永倉新八 対 土方歳三 始
瞼の上が、裂けている。
濁った紅色が、どろりと垂れた。目尻から眼球に入ってくると、視野を半分失うことになる。この男を相手取る仕合で、それはあまりに致命的だ。
乱暴に右目を擦るが、血は止まらない。頬骨を下って、顎まで滴っていく。
「新八。切傷に効く薬は、格安でよこしてやる」
対面で澄ました顔を崩さない男は、両腕を広げる。脱力していながら、隙はない。
腹から込み上げてくる、恐怖に近い焦りを抑え込む為、俺はニヤリと笑ってみせる。開いた口角から、血が舌に乗る。
「俺が勝ったら、代金はあんた持ちで頼むぜ。……土方」
*
「第三仕合の出場者、前へ!」
佐川氏の呼び声に、心臓がドンっと鳴る。首に、腕に、脚に、血が巡る。
木刀を携えて、前に出る。
「名乗りを上げよ!」
「……永倉新八です」
先んじて声を出すと、震えている。……喉を揉んで、唾を飲み込む。
がり、がり……
遅れて歩み出てきた仕合の相手に、俺は振り返る。木刀を引っ提げ、地面に跡をつけてのろのろと俺の横までやってきた。
「土方歳三と申します」
粛々とした雰囲気の中で、土方のおとなしく開始を待つ姿が、俺にはただ不気味だった。
互いに背を向けて、大きく三歩。振り返るのは、同時だった。
「…………」
土方はぶらりと垂らした木刀を、俺に向けてくる。その木刀は、土方が試衛館に通う道中で薬籠に刺しているもので、凹凸や歪みが目立ち、擦れた柄も布で補強されている。
「土方。その武器で良いのか? 仕合用のものを貸し出すことは、やぶさかではないが」
開始の合図の前に佐川氏が尋ねてきたが、目の前の土方は構えを解かない。
「恐れながら、真新しく小綺麗な刀は、遠慮が勝ってしまいます。私めは、こちらの方が慣れております」
なんて、軽口を飛ばす余裕があるようだ。
「そうか。……では、双方見合って」
佐川氏が、肺を空気で満たすように息を吸い……
「始めッ!」
号令を下ろした。
同時に、俺と土方は一歩進み出る。
ガギッ!
どちらも中段からの薙ぎ払いを狙ったことで、木刀が衝突する。掌に、じわじわと痺れが広がっているのも……俺だけではない。
木刀を引いて、しかし足はまた一歩前へ出す。肩からぶつかりに行くようにして、俺は攻勢に出る。大振りにはならないよう、腕を畳んだまま細かく速く、叩き込む。
迎える土方は、木刀同士が交差するように合わせてくる。衝撃を殺すための的確な防御が、らしくない。
「……指南書通りの守り方じゃあねぇか。山南さんをさんざ扱き下ろしていたってのによ」
鍔迫り合いの最中、俺は土方に挑発を放る。
「ぬかせ、新八。理にかなっているからこその模範だろうが。利がありゃぁ、そいつを拝借するだけだ」
粗暴な口調に戻した土方は、俺を押しのける。
後退する俺の視界から一瞬、土方がいなくなる。
「!」
土方は、右へ、左へと目まぐるしく体重移動をする。
九十九折りに向かってくる土方を前に、俺は再び中段で構えて……待つ。
……みし、と、軋んだのは土方の木刀だった。肩口に差し込まれた一撃を、体に届く前にさばいた。
「ちッ」
聞き慣れた舌打ちを残して、土方は飛びのく。開始から続いた攻防が一つ区切られて、俺は緊張の糸を張ったまま深呼吸をする。
大丈夫だ。俺はこの喧嘩師を相手に、戦えている。
試衛館道場は天然理心流を主流として門を開いているが、剣客として転がり込んだ者たちの流派にはばらつきがある。
平助と山南さんは江戸で流行りの北辰一刀流。左之助は汎用性の高い種田宝蔵院流。
そして俺の流派は、神道無念流。無骨であり流麗な剣を到達点とする、探求の流派だ。
物心がついた頃から剣を握り、鍛錬によって少々の才覚を見出した俺には、神道無念流の無窮の精神が性に合っている。だからこそ脱藩も厭わず武者修行に身を投じ、試衛館にまでたどり着く。
「…………」
俺は、視線を横へ移す。岩のようにどっしりと構え、仕合の行方を見守る近藤さんと、目が合った。
あぁ、思えばこいつらのせいで、俺の剣の常識が根底から覆された。
道場破りを笑顔で迎え入れる道場主など、近藤さん以外に知らない。
天狗になっていた俺に土を舐めさせたのは、内弟子の沖田だった。
そして、転がり込んでから今の今まで、喧嘩まがいの立ち合いで鎬を削ってきたのが、土方歳三だ。
この男は、近藤さんとの野良仕合から独学で天然理心流を盗み取り、目録にまで辿り着いた。
土方の本質は、およそ純な剣士とは言えない。もっと獰猛で容赦のない……野性だ。
生い立ちも流派も交わるはずのない俺と土方は、道場での戦績ではほとんど五分。差がついていない。
しかし、いざ一歩でも外に出た時、俺は土方に敵う気がしない。
それだけ、土方の喧嘩師としての才覚は図抜けている。
この仕合の場でも、土方の得体の知れなさはつきまとっている。次にこいつは、何をしてくるのか? 脳裏で常に不安が浮き上がり、消えない……。
「新八。さすがに、仕合の範疇を超えやしねぇよ」
土方は、鼻を鳴らした。
「こいつは喧嘩じゃねぇ。式典の一部で、場が区切られていて、会津の立ち会いもある。もしも、俺がお前を柄で殴り飛ばして勝ったとして、誰が喜ぶ? 俺が分別もわきまえねぇ獣にでも見えるのか?」
……頭を開いて覗かれたような言葉に、俺は顔を歪ませる。「なんだぁ、その顔」と、土方は半眼で俺を睨む。
「新八。余計なことを考えて鈍るような、つまんねぇ剣の腕だったか? だったら、俺の見込み違いだ」
「……随分、古参の風をふかしやがるな、土方。あんたも存外、緊張してんのかよ?」
呑まれぬよう、俺は乱暴に言葉をぶつける。土方も俺も、痰を吐くように笑う。
「よそうぜ。くっちゃべってるなんて、時間の無駄だ」
「違いねぇ、な」
答える俺へ、土方は最後に言い置く。
「……尤も、仕合の範疇ってのが狭いとは、思わねぇけどな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます