斎藤一 対 沖田総司 承
板橋、寿徳寺。
境内の奥に建つ、新撰組慰霊碑を見上げる。
近藤勇、土方歳三両雄の名を彫った墓標は、周りと比べてまだ新しい。多少の苔が生しているのは覚悟していたが、どうにか管理が行き届いているようだった。
合掌、瞑目。そのまま、暫し動かない。
「なんだ、あれは」
背に、声が刺さる。
「新撰組の慰霊碑?」「一部の嘆願で建ったらしいが……」「京の都の人斬り集団と聞くぞ」「先の戦争を掻き回した、戦狂いの連中だろう?」
俺が背後に目を寄越すと、立ち止まっていた者は足早に去っていった。人の背にしか言う度胸がねぇのか、と唾を吐いてやりたかったが、寺の境内ではさすがに罰が当たりそうだ。
「建立から三年。なかなか江戸には来られねぇから、空いちまってよ」
言い訳を零して、髭をぶっつと抜いてみる。自分の肌がひどく乾いているのはわかるが、この石碑を前にすると、口調がどうも若くなる。
袖を通しているのが窮屈な洋装から、風の抜けるだんだら羽織だった頃に戻る心地がする。まだ腰には刀があって、額には鉢金、そして隣には新撰組があった。
「ここに、骨が埋めてあるわけでもないだろうに」
柄杓を片手に、一人の男がしゃがんだままの俺の横に立つ。くたびれた軍靴から、俺は目を背けた。
「今、ここは東京だぞ。永倉さん」
楊枝でつつくような小言が、随分と懐かしい。
「……それはもう名乗っていない。杉村、で通ってんだよ」
「今更、変えるつもりはない」
「そうかよ。なら、俺も藤田某なんて呼んでやらねぇからな」
俺が向き直るのは、支給の制服を手本のように着こなした丈夫。
斎藤一が、立っていた。
「久しいな。斎藤」
肩を小突くと、奴は帽子のツバに指を添えて俺のいない方へ目を流す。俺と目線を合わせようともしないのが、試衛館道場時代からの斎藤の悪癖である。
斎藤は桶から柄杓に水を掬い、中空に広げる。近藤・土方の名を彫った部分が集中的に濡れ、石の色は濃くなった。
「人前で、止してもらいたい。藤田五郎と、そう呼んでくれ」
「馬鹿。その格好してりゃあ、誰もお前が新撰組の三番組組長だなんて思わねぇよ。新政府の自警団、天下のケイブホ様だろう?」
「……嫌な言い方をしてくれる」
ふ、と短く鼻を鳴らす。斎藤の散らした水が俺の裾まで飛んだのは、気づかないふりをする。
茶化したところで、斎藤が同じ調子で乗ってくるわけもない。むしろ今のように、鋭利に睨め付けるのが俺たちの日常だった。
「永倉さんといると、調子が狂う」
「かッ。熨斗つけて返してやらぁ」
小さな苛立ちを、足元の砂利にぶつける。
ぱらぱらと跳ねた石っころは、斎藤の後ろに控えていた女性の爪先にぶつかった。
「あ、と。失礼……」
頭を下げる俺を受けて、あじさい模様の着物の女性は隣で振り向く斎藤を見上げる。「この方は?」と、錫を打ち鳴らしたような声で尋ねた。
「古い知り合いだ。挨拶をしろ」
斎藤は、彼女にそっけなく言った。それを聞いて安心したのか、背筋をしゃんと伸ばした。
「ご挨拶が遅れて、申し訳ございません。藤田五郎の妻、時尾と申します。主人が、お世話になっております」
腰から曲げる礼は美しい。繰り返し練磨されたことが窺える所作に、面食らってしまった。
「……ご丁寧に。杉村と申します」
ぎこちなく礼を返す俺に微笑んで、時尾、という斎藤の妻は慰霊碑の前にしゃがむ。
「拝ませていただきます」
言うと、時尾は献花を備えて、合掌。目を固く瞑って、ぽつぽつと口の中で何かを呟いている。
「おい。斎藤」
驚愕を訴える俺の視線も、斎藤は取り合わない。
奴が既に妻帯していたなど、もちろん聞いていなかった。
もともと、遊女の過剰な肌合わせや茶屋の看板娘からの贔屓にも、顔色一つ変えないのが斎藤一だったはずだ。
惚れた女の隣でしか笑わない朴念仁が妻を持つというのは、俺にはどうしても想像がつかなかった。
「済んだか。時尾」
