04

 モーリスは真っ直ぐ湖へと向かって歩いていく。

 言い知れない恐怖が胸の中に湧き上がった。


「あの、モーリス様」

「この湖は濃い色をしているでしょう」

 正面に視線を送ったまま、モーリスは口を開いた。

「ここはとても水深が深いんです。夏でも水温が低くて落ちたら助からないと言われていて、遊泳禁止となっています」

 それはゲームでも出てきた記憶がある。

 危険だからボートも禁止されていると。

 でも、どうしてそんな話を……。

 心臓が痛いほどバクバクする。


「だから、この湖の中なら誰にも俺たちの邪魔はできないんです」

「……モーリス……さま」

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、冷たいですがすぐに分からなくなるでしょうし、俺は絶対貴女を離しませんから」

 モーリスは私に笑顔を向けた。


(……心中、するということ?)


「や……」

「結婚式が挙げられないのは残念ですが。ああ、せめて誓いの口付けだけでもしましょうか」

 モーリスの顔が近づいてくる。

 逃げたいのに身体が――マントで包まれて、何より怖くて動かせない。


「マリアンヌ様……」

「シャー!」

 突然目の前が真っ黒になった。

「くっ何だ!?」

 黒い影がモーリスの顔を襲っていた。

 それを振り払おうとして彼は腕を上げ――私は地面へと落ちた。


「っ」

 背中から落とされて、くる、と思った痛みはけれどこなかった。

 一瞬のことだったけれど、地面に着こうとする瞬間、ふわりと浮いたような気がした。

(これ……守護の術?)


「くそっ!」

 気を取られているとモーリスの声が聞こえた。

 見ると、黒い鳥が彼を襲うようにその周囲を飛び交っていた。

 あれは……セベリノさんがくれた影だろうか。

 目の前には、モーリスと私の間で、私に背を向けて立つ黒猫の姿。


(守ってくれているんだ)

 小さな背中がとても頼もしく見えた。


「このっ!」

 モーリスが鳥を振り払うと私へ向かってきた。

 セレストが威嚇の声を上げると、モーリスの視線がセレストへと向いた。

 その目に憎しみの色が宿る。


「危ない……」

「リリアン様!」

 その瞬間、モーリスの身体が横へと吹き飛んだ。



「リリアン様!」

「……セベリノ、さん」

 息を切らして駆け寄ってきたセベリノさんが私の前に膝をついた。

「大丈夫ですか」

「は……い」

「怪我は?」

「いいえ」


「良かった――」

 大きく息を吐くとセベリノさんは私を抱きしめた。


「遅くなって申し訳ありません。間に合って良かった」

「ニャア!」

 驚いたようにセレストが声を上げた。

 その声のした方を見たセベリノさんは軽く目を見開いた。


「これは……」

「動くな!」

 離れた所から声が聞こえた。

 見るとモーリスの身体を拘束する男性がいる。

 あれは……カイン?


「彼もリリアン様の後を追ってきたようですね」

 私の視線の先を見てセベリノさんが言った。

 ゲームでは既に見習い騎士だった、力のありそうなモーリスを、カインは簡単に黒い紐で縛り上げていく。

「あの紐は魔術によるもの。相当術を使いこなすようですね」

 そんなカインを見てセベリノさんが言った。



 モーリスを縛り終えたカインがこちらへ来た。

「マリアンヌ様、ご無事ですか」

「ええ、ありがとうございます」

「……ところで、今『リリアン様』と……」

 セベリノさんをちらと見て、再び私を見る。


「貴女は一体……」

「この方はリリアン様」

 セベリノさんがそう答えて、視線をセレストへと移す。

「そこにいるマリアンヌ様のお祖母様ですよ」


「お祖母様?」

「マリアンヌ?」

 私とカインの声が被った。


(え、マリアンヌ……?)


