばない。


 アレとか、ソレとか、呪いの子とか。そんな風に虐げて、僕達を呪っているのは、村人おまえらじゃないか。


 胸中で村人を罵倒しても何の報仇ほうきゅうにもならない。今日だってシャノンは冷遇を受けて傷付いている。妹を守る事すら出来ない自分の弱さに、項垂れたいくらい惛沈こんじんとしていく。


 空を泳いでいる紅霞こうかが、暖色の反影はんえいを覗かせる。細めた目線の中でそれはとても眩しかった。やけに光って見えるのは虹彩を覆う水膜のせいだ。身を知る雨が溢れる前に、気持ちを切り替えたかった。


「薬は僕が頼んでみるから、もう意地悪な人達に話しかけに行かなくていいんだよ。危ないから家にいよう? ご飯も僕が貰ってくるから、家で絵本でも読んでいて」


 悲寥ひりょうに沈む彼女の頭を撫でる。柔らかな白髪は晩霞ばんかを浴びてほんのりと赤みがかっていた。だけど旺然おうぜんとした斜陽も雲霞うんかにたびたび遮られる。このままでは雲霧くもきりが集まって、濛溟もうめいな雨空に変わってしまいそうだった。まるでシャノンの心を見ているようで、零雨れいうが零れる前にどうにかしたかった。


 抱きしめてやろうとした僕の前で、シャノンが顔を上げる。泣き出しそうな窅然ようぜんで艶めく、虹彩異色の瓊玉けいぎょく嬌艶きょうえんな眼差しに僕はたじろいだ。


「ねえ、私が悪いの? 私が呪われてるの? だから村のみんなも意地悪するの? だからお母さんも死んじゃうの?」


「違うよ、呪われてなんかない。僕達は何も悪くなんてない」


「でもお母さん死んじゃう……!」


「死なないから!」


 晩靄ばんあいに散っていくシャノンの涙が痛ましい。僕も同じ悲涼ひりょうを抱えているから、同じ顔を向けてしまう。静けさが痛い。村の方から不快な夕轟ゆうとどろきが聞こえてきそうで、唇を震わせた。何か言わなければと思った。


「っ……お母さんも、シャノンも、僕が守るから。大丈夫だよ。大丈夫だから、お母さんが起きたら、お花渡してあげよう?」


「こんなの渡しても、お母さん元気にならないよ……」


「だから泣いてたの? 元気になるから渡してごらん。苦いお薬なんかより、シャノンからのプレゼントの方が、お母さん喜ぶよ」


 濡れたオッドアイの秀色しゅうしょくが星のように光る。綻んだ名花。だけどその笑みは自然なものではなく、紙で作られた綵花さいかのようだった。僕を困らせないよう、無理に笑ってくれたのが分かってしまう。


 僕もたわませた唇で彎月わんげつを象った。綺麗に笑えたかは分からない。自分に対する情けなさが、滲み出ていそうだった。


「じゃあ、先に家に戻ってて。僕はパンでももらってくるから」


 村の方へと駆け出していく。蹴り上げた砂埃が夕焼けを受け流す。紅塵こうじんから目を逸らし、前だけを見つめた。


     (一)


 暗事くらごとを終えた後の気分は、あまり良いものではない。他人の血で汚れた手を川の水で洗い流す。川は泳げそうなくらい汪洋おうようと広く、赤く染まったところですぐ新たな水に上書きされていく。淵水えんすいを覗き見ると自身の悪相にくそうが映り込んでいて眉根を寄せた。


 僕は母や妹のように屈したくなかった。感情を押さえて大人しく閉じこもる籠鳥ろうちょうになど成り下がらない。屹然きつぜんとした態度で立ち向かいたかった。


 媚びへつらって佞弁ねいべんな弁舌を振るったところで、村人は何もくれない。ならば殴った方が早い。とはいえ、僕がこんなことをして食べ物を手に入れているなんて知ったら、シャノンも母さんもきっと抃悦べんえつしてくれない。喜ぶどころか、軽蔑するだろう。だから何も言えなかった。


 二人に美味しいものを食べさせてあげたい。二人を欣舞きんぶさせてやりたい。そのために堕罪だざいすることに躊躇いはない。出来ることなら悪魔と血酒ちざけを交わして村人を殺してやりたいくらいだ。薬屋に『薬を渡さないなら殺す』と言って劫殺こうさつしたって構わない。心ではそう思うのに、結局殴打することしか出来ない己の弱さに苦り切った笑みが浮かんでいく。


『僕に殺されるかもしれない』と惶懼こうくさせるだけで目的は果たせる。憎しみに惑溺わくできして無駄な罪を重ねる必要はない。尤も、無愧むぎなやり方で食料と薬を奪ってきた僕は、もう地獄行きが決まっていると思うけれど。


 それでも、母と妹の明日を守れるのなら構わなかった。


 どうしてか泣きたくなって、鼻をすすった。持ってきた食べ物と、草木の薫蕕くんゆうが混ざり合って鼻腔に広がる。濡れた両手を服で拭いてから、右手に紙袋を、左手で大きな鍋を持った。


「……スープ……冷めちゃうな。急がないと」


 黝然ゆうぜんと暗くなった木々の下で僕は立ち上がる。烏夜うやも道のある方へ戻れば夜燭やしょくで点々と明るくなっている。燭影しょくえいを頼りに村はずれの自宅を目指した。


 まだ夜籠よごもる前だからか、夜道で転ぶ心配はなかった。月夕げっせきの仄かな明るさが心地いい。夜天やてんからこぼれる白月はくげつの明かりと、道に灯された紅燭こうしょくが互いを染め合っていた。村から遠のけば燭火しょっかもなくなっていく。


 ほどなくして家に辿り着く。村の建造物を見てから自分の家を改めてみると、ひどく落魄らくはくとした様だ。僕達のせいで漂零ひょうれいする前の母は、他の村人たちのように綺麗な家で暮らしていたのだろう。そんなことを考える度、僕もシャノンみたいに『自分がいなければ良かったのだろうか』と思ってしまう。弱さを振り払いたくて頭を振った。


 鍋を持っている右腕で紙袋を抱いて、左手で扉を開ける。食べ物をテーブルの上に置いてから母の部屋へ向かった。

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