斎藤はやはりぶっきらぼうな口調のまま、丸まった時尾の背中に声をかける。彼女の肩は、小刻みに揺れていた。
「……あい。ありがとなんした」
その声は、会津の訛りで震えていた。
時尾は会津松平の照姫様付きの侍女として、城勤めの経歴を持っていた。
先の戊辰戦争にて、薩長連合の会津侵攻の折に籠城の只中、時尾は城を駆け、負傷者の手当てをし、確かに戦い抜いた。それを語る時、彼女は一度も視線を下げなかった。
「今日は、私が主人にねだってしまいました。会津で共に戦った新撰組の慰霊碑に拝ませてほしい、と」
料亭の個室に通されたことで安心したのか、時尾は声高らかに言う。相も変わらずちまちま食事に口をつける斎藤は、一つも言葉を挟まない。
俺は正座の姿勢からたじろぐこともできないまま、時尾の迫力に気圧されていた。
「そうしたら、よもや永倉様にお会いできるなんて! 幸運とはわからぬものです!」
「幸運だなんて、そんな、光栄な……?」
時尾は箸を置いてから、礼儀の範囲を超えないよう上品に身を乗り出す。
「藩主容保様の懐刀、最強の警邏部隊! 京都守護職を全うした会津の英雄譚に、新撰組は欠かせません!」
ふくっと豊かな頬を紅潮させて、時尾は俺にまくし立てる。
「忠義に生きた総大将・近藤様に、不屈の闘神・土方様。今日は、碑に刻まれたお名前だけでも拝謁できて、僥倖の極みです!」
「僥倖、と、きましたか」
「えぇ、えぇ! 当然、永倉様も新撰組随一の腕をお持ちであったと高名です! 神道無念流の若武者、永倉新八! かの池田屋では敵をばったばったと切り倒し、相手の首領を討ち取ったと!」
時尾が空中に剣を掴み、えいやと振り回す。俺には、着物の裾が小鉢を掠めている事ばかり気になった。
「不死身の槍使いの原田様、暗躍の達人である山崎様、武骨な人格者の井上様と、選り取り見取りですが、何より!」
す、と大きく息を吸い込んで、時尾はひときわ声を高くする。
「悲運の剣豪、沖田総司様! お噂を耳に入れるだけでも、胸が高鳴ります!」
沖田総司。
その名に、斎藤は湯呑みを傾けてから、妻を嗜める視線を送る。
「時尾。よせ」
「……はい」
主人の制止に座を正して、しかし時尾は聞き分けの悪い妹のように口を尖らせる。気骨があるのか、好奇心が抑えられないのか。この女性が斎藤の三歩後ろに控えている姿は、どうにも想像しがたい。
「あなたが語って聞かせてくれたら、永倉様にお願いはいたしませんけど」
「他人様の武勇を我が物顔で語る趣味は、俺にはない」
「だとしても我々は、知りたいのです」
時尾が拳を腿に置き、着物に深く皺を作る。
「徳川一君に仕え、戦い抜いた末、私たちは『賊軍』など謂れのない誹りを受けました」
向かいに座る俺に、俯く時尾の目は見えない。俺には覗く勇気がなかった。
先の戦争の会津では、年端の行かない少年も、穏やかな余生を送るはずの老年も、一戦力として戦場を駆けた。女子の中でも薙刀や銃で政府軍を牽制する者がいたようで、文字通りの総力戦を敷いていた。
しかし、奥羽越列藩による同盟の崩壊を発端に、会津藩は孤立。援軍の見込みのない籠城戦を強いられながらも、実直に戦い続けた会津だったが、最後には降伏を決断。城を明け渡し、藩主松平容保公が投降。政府軍が定める「敗者」として、明治の世を迎えることになった。
「誉たる地位も、代々の土地も、人としての権利さえも踏みにじられて……会津は、生き抜いてきたのです」
「…………」
「永倉様。不条理に、理不尽に、英雄を求めることは間違いですか?」
時尾は顔を上げて、俺を正面から見据えた。くっきりとした瞳孔に、沖田総司の瞳が重なった。
「新撰組が護ったものは即ち、会津が護ったものだと言ったら、大仰でしょう。城勤めの私が皆様に何をした訳でもありません。だとしても、我らの中にこそ忠義に生きた武士がいたと、威を借ることくらい、良いではないですか……」
そこで一旦言葉を置いて、時尾は座を正す。ちら、と俺への目配せを止めない辺りに、まだ好奇心がツノを出している。
