誉れ酒

「っく……へ、ふふ……っく」


 背中に寄りかかってくる笑い上戸は、全体重を俺に預けながらも、ひどく軽い。


 振り返らなくとも、ふわんと酒気が漂ってくる。体を揺らさぬよう注意しながら、周囲を見渡して尋ねる。


「おい、誰だ? ソウにこんだけ呑ませた阿呆は?」


「かてぇこと言うなよな、新八ィ。役得だろう?」


 ぎゃは、と下品に笑って俺の前にしゃがむのは、左之助。上着を脱ぎちらし、すでに半裸になっている。

 鱗のような腹筋を跨いで、切腹未遂の傷がでかでかと刻まれている。若気の至りで度胸試しを行ったらしいが、まるで腹もにやついているかに見えて、憎たらしい。


「左之助さんの言うとおりッすよぉ。ソウだって、この席に参加する権利はあるンすからぁ」


 間延びした声で同調をするのは、平助だ。足を放り出すあたりに、泥酔の予兆が見える。


 助けを求めようとしても、下戸の源さんは配膳と食器洗いの手伝いに行ってしまっており、山南さんは一杯目を飲みきった後、部屋の隅で船を漕いでいる。夜の深さに、日々の健康的な習慣が勝っているようだ。


「とにかく、騒ぐな。こいつは寝かしちまった方が面倒がねぇ」


「なぁに言ってやがらぁ。騒がせろよ! なにせ俺たちゃ、会津候のお墨付き、誠の武士でござぁい!」


「よッ! 日本一!」


 地ならしのような踊りに興じる左之助を、平助が手拍子で調子付かせる。普段であれば、この辺りで近藤夫人の雷が落ちてくれるのだが……ありがた迷惑なことに、近藤さんが今日だけは大目に見るように根回しをしたようだ。


