龍を落とした男
「隊長、永倉隊長っ!」
書から顔を上げる。頬を泥に汚した兵が、俺の前で膝をついていた。
「……悪い。して、報告は?」
「前衛が突破されました! 敵方がなだれ込んできます!」
敗北が目の前に躍り出て、俺はここが戦場だったことを思い出す。……俺はどうも、隊を率いる器ではなかったようだ。
「隊長。援軍は……?」
「……江戸から、兵はもう来ない」
結びの文言まで目を通し、手の中の書状は破いて捨てる。
差出人は、土方歳三。新撰組局長と肩書きを変えた土方さんは、江戸城にて勝安房守との援軍出兵の交渉に出ていた。
情けない話、俺たちはもう数の優位に頼るしかなくなった。
土方さんの無骨な書き言葉から、安房守の明朗な口調に直すと、きっとこんな様子だ。
『血を流せと、民に命じる阿呆がいるか?』
戦場が東に移り、敵方が江戸を射程圏内に入れようと画策。それを食い止めるだけにとどまる幕府軍を尻目に、勝安房守は既に江戸城を明け渡す手配を進めていた。
薩長の要人との対話を図り、江戸を戦火に晒すことのないよう、裏で手を引いていた。勝安房守のそれらの断行を幕府軍への不義理だと文句を垂れる気に、俺はなれなかった。
『元来、お前らにだって血を流させるわけにはいかなかった。膨れ上がった暴力を、どう収めるのか。儂が頭を使う方向は、そこに尽きる』
書面にあったのは、そこまで。しかし、俺は安房守が交渉を締めるだろう言葉が頭に浮かんで、離れなかった。
『龍馬がいりゃあ、こんな戦は笑い飛ばしただろう。暴力に頼らなけりゃァ、国を変えられないのか、とさ』
「申し上げます!」
また一人、伝令が俺の前に転がり込んでくる。
「どうした」
「は、原田様が!」
その名を聞いて、俺は言葉の続きを待たずに駆け出す。
陣の幕の向こう、頭に包帯を巻いた大男が、槍を担いで立っていた。
「左之助!」
呼ぶと、奴は振り向いて歯を見せた。これから遊びに行く童のような、溌剌とした顔だった。
「よぉ、新八! しけたツラしやがって、磯子が泣くぞ?」
「何をしている?」
「出陣だ、出陣! 派手に盛り上げてくれよ、えぇ?」
包帯の上に鉢金を当てて、きつく結び目を作る左之助。その手に、血が滲んでいる。
俺はこの場に杭で打つように、強く左之助の肩を掴んだ。
「その傷で、死にに行くつもりか?」
「傷ぅ? こンなもん、包丁で切った程度のもんだ、なめりゃあ治る」
左之助はべろっと下品に舌を突き出し、滲む赤色を舐めとって見せる。俺の諫言が続くのを感じ取ったのか、利き手だけでぐんと槍を振り回し、左之助は声を張る。
「俺が道を拓く! 後に続けよ、靖兵隊!」
左之助の鬨の声を皮切りに、連鎖して怒号が響く。意気消沈していた新設部隊は、もうどこにもいない。
「俺ぁ死なないぜ、シン」
瀕死の傷の下で笑っている。何度も見てきた顔と声、広く硬い背中。
俺は奴の肩に手を置く。これが最後だ。もう、会えなくなるだろう。
一言、奴に尋ねる。
「おい、原田左之助。お前は誰だ?」
俺を一瞥して、奴は髪をかきあげた。原田左之助のように歯茎をむき出しにして、今井信郎のように鋭い眼光を湛えて。
「……なんだそりゃ? 新八!」
奴は、俺の腹を殴った。まるで俺を戦場から押し出すように、強く、優しく。
押しのけられた俺の目に、槍を振り回す戦神が映る。それは、名乗りを上げて前へと進み出る。馬に跨り、味方を鼓舞する不屈の闘士がここにいた。
「俺は新撰組十番組が組頭、原田左之助サマだ! 生きたい奴は、俺の背中を追ってこい!」