彼女に応えるため、俺は頭を下げる。
「時尾さん。今、あなたのご期待には添えない。新撰組についてご主人が語らないのは、理由あってのことだろう。それを、部外者の私からぺらぺら露呈させるのは、本意じゃない」
俺の言に、時尾は横の主人の顔を覗き込む。斎藤はやはり何も語らず、時尾の視線を受け止める。
茶を喉に流し込んで、俺は努めて柔らかい口調で続けた。
「いずれ『新撰組ここにあり』と、ご主人はあなたに聞かせることでしょう。それを最後まで見届けたのが、斎藤一ですから」
「逃げたな。永倉さん」
時尾を家に置いた斎藤と、俺は指定の呑み屋で再び相対する。斎藤が俺を誘うことなど生涯これっきりだろうから、断るわけにいかなかった。
互いに手酌で注いだ酒を煽って、溢れる水滴を手の甲で拭う。
「戦略的な撤退だ。お前も、自分の妻が他の男に馴れ合うというのは、心中穏やかじゃなかろうに」
「それが夫婦というものならば、そう思うことにする」
奴は基本的に、俺との会話を続けようという意思がない。沈黙が苦痛にならない性分なのだろうが、個室に男で二人、俺は良い心地などしない。
「奥方はいいのか?」
「酒の回りが早いやつだから、早々に寝息を立てていた」
斎藤は淡々と言って、箸を置いた。
「良い人じゃないか。どこで?」
「斗南で生活していた頃に知り合って、そのまま。松平公の勧めもあって、共になった」
「会津公のお墨付きか。そいつは誉なことで」
「……時尾といることは、苦にならない。所作もやかましくなく、教養がある。あの新撰組への熱狂ぶりには、頭を抱えるが」
その言葉が照れ臭さからの謙遜であれば、俺も笑って済ませていた。しかし、斎藤は違う。
「おい。斎藤」
「なんだ、永倉さん」
「おまえは時尾さんのどこを慕っている?」
斎藤が、猪口を浅く傾ける。
「言ったばかりだ。所作が整っていること、教養が豊富な部分、だと。もとが姫君付きの城勤めというのだから、当然だが」
「そんな杓子定規な評価はやめろ。時尾さんだから、という面を、おまえは見ていないのか?」
「…………」
「例えば、姫君付きの侍女が並んでいたら、そこから時尾さんを選んだ理由があるだろう? 時尾さんにこそ伴侶であってほしいと願ったはずだ。違うか?」
「空論だ」
「酒の肴だぞ。そんなもん百も承知に決まっている」
酔いを隠れ蓑にして、俺は斎藤に指を突きつける。こう言った俺の無遠慮さを斎藤は明らかに辟易して、眉根を寄せることも隠さない。
「斉藤。なんてぇ後ろ向きな理由づけだよ、えぇ? おまえは所作が美しく教養のある人がいれば、時尾さんじゃなくたっていいんじゃねぇのか?」
こんな卑しい言いがかりに怒ることもしない。目の前の美丈夫は、悪びれることもなくはっきり言い切った。
「それもそうだ。永倉さんの言う通り、出会った時分がちょうどいいだけかもしれんな。俺は肯定的に、時尾を求めたことはない。彼女を否定する理由が、なかったから」
「斎藤。お前にはどうも、熱がない」
「確かに、体調はすこぶる良好だが」
「……本気でそいつを言っているんだから、根が深いんだよ。馬鹿野郎」
猪口を放ると、小鉢に当たって耳をつんざく音が鳴る。その不協和音にも、斎藤の鉄仮面は崩れない。
この澄まし顔に、どうにかヒビを入れたかった。その綻びから、斎藤を暴けると信じて疑わなかった。
顎を持ち上げて、俺は軽薄に言い放つ。
「斎藤。冷徹な夫を演じるなら、沖田の名前が出たくらいで、動揺してんじゃねえよ」
初めて、斎藤とまっすぐ目が合った。
「時尾は沖田さんと、似ても似つかない」
「そうか? 俺にも物怖じしない、人と向き合えるだけの気の強さは、確かに瓜二つだった。……斎藤、のらりくらりと逃げ回って生きていたおまえが沖田に求めたものは、それだろう?」
許せ、とは言わねぇよ、斎藤。こんな下卑た言葉でしか、おまえを焚きつけられない俺が悪い。恨んでくれて構わない。
おまえが初めて、本音をぶつけてくれるのならば。
「所作だの教養だの、格好つけんじゃねぇよ。惚れた女の面影追って、時尾さんに縋っただけだろう?」
「永倉さん、酒の巡りが悪い。口が過ぎる」
「おまえごときが俺を測るなよ、斎藤。おまえが、俺の何を知っている?」
「そのまま、あなたに返す。永倉さんに、俺の何がわかる」
「俺たちを近づけなかったのはテメェだろうが、斎藤。そのくせ、ソウだけは欲しがるのかよ。卑しい餓鬼なんだよ、いつまでも」
「…………」
「人斬り斎藤にも人間臭さがあって、結構なもんだぜ、おい……!」
一瞬、音は二つだけ。
斎藤が机に足を立てた、重い足音が一つ。奴の足に蹴散らされ、食器が散乱した音が、もう一つ。
気付くと、斎藤は俺の胸倉を掴んでいた。暗夜必殺の人斬りの腕は、未だ健在のようだ。
「羨ましかった。永倉さんが」
俺を締め上げながら、しかし斎藤は弱々しく呟いた。
「一度だって、俺はあなたたちに胸襟を開くことができなかった。だから、妬ましかったんだよ」
妬ましい。それが、初めて熱のこもった斎藤の言葉だった。
呆気にとられる俺を捨てるように離すと、斎藤は徳利を持ち上げて、熱燗を強引に喉へと流し込んだ。
咳き込む斎藤。俺は、口調を平らに均して襟を正す。
「無理に飲めとは言わねぇぞ、斎藤」
「慣れてないんだ、こんなの。飼い主に、禁じられていたから」
斎藤は自嘲すると、尻から畳に落ちるように座った。
「永倉さん。斎藤一というのは、会津藩が用意した『役職』だ」
斎藤一という、役職。不可解な言葉が、どこか真に迫っていた。
「試衛館に転がり込む少し前だったか。俺が、会津の役人を斬ったのは」
この時だけ、斎藤は俗っぽい男の顔をしていた。自分の戦果をひけらかす事への頰の紅潮が見て取れる。
「あぁ。思えばアレが、俺の最初の案山子だった」
「案山子?」
「こちらの話だ。俺はその時、江戸の商家抱えの用心棒として飯にありついていた。剣術通の御隠居の目に止まり、番犬がわりに雇われたのは、今にして思えば気楽なものだった」
斎藤が懐古する口調は、酒気のせいで途切れ途切れだったため、俺は聞き取れた部分をつなげて意図を汲み取った。
徳川諸藩御用達の商家の用心棒。若かりし斎藤は、主人とその一人娘を守護するために睨みを利かすことを生業としていた。
斎藤は頻繁に、商家の愛娘の名を口にした。斎藤曰く「両親の溺愛から由来する我儘はどうにも治らなかった」らしい彼女は、商家の娘として人との交流を重んじていた。そんな性分を持った年頃の娘が、寡黙な用心棒に目をつけるのは当然で、自己主張の少ない斎藤にやきもきしたことだろう。
「今では顔を思い出せないが、あいつは幸せにならなければいけなかった。人よりも、ずっと、幸せになるべきだったんだ」
声が詰まって、斎藤は再び酒を喉に流し込む。
「アレは、確かに案山子だった。ただ役柄に飾られて、人の言葉を介するだけの」
「最初に言っていた、会津の役人か?」
聞くと、斎藤は項垂れる。
「娘を遊技半分に絆して、懐妊した彼女を捨てた後は、知らぬ存ぜぬ。故郷の家族は裏切れない、とほざいていたのが、聞くに耐えなかった。だから、だろうな」
斎藤は歯に沿わせるように、舌で唇を拭う。
「喉を斬り千切ったことは、血が煮えたぎる程に興奮した」
今、斎藤は獰猛な目をしている。俺は壁にもたれるふりをして、斎藤から僅かながらに距離を取った。
「俺は雇われの用心棒で、骸は名門会津の役人様。俺が汚名を被って牢につながれる。それで終わるはずだった」
一つ咳き込んで、斎藤は天井を見上げる。
「俺が斬ったアレの狼藉に、会津も頭を悩ませていたらしい。死体を改めた上役が、その傷から俺の腕を割り出した。『不埒者の始末を不問にする代わりに、剣を会津に捧げよ』と、そんな因果で、俺の首輪の紐は会津が握った」
俺は、何もない自分の首を引っ掻いた。
「以降、俺の存在理由はより単純になった。粗末な住まいを用意されて、朝から晩まで剣を振っていれば、どこからともなく命が下る。そこに書かれた案山子を斬れば、また新しい住まいが用意されている」