「ったく……」


 混ざって騒ぎ立ててやりたい、という本音もないわけではない。が、後先考えずに飛び込むには二杯足りない。

 何より、今は背中で沖田がしゃっくりをしている。


 背中に柔らかい重さが加わった。首を回すと、うつらうつらと幸せそうな沖田に、羽織が一枚かけられている。


「……気が利くな、斎藤」


 薄着になった美男が、涼しい顔で俺の後ろに立っていた。胡坐をかく俺と、もたれる沖田とを冷たく見下ろす顔は無表情。そいつが一番空恐ろしかった。


「おまえも飲んでいるか? 斎藤」


「いいや、気分じゃない。……それに、俺は飲める道理がない」


 斎藤は、一拍おいて告げる。


「なにせ、


 ……斎藤一は、御前試合への参加を辞退していた。


 剣の腕は全員に認められながらも「他の剣客に比べて稽古をしていた日数も少ない自分が、末席を汚すことは忍びない」という理由で、斎藤は観覧に回っていた。


 他の腕利きをあてがうしかない、と悩む会議の場に、斎藤の不参加を聞きつけた内弟子、沖田ソウが転がり込んできた。


 奴は近藤さんの制止も聞かずに、言った。


『私、出たいです。斎藤さんの名前を借りて、私が出ます!』


 選抜された8名と、斎藤一だけの中で交わされた替え玉作戦は、幸運が重なり、観衆や会津の佐川氏、そして松平公にも言及されずに完遂された。


 最終仕合で近藤さんの前に立ったのが、沖田で。

 松平公の絶体絶命の危機に颯爽と現れたのが、斎藤。


 奴らふたりは、互いの名前を交換していたのだった。


 奴らふたりの無鉄砲に鼻を鳴らして、俺はわざと尻の位置を直す。


「思いついたからって、やるか? 別の名を名乗ってまで、御前仕合に出るなんてよ」


「ん、みゅ。うぅん……」


 沖田は意味を持たない声を漏らして、動く枕に対して不満げだ。


 その様子を眺めている斎藤の顔が、ほころんだように見えた。


「俺は、別に構わない」


「てめえ、この馬鹿に甘いんだよ。斎藤」


 と、背後から斎藤を叩く手が飛んできた。


「土方、と、近藤さん……」


「やっているなぁ、みんな!」


 近藤さんは土方と源さんを引き連れて戻ってきた。竹筒を両手に3本ずつ握っており、漏れ出る微かな酒の香りに左之助と平助が歓声をあげる。


「まぁ、俺との仕合がうやむやになったのは、不幸中の幸いだったな! さすがに長時間の仕合をしていれば、露見していただろう!」


 なんて、不義理を笑い飛ばしているあたり、近藤さんも酒が回っている。


「つっても、こいつは仕合ができなかった鬱憤を覆面どもにぶちまけてやがったぜ」


 土方が忌々しげに吐き捨てる。

 沖田は俺たちの中で最多の八を地に伏せて、とっとと人混みに紛れてしまった。


「…………」


 俺は、胸に燻る感情を、酒を煽ることでごまかす。ぬるさに文句は言わないが、嫉妬心を冷ますことはできそうにない。


「新八。なんだ、その顔? 右目がひりつくか?」


 隣に腰を据える土方が、目ざとく俺に声をかけてきやがる。


「……なんでも、ねぇ」


 この場で、この汚い感情は吐き出せない。ごまかすために、猪口を土方に向ける。


「しかし、一。よくぞ会津候をお守りしたな!」


 近藤さんは斎藤と肩を組む。相変わらずの無表情で、斎藤は顔だけそらす。


「観戦していた場所が良かっただけです。名前も沖田さんのを拝借しましたから、俺の名が特別目立つことはない」


「ソウジ、ってのはどこからとったんだ?」


 斎藤は、俺の隣の土方を一瞥する。


「土方さんが沖田さんをよく呼びつけていたので、それを」


「がはは! トシ、文人冥利につきるってものだろう!」


「……うるせぇよ。とうとう、癇癪持ちが起きるぞ」


 土方は俺の背中の沖田に、顎をしゃくってみせる。


 示し合わせたかのように、がば、と羽織を肩に引っ掛けたまま沖田が立ち上がる。


「ソウ? 飲み過ぎだぞ……」


 顔を覗き込む近藤さんに、沖田はゆらぁっと近づいて、手の中の竹筒をひったくる。


 注ぎ口を咥えると、顎を天井に向け……中身を細い喉いっぱいに流し込んだ。


「おぅ、おぅ! やるなぁ、大剣豪!」


「茶化すな、左之! ソウ。やりすぎだ、よせ!」


 俺が強引に竹筒を奪い取る。


 けふ、と、一呼吸おいてから……


「わたしたち、はッ……武士、です!」


 沖田は、俺たちの中心で詠うように言った。


「農民でも、薬売りでもありません! 生まれも流派も、男も、女も! 関係ありません! 鍛錬と、志と、ふへ……仲間、が、あれば、誠の武士になれるんです!」


 それだけ言い終えて、沖田は俺めがけて倒れこむ。


 不安げな俺たちを余所に、つうっ、と涎を垂らして、沖田は俺の太股を濡らしている。


「……おまえに言われるまでもねぇよ、総司」


 酒気を吐き出す息に乗せて、俺は初めて、沖田をあだ名で呼んだ。


「情けねぇなぁ、ソウ! 夢にも見ろよぉ、左之助サマの滝壺呑みでぇ!」

「馬鹿、左之助! 二本同時に飲む奴があるか!」

「ひ、ははッ! すげッすよ、山南さんもみてくださいってェ!」

「う、ぐ、ぁ……? なん、です? 頭が割れるようで……」

「こら、起こしてやるな。水、いるか?」

「山南さんも源さんも戻ってきたか! よし、四代目の号令だ。仕切り直して、飲め、飲め!」

「…………」


 膝に沖田の寝息を感じ、見渡せば同志の赤ら顔。

 誉れ酒は深く……

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