明治維新

斎藤一 対 沖田総司 起

 俺には、三番組組長斎藤一がわからない。


 試衛館時代から数えると付き合いこそ長い俺と斎藤だが、奴について知っていることは極端に少ない。思い返せば、俺たちは腹を割って話すことのないまま、新撰組ですらなくなってしまった。


 俺には斎藤の食の好みも不明だが、それでも明らかなことを並べていく。


 局長の近藤さんに曰く「新撰組の三傑は沖田、永倉、斎藤で揺るがない。序列が動くのは、剣を抜く環境による。道場では永倉、一歩外に出たなら沖田、夜になれば斎藤である」らしい。


 闇夜に紛れた始末剣を振らせて、斎藤より速い者を俺は見たことがない。中段から相手の首を薙ぐ神速の抜刀術は、文字通り必殺。闇に紛れて悪事を働くような腑抜けた不逞浪士が、斎藤一から逃げられる道理がなかった。


 遠巻きに囁かれる通称は「人斬り斎藤」。新撰組隊士が一度は羨む悪名高い称号は、奴のほしいままであった。


 その評を鼻にかけることはなかったが、冗談交じりにからかわれることもなかったのが、斎藤一という男だった。


 斎藤は確かに俺たちの隣に居たが、奴は人に踏み込まれることを忌避していた。道場では黙々と木刀を振りながらも、いざ手合わせしようと探すと、道着をたたんでいる。酒の席ではちびちび猪口を傾けながらも、日が変わる前には必ず座敷から姿を消す。


 斎藤は、俺や左之助はもちろん、土方さんや近藤さんにさえ立ち入らせない壁を築いていた。

 唯一その透明な壁をよじ登って乗り越えられたのが、沖田総司だった。


 *


「一さんが分からない、ですか? 簡単ですよ。小便垂れの野良侍、それ以上でも以下でもありません」


 京に上がる前、俺は斎藤の人となりを沖田に尋ねたことがあった。


「俺は真剣に聞いてんだが……その、なんだって?」

「新八さんはちょうど武具の修繕とかでいませんでしたか。一さんが初めて試衛館に転がり込んできた時のことですよ」


 河川敷の石を物色しながら、沖田は俺に歯を見せて笑った。


「確か、平助さんが引っ張ってきたんですよ。同い年に居合の達人がいる! って騒ぎ立てて。近藤先生も来るものを拒む人じゃないですし、土方さんは興味がなさそうでしたから、実力を測るために私が引っ張り出されたんです」


 当時二〇歳になったばかりの沖田は、師範代を勤めて四年余り、自他共に認める試衛館の筆頭格に成り上がっていた。達人とやらの力量を値踏みするには、役不足ですらあった。


「痩せこけた野良犬のような身なりの男が、足を引きずって私の前に来たんです。素性を隠そうと髪も伸び放題で、そのくせ目だけは過剰にぎらつかせて。不気味というか、不吉でした」


 斎藤は、試衛館近くの婦女子には鼻筋の通った美男で通っていた。斎藤が庭先で行う乾布摩擦を覗く不届き者も後を絶たなかったから、沖田が語る斎藤像はどうにも想像しづらい。


「で? さっきの言い草だと、お前の勝ちだったわけか」

「えぇ、えぇ! 清々しく圧勝です!」


 沖田は天を仰いでから、大振りに石を投げた。水面を点々と割って、石は対岸へと滑り込む。


「橋渡しっ」

「名人芸」


 間延びした俺の賛辞に、沖田は得意げに伸びをした。

 俺が草に腰掛けて、沖田も尻を払ってから隣に座る。


「左利きの居合いというのは初めて対峙したので、新鮮なものでした。竹刀を半身の体で隠して、距離を測りにくくするところが、なんとも賢しいと言いますか……! で、新八さん。一の太刀であの人、私の首を狙ったんです! 稲穂のようにぶらぶら構えていたのに、抜く瞬間だけは芯が入って速く、急所を一閃! あんなの、生まれて初めてでした」


 沖田は頰を紅潮させ、いつになく饒舌だった。興奮して俺の膝に手を添えているが、奴は気にも留めないから、俺も目を逸らす以外にない。


「そこまで絶賛して、しかし斎藤は負けたのか」

「らしいですよ」

「らしい? お前自身のことだろうが」


 聞くと、沖田はばつが悪そうに眉根を掻く。


「だって、覚えていないんですもん。我に返ったら私は近藤先生に組み伏されて、斎藤さんは軒先からもんどり打って砂利に転がっていたので」


 後に、俺は沖田の言葉の真相を目撃者から語り聞く。


 仕合で斎藤の初太刀が首を掠めた瞬間、沖田は豹変した。若年の師範代ではなく、人斬りとして沖田はそこに立っていたのだ。


 踏み込みは二歩深く、得意の三段構えの突き技がほとんど同時に繰り出される。佐々木小次郎の燕返しも顔負けの、まさしく剣豪であった、と近藤さんは評していた。


 理由が、俺には推測できる。


 当時、沖田には好敵手がいなかった。

 同年代は言うまでもなく、年長者をも蹴散らし、道場主の近藤さんにも五分以上の戦績を誇っていたのが、沖田総司。


 俺や山南さんといった一部がなんとか食らいつくのだが、沖田にはひどく物足りなかったのだろう。稽古終わりの澄まし顔は、拮抗した相手のいない天才ゆえの孤独を如実に語っていた。


 元は口減らしで試衛館に預けられた身であり、武者修行に飛び出す権利と自由はない沖田が、初めて見つけた同種の「人斬り」こそ、斎藤一だった。


「一さんは吹っ飛ばされたことで失神したようで、気が切れたんでしょうね、砂利の上に小便溜まりができていました」


 沖田は飄々と言いながら、鼻の頭を指で掻いている。


「私に一つゲンコツをくれてから、近藤先生が一さんを介抱しましたよ。風呂に入れて、褌と着物を替えてさっぱりしたら、あの美丈夫が剥けてきたのですから、びっくりです」

「お前に美的な感覚があんのか。そいつも驚きだ」

「新八さん、私をなんだと思っているんです?」


 沖田は頬を膨らませて、顔の部位を顔面中央にぎゅうと集めて見せる。皺が刻まれた顔は不細工なものだが、可愛げが残っているのが沖田らしかった。


「手合わせの後に飲み干す勢いで飯を食べて、泥のように眠った斎藤さんは、次の日には書き置きと小銭を置いて消えました。だから、新八さんは会えなかったんですよね」

「以降、月にいっぺんくらいで顔を出すようになる珍客におさまったってところか。本当に、野良犬みたいな奴だ」

「その代わり、ひと月消えたら、ふた月分は強くなって現れるんです。どこで何をしているんでしょう、あの人は」


 沖田は立ち上がり、伸びをする。海老反りに背後を見て「お」と声をあげた。


「噂をすれば影、ですね」


 振り向くと、俺の後ろに斎藤が立っていた。

 斎藤は蓬色のくたびれた道着姿でも、整った居住まいを崩さない。後ろを通る女たちが、漏れなく二度見をしていた。


「沖田さん。永倉さん」


 婦女子の視線など意に介すことのない斎藤は、目線を悟らせぬために伸ばしたままの前髪から覗くように俺を一瞥する。そのまま、奴の目は沖田で止まった。


「近藤さんが青筋を立てているぞ。今日の分の素振りを終えたのか、と激を飛ばしていらっしゃる」


 げぇ、と沖田は舌を出す。

 俺は傍らに突き刺しておいた木刀を杖代わりに立ち上がって、斎藤に向き直る。


「近藤さんは今日、夕方まで日野に出稽古じゃねぇのか?」

「そこにつけ込んで鍛錬を怠る不届き者がいるから、とんぼ返りをしてきたらしい。ちなみに、原田さんは酒盛りが見つかって、ちょうど仕置の最中だ」

「っはは!」


 沖田は顎を上げて笑った。その時だけ、斎藤は口の端を緩める。


「永倉さんはまだしも、沖田さんが稽古をすっぽかして河原に足を伸ばすのは、どういう了見だ?」

「言われていますよ、新八さん」


 誰がまだしもだ? と、俺は斎藤に突っかかることができなかった。その頃から、斎藤は俺に対してとりわけ分厚い不可視の壁を築いていた。


「今回に限れば、尻拭いは俺がする。こいつに非はねぇよ」


 言って、俺は二度足を鳴らす。斎藤の視線を足元に落とした。

 砂利を退かした砂の上には、俺と沖田の名。その下に「正」の字が連なる。


「俺だって、いつまでも喧嘩剣法に苦汁を嘗めさせられるのは御免だ。道場を出た砂利と小石の上で師範代様と手合わせをしていたって寸法だ」

「帰り道のべっこう飴が駄賃です!」


 沖田が鼻を膨らませる。

 斎藤は、俺の足元の戦績を数える。


「沖田さんが二十四本、永倉さんが二十一本。計四十五本の打ち合い、か……」


 独り言のように呟いた後、斎藤はその場にすとんと腰を下ろした。


「斎藤?」

「あと五本。そうしないと、締まりが悪いだろう」


 斎藤が俺と沖田を見下ろして言った。奴の面構えは、剣技を盗むことに懸命な塾生のそれだった。

 沖田が川っぺりに突き立てた自分の木刀を担ぐ。俺は、自然と中段の構えをとっていた。


「私たちを連れて帰るのが仕事では?」


 沖田が冗談交じりに尋ねると、斎藤は仏頂面のまま答える。


「その着物の汚れ方と手のひらだったら、見る者が見ればわかる」

「ですよねぇ」


 伸びやかに返事をしてから、沖田は手のひらを支点に木刀をぐわんと回した。木刀は小柄な沖田の三分の二はあったが、まるで狂犬が飼い主にのみじゃれつくように、沖田の華奢な腕に沿って回転して、素直に奴の両手に収まった。


「じゃ、新八さん。早い所終わらせましょうよ。長引いたら、稽古後の粟飯に有り付けない」

「応よ。俺が連続で取れば、まだ捲れる差だからな」

「永倉さん、仕合で強く頭を打ったか? 世迷言を口走るなんて、あなたらしくもない」

「……斎藤。終わったら一本だけ付き合え」

「俺は木刀を道場に置いてきた」

「好都合だ。叩きのめしてやるよ」

「ひはははっ! 一さん、笑わせないでくださいって!」


 構えは固定して、沖田が表情を緩める。木刀の向こうに見えたのは、童に向けるのと同じ笑顔。ちらと盗み見ると、やはり斎藤は沖田を眺めて目尻を僅かに下げていた。


 俺が斎藤一について存じていることは極端に少ないと前述したが、これはその内の一つ。


 斎藤一には、想い人がいた。何を隠そうそれは、新撰組一番組組長、沖田総司。

 本名・沖田ソウ。京都を震撼させた佐幕の大剣豪こそ、斎藤一が惚れた女だった。

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