「ニャーア」

 セレストの鳴き声が湖畔に響き渡った。




 私たちは、先刻私がいた小屋へ戻った。


「リリアン様、身体は大丈夫ですか」

「ええ」

 私をソファに下ろすとセベリノさんが尋ねたので頷く。

「あの湖で何をされそうになっていたのですか」

「……あの人が」

 意識を失い、床に転がされたモーリスを少し見る。

「湖に入ろうとして……多分、心中しようと」

「心中!?」

 セベリノさんとカインが同時に声を上げた。


「前に、マリアンヌに助けてもらってから……ずっと片想いをしていたようですわ」

「ナーア」

 低い声でセレストが鳴いた。

 ――本当に、この子がマリアンヌ?

 じっと見つめると、セレストは私に身体を擦り付けてきた。

「……あなた、本当にマリアンヌなの?」

 黒猫の身体を抱き上げて膝に乗せる。

「どうしてこんなことに……」


「カイン・バシュレ。あなたの仕業ですね」

 セベリノさんがカインへ向いた。

「魂を蘇らせたり他の体へ移すことのできる『魂換術』、メレス家にのみ伝わる禁術の一つです」

「メレス家?」

「あなたの母親の実家です。聞いたことはありませんか?」

「――母がミジャン王国の黒魔術師だったということは知っていますが。家名やそれ以上のことは知りません」

 ふ、とカインは息を吐いた。


「そういうあなたは……確か留学中の王子の」

「私はセベリノ・メラス。あなたの従兄弟にあたる者です」

「従兄弟……そう言われれば似ているか」

「伯母様は今どうされていますか」

「母は……四年前に死にました。禁忌の代償だとか」

「……そうでしたか」


「禁忌の代償?」

「我々黒魔術師には制約が多いと言いましたね」

 思わず聞き返した私にセベリノさんが答えた。

「伯母は一族を抜ける時にその制約を解く術を使ったのです。術者の寿命を代償に行う、一番重い禁忌の術です。……それでも、伯母ほどの力の持ち主ならばと思っていたのですが」

「そうなのですか……」

 確かセベリノさんの伯母様、カインの母親はこの国の人と駆け落ちしたと聞いた。

 ――大きな代償を払ってでもその人と一緒になりたかったのだろう。


「それで、あなたは伯母から受け継いだ魂換術で、マリアンヌ様の魂をその使い魔に移したのですね」

「……ああ」

「何故です?」


「マリアンヌ様がそう望んだんです」

 私の膝の上の黒猫に視線を落としてカインは答えた。

「マリアンヌが?」

「この身体から解放されたいと。マリアンヌ様という人間は死ぬことになるかもしれないと言ったら、それでも構わないからと」

「マリアンヌ……あなたそんなに思い詰めていたの」

 黒猫の身体を抱え上げると目線を合わせる。

「可哀想に……でもね、どうしてこんなことをする前に両親に相談しなかったの?」

「ニャ……」

「アレクシアさんが悲しんでいたわ、もっと私たちを頼って欲しかったって」


 マリアンヌがずっと悩んでいたらしいと息子夫婦に伝えると、彼らは寂しそうに「あの子は一人で抱え込んでしまうから」と言った。

 決して愛情を注いでいなかった訳ではない。

 けれど、生まれ持った気質なのか……マリアンヌは周囲に頼ることなくひとりで悩み、結論を出そうとするのだ。


「辛かったなら辛いと言わなきゃだめよ、少なくとも親にはね。あなたを守るのが彼らの役目なんだから」

「ニャア……」

「本当に、あなたは甘えるのが下手なのね」

 腕に抱きかかえると、首のあたりを軽く叩く。

 幼い頃から弱音を見せないマリアンヌだったけれど、私の前では泣くことがあった。

 そんな時はいつも抱っこして、泣き止むまで背中をトントンしていたのだ。

「ごめんなさいね。あなたが苦しんでいたのに側にいてあげられなくて」

 私が死ななければ。

 そこまで思い詰める前に、少しでも支えになってあげられたかもしれないのに。


「ニャア……」

 鳴き続ける小さな身体を、あの頃のように私は慰め続けた。

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