「始末剣、か」
「内にも外にも敵の多い会津の中で、西へ東へ動かすことに制約なく、使い勝手も随一。西東駆けずる一等級の始末人……故に、斎藤一。安直だ」
ひと月姿を消せば、ふた月分強くなって現れる。沖田の軽口の答えを、斎藤は赤い顔で暴露する。
「一時期から、試衛館にも全く顔を出さなくなったのは、それが理由だったか」
俺が言い当てると、斎藤は素直に頷く。
「自分で蒔いた種だ。満足に沖田さんの元へ行くこともままならないと、諦めていた」
それでも、斎藤は新撰組に与した。ただ、それすらも命令であったのだ。
「永倉さんたちが江戸を発って、ふた月。俺も、京に上がるように命じられた。ちょうど、近藤先生や芹沢氏が会津公に御目通りがかなった直後の招集だった。烏合の衆を中から見張る鈴付きの烏が要る。それには俺が適任だとはじき出された」
「それを承知していたのは?」
「松平公の肝いりだった近藤先生のみ。ただ、土方さんは直感的に俺の不純を見抜いていた。あの人の前じゃ、俺の薄汚れた仮面など形無しだ」
言って、斎藤は猪口の側面に垂れる酒を舌で拭い取る。
「土方さんは、それさえ利用しやがった。俺の仮面の多さを逆手にとって、新撰組の内偵者をあぶり出させた。参謀の伊東の懐に潜れと命じたのも、土方さんだった。あの人の鼻からは、どうにも逃げられなかった」
「……何も、会津の命令だけに尻尾を振っていたわけでもないだろう?」
「よしてくれ。俺は確かに間者ではないが、純粋に忠義を誓うほど清廉なわけもない」
斎藤はそして、くッ、と喉を鳴らす。
「会津の命令を新撰組に滞りなく伝えるため、俺は中枢に座った。副長助勤、三番組組長、そして最後は、会津新撰組局長……。肩書きばかり膨らんで、俺自身など押しつぶされてしまった」
壁にもたれる斎藤は、歯をむき出しに笑っていた。
「わかっただろう? 斎藤一は、新選組の仲間じゃない。俺は最後まで、あなたたちの仲間には、なれなかったんだよ」
俺が勘定を済ませて暖簾から出ると、川っぺりで斎藤は膝をついていた。
「おい。大事ないか……?」
美丈夫が青い顔をして、体をくの字に曲げている姿は、他人であれば笑えたことだろう。斎藤は俺の渡した水筒で口をゆすぎ、胃液臭さを川へ捨てた。
「俺は何も、永倉さんたちと呑まずに付き合っていたわけじゃない。酒には良い思い出がないから、量を呑めなかっただけだ」
情けない、とは、言わずにおこう。
「運んでやる。家は?」
「通りを二つ挟んだところに。所在は、……、ここだ」
斎藤が懐から、番地を記した覚書を引っ張り出した。滑らかな筆跡は、おそらく時尾さんのもの。
「……良い人じゃねぇかよ、時尾さんは」
「わかっている。俺なんかに、もったいない」
斎藤は酔いつぶれていなければ、妻を褒めることもできない男だった。新撰組として共にいた時にその不器用さに気付けていれば、と、悔やみきれない。
目当ての屋敷が通りの先に見えてくると、斎藤は俺の肩から体を離す。
「強情な野郎だ」
「永倉さんに、言われたくはない」
酒が入っても減らず口は治らないようだが、それすら酔いの中では小気味良かった。
千鳥足を止め、斎藤が振り返る。
「明日、向かうところがある。……永倉さんも、来てくれないか」
低い声。どうにも、俺の東京観光の案内役を買って出ているわけではないようだ。
「お前の要件に、なんだって俺も」
「会わねばならん人がいる」
「誰だ? そいつの名前如何で決める」
「なら、必ずついてくるだろう、永倉さん。明日の正午、門の前で落ち合おう。今日はもう、口が回らない」
だから聞かねぇことには判断がつかねぇだろうが、と反論を飛ばす前に、斎藤は俺に一言、言い置く。
「沖田総司は、生きている」
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