02
「アン!」
今朝も馬車を降りるなり私を呼ぶ声が響きわたった。
「おはようございます、殿下」
「アンは今日も可愛いね」
駆け寄ってくると殿下は笑顔で袋を差し出した。
「はい」
「何でしょう」
「サクランボが入ったカヌレだ。王宮の菓子職人が作ったんだ。アンはこれが好きなのだろう」
「まあ、ありがとうございます!」
サクランボのカヌレ!
ローズモンドが結婚したあと、王宮でのお茶会に招かれた時に出されてすっかり気に入ってしまい、以来よく出してくれたものだ。
お酒に漬けたサクランボがアクセントになって美味しいのよね。
袋を開くと艶々したカヌレがいくつも入っている。
甘い香りがたまらないわ。
「餌付けして心を掴む作戦ですか」
後ろからカミーユが覗き込んできた。
「――どうしてお前はいつもアンと一緒に登園するんだ」
「バシュラール侯爵や祖父から頼まれていますからね、マリアンヌが学園で困らないようにと」
不快そうに眉をひそめた殿下に涼しげな顔でカミーユは答えた。
「アンは僕が守るから大丈夫だ」
「殿下は公務などで休むことが多いでしょう」
「だからって一緒の馬車で来なくともいいだろう」
「羨ましいのですか?」
「――ふたりとも、その辺でやめて」
毎朝毎朝、懲りずによくやるわよね。
ふたりの睨み合いは、すっかり朝の名物のようになってしまっている気がする。
「マリアンヌ様ー!」
足音とともに元気な声が聞こえた。
「おはようございます!」
走ってきたシャルロットが手にした紙袋を目の前につき出した。
「これ試作なんですけど食べてもらえますか? 豆と砂糖を煮込んだ餡を詰めたんです」
「……もしかして『あんぱん』かしら」
小声で尋ねると、シャルロットはコクリと頷いた。
「風味は小豆と異なるんですけれどね」
「でも楽しみだわ」
「是非感想を聞かせてください」
「じゃあお昼に早速……」
「また甘いパンか」
殿下が私の腰へと手を回しながらそう言ってシャルロットを睨みつけた。
「アンは今日は別のものを用意してあるからそれは不要だ」
「別のものって何ですか」
「サクランボのカヌレだ」
「カヌレならうちの店にもありますよ。とっても美味しいです」
「へえ、庶民のパン屋が王宮の菓子職人に張り合うのか」
「カヌレはもともと庶民の食べ物です! 本来の素朴なものの方が美味しいんですから」
シャルロットは私へ向いた。
「マリアンヌ様も庶民のお菓子好きですよね」
「ええ、そうね。王宮で出されるものも美味しいけれど街で買える美味しいものも沢山あるわ」
どちらにも良さがあるもの、比較するのは意味ないわ。
「じゃあ今度うちのカヌレを持ってきます!」
「ふふ、ありがとう」
「餌付けする人間が増えましたね」
カミーユがぽつりと呟いた。
そういう自分もシャルロットが持ってくるパンを楽しみにしているの知ってるんだから。
五日ほど前にメロンパンを持ってきてくれて以来、シャルロットは毎日のようにお店のパンを持ってきてくれる。
嬉しいけれどただ貰うのは悪いので代金を払おうとしたら、「侯爵令嬢も贔屓のパン屋」として宣伝させて欲しいからいらないと言う。
でもやっぱり悪いので、今度家のツテで国内では入手しづらいスパイスを手に入れることにした。
――うまくいけばカレーパンも食べられるかもという下心もあるし。
「そうだマリアンヌ様。良かったら今日の放課後、うちのお店に来ませんか」
二つの袋を大事に抱えているとシャルロットが言った。
「ごめんなさい、今日は学園の図書館に行くの」
シャルロットの提案は魅力的だけれど、今日はやらないとならないことがあるのだ。
「図書館? 何をしに?」
殿下が首を傾げた。
「授業で調べたいことがあって……。家の書架になかったので学園の図書館にならあるのではと思ったんです」
「それなら僕も行くよ」
「カミーユが付き添ってくれるので大丈夫ですわ」
何せ王宮図書館長の兄の手伝いをしているくらいだもの、カミーユは本探しは得意なのよね。
「いや、僕も行く」
眉根を寄せて殿下は強い口調でそう言った。
「まあ……」
ここは変わっていないのね。
そう声にしようとしたが、思いのほか自分の声が大きく響いて私は慌てて口をつぐんだ。
放課後、私は殿下とカミーユとともに図書館へやってきた。
マリアンヌが落ちた外階段へは行ったが、中に入るのは卒業以来だ。
本の匂いのする館内は配置も含めて何も変わっていないように思えた。
「目的の本は向こうですよ」
懐かしさにきょろきょろしていると、カミーユに促されたので彼の後についていく。
「何の本を探しているんだ?」
殿下が尋ねた。
「最近の外交についてです。この十年ほど社交から離れていたのですっかり疎くなってしまって……」
昨日の授業で理解できないことが多く、本で調べたいと思ったのだ。
私が死んでからの二年間はもちろん、その前から領地から出ることがほとんどなかったので情報が入ってくることもなかったのだ。
「――アンは、どうしてずっと領地にいたんだ?」
「体調を崩してから、何日も馬車に乗るのが辛かったんです」
前世の日本と違い、この世界にはアスファルトのような滑らかな道はなく、陸の移動手段も馬や牛を使ったものくらいだ。
舗装されていない道や石畳の道を馬車で移動するのはかなり大変で、四十代後半に病気をして以来体調を崩しがちだった私には耐えられなかった。
そんな私を心配したアルノーが、爵位を息子に譲り領地で過ごそうと言ってくれた。
自然豊かで温暖な気候の領地での生活は過ごしやすかったが……まだ働き盛りなのに私に付き合って領地へこもることになってしまったアルノーには悪いことをしたと思う。
「リリアンと一緒に過ごすのが一番大切だから」と言ってくれたけれど……まだ彼にもやりたいことがあったはずなのに。
「……そうだったのか」
ぽつりと殿下が呟いた。
お目当ての書架へとたどりつくと、カミーユに助けてもらいながら何冊かの本を選んだ。
机に座り、それらをざっと確認して特に読み込みたいと思った二冊を借りて帰ることにした。
「これは、マリアンヌ様」
本を借りる手続きをしようと受付へ行くと、座っていた男性が私を見てその青い目を細めた。
二十代半ばくらいだろうか、漆黒の長い髪をひとつにまとめた、見覚えのあるこの人は確か……。
「すっかり回復されたようで安心しました」
「……ありがとうございます。あの……」
「――そういえばあなたは記憶喪失だそうですね」
青年の瞳に一瞬鋭い光が宿る。
「ええ……ごめんなさい、まだ何も思い出せなくて」
「では自己紹介を。私はこの図書館の司書を務めるカイン・バシュレと申します。マリアンヌ様はよく図書館に来られて何度かお話をさせていただいたんですよ」
そうだ、この人が続編ゲームのお助けキャラで頼れるお兄さん、そして隠れ攻略対象でもあるカインだ。
「マリアンヌ様が階段から落ちたとき、最初に発見したのは私だったんです」
「まあ、そうなのですか」
「ちょうどあの日は図書館の周囲を見回りする日でして。普段人が来ないような場所で倒れていたから驚きました」
「まあ……それはありがとうございました」
階段から落ちたマリアンヌを発見したのは学園の職員としか聞いていなかったけれど、彼だったのか。
「見回りをする日ということは、普段は行かない場所なのですか」
「ええ。掃除の者がいますがそれもあの場所は毎日ではありません。人目に触れる場所でもありませんし」
「……ではあなたに見つけていただかなかったら危なかったかもしれないのですね」
怪我自体は大したことなかったけれど、発見が遅ければその分危険な状態になっていたかもしれない。
「ありがとうございました。後でお礼をいたしますわ」
「いえ、これも仕事の一部ですから」
爽やかな笑顔で答えるカインは、ゲーム通りの好青年でシャルロットの言うような近寄りがたい雰囲気はなかった。
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