これが、俺の見た左之助の最後の姿。
左之助はこの後、あっけなく敵の銃弾に斃れた、とも、生き延びて最後まで戊辰戦争を戦い抜いた、とも伝わっている。
*
幕府が負けて、久しい。国は、もう生まれ変わっていた。
戦火で焼かれたはずの西の都も、その痛々しさを徐々に薄めている、明治の世。俺はようやく、愛娘の姿を拝むことができた。
芸妓の小常が自らの命と引き換えにこの世に産み落とした磯子は、今年からようやく芸事を習い始めたらしい。生け垣の隙間から覗いた小柄な少女は、師に怒られていることが不服なのか、親指の爪を食んでいた。
「……その癖は、すぐにやめたほうがいいぞ。磯子」
届くわけもないお節介を置いて、俺はその場を後にする。
先の戦争で幕府に肩入れした者は、やはり肩身の狭い思いをしなければならなかった。薩長を中心に据えた政府の国づくりから弾き出された俺たちは、島流しに近い低待遇の数年間を経て、ようやく自由を得た。
もう刀は腰にさすことができない。すれ違う者たちの半分は、西洋かぶれの洋装をしている。巷で騒がれる「文明開化」は、俺にはどうにも眩しすぎる。
「こいつが、お前の望んだ未来か? 坂本龍馬」
民の明るい顔とはしゃぐ童の笑い声に、俺はそう問いかけた。
伏見は戦争の始まった地であったからか、建物の損傷が特に酷かったようだ。砲撃に崩れた住居や屋敷は、取り潰して新たな家屋にする方が幾らか楽なのだろう、もう俺たちが通っていた頃の面影はなくなっていた。
近江屋があった場所も、鳶の男たちが忙しなく上へ下へと動き回っている。恥を捨てて買った献花は、とうとう渡せずじまいだった。
行き場のない花を肩に担いで、俺は伏見の町を歩く。
背中の方から、甲高い声がする。
「どうして、そんなに無駄遣いをしてしまうのですかっ」
その声は怒っているようだが、風鈴の音のような響きがして凄みがない。
続く声は反対に低く、しかし威厳などはまるでない、吹いて飛ぶような軽薄さだった。
「人聞きの悪ぃこと言うなぁ、お前は。食事処の店主が食料を買ってんだぞ、仕入れって言ってくれ」
「京に暮らす全員にお料理を振る舞うおつもりですか? そのくらいの量ではないですか!」
「ったく、わからない奴だな。はじめっからうまくいくわけもない、失敗にどれだけ時間と労力を割けるのか、が勝負を分けるんだよ」
「私のお教えする手順通りに、お料理を作っていただくだけですよね? そして、試作に必要な量の食材も、お伝えしたはずですが……」
「そいつを揃えたんだが」
「お伝えした量のっ、倍以上ですっ!」
周りの目も気にせず言い争う夫婦の声は、だんだん近づいてくる。
「ま、落ち着けって。ほら、お前の好きな飴玉も買ったから、な?」
「……これって」
「嬉しいか? 大盤振る舞い、懐に入りきらねぇほどだからな!」
「これも、そんなにたくさん買ってしまったのですか。節約、節制で切り詰めているというのに……?」
「おっとぉ……三十六計逃げるに如かず」
それから、甲高い声がはっきりと男の名を呼ぶ。
「お待ちください、左之助さまっ!」
「折檻から逃げるのは、得意なんだよ!」
振り返る。
同時に、賑やかな夫婦は俺を追い越した。
右手を袖に隠した小柄な女と、いかにも能天気な声音の大男が、ぎゃあぎゃあ痴話喧嘩をしながら駆けていく。
その背中に泣けてきたのが癪だった。だから思い切り笑って、俺は花を空に向かって放り投げる。
「またな、友よ」
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