近藤問答録 ③

 勝五郎が十七になる年のこと、数えで九つの少女が泣きじゃくりながら、試衛館の門をくぐった。

 それが、のちに俺を完膚なきまでに叩きのめすことになる……沖田ソウだった。

 見知らぬ場所に放り込まれることへの底知れない恐怖はあったようで、ソウは姉の袖にしがみついて離そうとしなかったらしい。


「ソウがウチに放り込まれる前、あいつの両親は相次いで床に臥したんだ」


 彼女の生家は白河藩に馴染みのある下級武士の系譜であり、家を残そうと尽力する入り婿の思いも虚しく、三女のソウを満足に育てることは叶わなかった。


 伝手を辿って、ソウは試衛館道場の掃除番として住み込みで働くこととなった。

 当初の奴を思い出して、近藤は声を滲ませる。


「まだ十にもならないうちに、親を失い、家族と離れ、剣術道場に転がり込むというのは……俺などには、想像もつかない苦境だ。飯を食っている時も、掃除をしている時も、ソウはむっつりとふさぎ込んでいた」


 俺は疑念を悟らせないよう、口元を手で覆った。

 昼間に俺を蹴散らしたあの生意気な剣士が、そのような脆弱な人間だというのか? どうしても、納得はできない。


「……二日続けて茶碗を割ってしまい、義母にこっぴどく叱られた日だった。ソウが、今のあいつになったのは」


 近藤は静かに語る。まるで、懺悔でもするように。


「剣を持って、ソウはようやく生まれた。……生み出しちまった、ってことかもしれんがな」


 *


『う、うぅ……ん、ぐ、ぇう……』


 膝に顔を埋めるソウの隣に、稽古終わりの勝五郎はわざと音を立てて座った。


『ソウ、泣くな。義母さんも、もう怒っていないぞ』


 努めて穏やかな声で言って、勝五郎はソウの背中をさすってやる。しゃくりあげて跳ねる背中は、平たく薄い。


『よく、それだけ泣けるなぁ。このままじゃあ干からびて、明日の朝飯に出されちまうぞ?』


 勝五郎の冗談に、ソウは顔を上げることなく、くぐもった声で答える。


『泣いているのが、いちばん、楽だもん』

『楽、か?』

『泣いていれば、時間は過ぎていく。ぼやぼやした暗闇の中に、顔を埋めていればいい。他のことを考えなくって良くなるの。だからこれで、いい』


 鼻水をすする音の合間に、ソウは言った。

『私は、捨てられたんだ』

『…………』

『私だって、こんな私なんか、いらないもん』


 ソウは、殻に閉じこもるように膝を抱える。

 その小さな体で、勝五郎の声を受けつけない、という意思を現している。


『捨てられた、か。ソウ』


 隣から庭に飛び出た勝五郎は、木刀を構える。そして……


 ガツンッ!


 太く根をはる梅の木に突っ込んで、木刀で打つ。衝撃に思わず体を震わせたソウの前に、勝五郎は立つ。


『で、あれば、何のために生きるのか、おまえが自分で決めていいということだ。ソウ。おまえが心から生きていると感じるのは、どんな時だ?』

『…………』

『羽子板で相手の顔に墨を塗ることはどうだ? 甘味は何が好きだ? べっこう飴か、落雁か、それらを溺れるほど食うことか? ソウ、お前の生きる意味は、なんだ?』


 ソウはまだ腕の中に顔を埋めており、きゅうと口を結んでしまう。


『そんなの、ない』

『じゃあ、見つけるんだ。ソウの心が示す、誠のために、生きてみろ』


 そこで、ソウはやっと勝五郎を見上げた。擦った目尻と鼻頭の赤さに、勝五郎は笑う。


『見つかるまでは、剣を振るっていればいい。泣きじゃくるより、ずっと面白いぞ』


『……剣』


 ソウは、ぼぅっと勝五郎を見ている。


 勝五郎は軒先に立てかけていた木刀を拾い上げる。自分のものより一回り小さく、ふた回りは軽いそれをソウの両手に握らせた。


『ほら、思うままに振ってみろ』


 言って、勝五郎はまた木の幹を叩く。葉が、勝五郎とソウの間に降り注ぐ。


『はい……』


 返事をすると、ソウは脱力してその場にゆらりと立つ。影から覗いていた勝五郎の構えを頭に浮かべ、自分の体に落とし込む。


 ひらり。


 と、一枚の葉がソウの前に躍り出る。


『ふッ……!』


 ソウは体ごと、一歩踏み出す。


 まっすぐ差し出した木刀は、風に舞う葉に突き刺さった。


 *


「ソウの小さな体には、天賦の才が詰まっていた。おまけに、目も良い。どんな技でも三度も見せれば、あいつは美しく再現させることができるのだからな」


 近藤は、自分の力をひけらかすように饒舌になっている。


「十になると同時に、ソウは正式に入門した。尤も、掃除、炊事、洗濯をしてから、空いた時間だけ稽古に当てろと、義母が譲らないのだがな」

「それでも、奴が道場一の遣い手か?」

「あぁ。俺も、今じゃあソウに負け越している。甘く見積もって、勝ちが四の、負けが六だ」

「……悔しくねぇのか」

「悔しいさ。ただ、それ以上に痛快だ。転がり込んできた頃までは隅で膝を抱えていたソウが、今や道場一の実力者となるなど、誰が想像した?」


 なんて膝を叩く、近藤。その顔は溺愛する娘をほめちぎる父親にしか見えない。

 そのおちゃらけた雰囲気がいよいよ鬱陶しく、俺は膝を組みかえ、鼻を鳴らす。


「ならアイツは、生まれた家と性別さえ違えば、稀代の剣豪になったことだろうぜ。所詮は女で、道場の小間使いだろう。次に仕合えば、俺が……」


「よせよ、新八」


 ぴしゃりと、近藤は毅然とした態度で俺の言葉を否定した。


「ソウは正真正銘、剣豪だ。おまえはただ、剣の腕で、ソウに負けたんだ」

「っ……」

「身分だ、性別だ、なんてつまらん理由で、おまえは修行不足から目を逸らすのか?」

「…………」


 喉が詰まる。羞恥心に、言葉が続かない。


 近藤の言う通りだった。いま、俺の実力は奴より下。それが、動かぬ事実である。

 目を背けたくって、俺は剣の外の理由に飛びついただけだった。


「……恥を誤魔化すために激昂しないことが、おまえの誠実さだな。ますます、おまえが気に入ったぞ、新八!」


 近藤はころりと感情を返して、肩を組んでくる。香る酒気に顔を背けながらも、逃れることはしなかった。


「トシやソウの前で、そんな寂しいことを言ってくれるなよ。杭を打たれることなんて、二度と御免だ」


 そう言って、近藤は懐古に戻る。


 ……数年後、京の都にその名を轟かせることとなる、新撰組の源流へ。

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