水戸天狗党の"暴君" 芹沢鴨
俺のすぐ横を通ったその女から、強い香りが漂う。
一つは、くらりとするほどの酒気。
もう一つは、鉄の臭い。帯に無理やりねじ込まれた鉄扇から目を刺すように香ってくる。
「…………」
千鳥足でもまっすぐと、彼女は梅の模様の着物を引きずりながら歩いていく。とろんと蕩けた目はいまにも眠りに落ちてしまいそうだが、心を見透かす深みもあった。
「な……なにかね、君は」
目の前の彼女に、役人は面食らいながらも尋ねる。
「なにってぇ、ご挨拶だな。これから道中同じくする、浪士組の取締役サマを拝見させてくれよ」
女性は冷笑を浮かべ、値踏みでもするかのように役人の頭からつま先までを見ている。
「なぜここに女がいる! 将軍警護の浪士組の集会場だぞ!」
「あァ? 身分を問わず受け入れるって話だろう? だったら、女のおれも混ぜろよ」
「そ、そんな方便で、同行を許すと思うか!」
「んだよ。ケツの穴の小せぇこったなぁ」
がりがりと頭を掻くと、女性はそのまま役人の手を掴む。
彼女は身構える役人の手を引き寄せ……自らの胸に、あてがった。
「おら。前払いだ」
襦袢の奥に滑らせるようにして、膨らみの形を崩させる。
彼女は恥じらいなどまるでないようで、可笑しそうに目を細めているばかり。
役人は慌てて手を引いて後ずさる。そのせいで、石段にかかとをぶつけて転がった。
「が、ぐぅ……!」
「なはははッ! ウブじゃねぇかよ大将! そんなんで、血気盛んな浪士の目付けなんてぇ務まるか?」
手を叩いてはしゃぐ女性は、すでに俺たちを含めたその場の全員の目を奪っている。
艶やかな容貌と、それに不釣り合いな粗暴な口調。何よりも豪快な立ち居振る舞いは、肝が座っている。女性はすべからく貞淑に恭しくあるべき、なんてことを言うつもりもないが、往々にして彼女のような人間は初めて見る。
「いったい、何者だよ……?」
呟く俺の横を、上背のある優男が通り過ぎる。
そのまま、女性の腕を掴んだ。
「よしてくれ。……目立ちすぎだ」
「おせぇぞ。連名状を渡すのが間に合わなけりゃあ、浪士組に参加できねぇところだったんだぞ?」
「……それは、確かに私の責任だ。すまない」
「わかりゃ、いんだよ。頼むぜ……芹沢ァ」
女性は素直に引き下がり、瓢箪から直接酒を煽りながら男にもたれた。
すらりとした男は、折り目の付いた袴と羽織の正装を整えた壮年だ。目を伏せると聡明な文人にも見えてくるのだが、彼にしなだれかかって酒をこぼす女性のせいで、いまいち締まらない。
男はようやく起きた役人に、連名状を差し出す。
「我ら、
水戸天狗党。
冠にあるように、水戸藩出身の浪士によって構成された、尊王攘夷論を掲げた過激派武装集団。風に乗って聞こえる彼等の噂は、実に血生臭いものだった。
異論を唱える者には天誅を下し、その制裁に一切の躊躇はない。
血気盛んな荒くれ者が束となった軍団は、かの桜田門外の変にも実行犯として関与したとか、していないとか。
尾鰭がついただけかもしれないが、水戸の浪士が事件の矢面に立つ時、天狗党の影はいつでもちらついていた。
その中でも筆頭格の幹部として名を馳せていたのが……芹沢鴨だ。
神社の神官でありながら、その生き様はまさしく悪鬼羅刹。
制御不能な剛力と神道無念流皆伝の剣技の持ち主で、気に入らぬことがあれば仲間をも叩っ斬る、血も涙もない暴君。それが、俺たちの知る芹沢鴨だった。
「まぁ、所詮は伝言頼りですから。真実は、所作の磨かれた才人、ってところですかね」
俺の背中に、沖田が言った。その目は、俺たちの組の先頭を歩く芹沢一派を捉えている。
試衛館から参加した、土方、山南さん、源さん、平助、左之助、沖田に俺は、三番組に割り当てられた。近藤さんは道場主の経験を買われ、小頭として連隊の先をゆき、宿の手配など浪士一行のまとめ役に抜擢された。
二十余名でひと組。そして、俺たちの所属する三番組の組頭を務めるのが、芹沢だった。
「あれが水戸天狗党の芹沢鴨かよ? 拍子抜けだな」
土方は刀の鍔を弄りながら悪態をつく。芹沢が評判通りの悪辣さを微塵も持ち合わせていないことに対して、こいつは理不尽にも腹をたてているようだ。
「まぁ、噂とは得てしてそんなものでしょう」
宥めるように、山南さんが言う。
「呼びあっている名も聞こえてきましたが、彼女を囲む男衆は天狗党で名を馳せた豪傑揃いでしたね。
「噂とはまた違った意味で、芹沢も豪傑じゃねぇか? 英雄色を好む、ってか」
俺が冗談交じりに言葉を挟む。
「あの、艶っぽい美人さんは……芹沢鴨の奥方様、ですかね?」
言って、沖田は道端の石を蹴飛ばした。
「なんだかあの人は、好きになれません」
「ひがみかぁ、総司ィ?」
左之助の下卑たからかいに、沖田は唇を尖らせる。
「そんなんじゃないですっ」
「落ち着け、総司。もうすぐ宿だからな」
幼子を相手にしたような源さんの様子に笑ってから、俺たちは揃って刀を外す。
小石川伝通院を発ってまだいくらも歩いていないが、既に日は落ち始めていた。
延べ二百三十名に達した浪士組の中山道を行く初日は、組の編成に時間をかけたせいでうまく進むことができなかったようだ。
片目を瞑って、俺は欠伸を一つ。
「…………」
組の先頭から、視線が飛んでくる。
芹沢夫人が、俺をじぃっと見つめて……微笑を浮かべていた。
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