龍を落とした男 ⑦

 銃声が、俺を起こした。


 近江屋でお前……シンを待っていた左之助は、座敷で眠りこけていた。そのくせ、刀は店に預けず横に置いていたんだから、勘は働く奴だよ、左之助あいつは。


 寝起きの俺たちは、原田左之助でも、今井信郎でも、ない。人に呼ばれて、初めて自分を自認できる。だから、新撰組にいる時に今井信郎は顔を出さない。


 あの夜、俺の前にいたのは、佐々木只三郎。返り血浴びたままのくせして、いつもの平べったい口調のまま、俺を呼んだ。


「起きろ、今井信郎。仕事だ」


 言われりゃ、俺は覚醒できる。すぐに鞘を放り投げて、標的を探した。


 ただ、佐々木は待機を命じてきた。見廻組の連中がまだ戦っていて、あいつら、坂本を仕留め損なっていたからな。


 一方的に坂本が殺されるわけがねぇ。だろう? あのお尋ね者は、伊達にあれまで京で生き延びてきていねぇ。剣は北辰一刀流の皆伝、武芸はどれを取っても達人級。見廻組の坊どもには、暗殺なんざ荷が勝ちすぎだ。


 同じ席に坂本の右腕、中岡慎太郎もいた。乗り込んだ連中は、中岡をいなしながら、坂本に傷を負わせることで精一杯だった。


 それに、坂本は銃を持っていた。戦場で抱えて走るようなものじゃねぇぞ。リボルバー、ってか? 懐に入るほどの大きさで、小回りのきく「拳銃」ってんだ。剣士への威嚇には最良、弾丸の当たりどころが悪けりゃお陀仏だ。


 ここまで聞いて、お前ならわかるだろう? あの夜、坂本龍馬は逃げられるはずだった。


 佐々木も居合に優れた剣豪だったが、夜半の薄闇じゃあ目標との距離が測れない。坂本龍馬を殺すには、届かなかったんだろうな。


 だから、刺客が入り用だった。


 もともと、俺は保険だったらしい。あいつが新撰組の屯所に来た日、俺は近江屋に居ることだけを命じられた。佐々木と隊士だけで事が済めば重畳、失敗した場合の尻拭いのため、俺は隣の部屋で身を潜めるよう指示が入った。


 これは褒め言葉だが、佐々木は狡猾な奴だ。

 目的の遂行のため策を張り巡らせて、使えるものは使い潰す。そんな奴を動かす理念は、幕府や会津への忠誠心。近藤の大将とは毛色は違うが、あれも確かな忠臣だ。


 ただ、俺はどうにも好かん。左之助は言わずもがなだろうが……例えるなら、将棋だ。


 新撰組の王将は、近藤の大将だろう。疑う余地はねぇよな。トシさんみたいな方々動き回る金将も珍しい。飛車角はソウの嬢ちゃんとお前に譲るぜ、シン。


 ……ンなことは、どうでもよかったか。ここで言う佐々木は何かって話だな。


 あいつは、棋士だ。自分を駒にはしないのが、あいつの処世術なんだろうよ。将棋は王を取られりゃ負けだが、棋士は実際死にゃしねぇ。佐々木はそれを熟知している。見下ろせる全てを駒にして、敵の喉元に食らいつく。あいつは安全圏にいながら、目的は達する。そんな身の振り方が病的に上手いんだよ、佐々木只三郎って男は。


 とは言え、あの夜は任務の中だ。俺は好き嫌いで動きが鈍るような凡じゃねぇ。奴に使われることは許容して、息を殺していた。


 見廻組の連中が廊下に飛び出て、佐々木が立ち上がる。奴らが掃けていくのを見送り、俺に耳打ちしやがる。その時、佐々木は確かに言った。


「中には二人、どちらも手負い。上背のある方が坂本龍馬。今井、お前は背の低い方から片付けろ」


 俺は、低く下段で構えた。命じられりゃあ、やるだけだ。中岡から斬り、その後に坂本を殺す。それがどんな意味になるのか、考えるのは俺の領分じゃねぇ。


 佐々木も近江屋を後にして、襖の向こうから男が二人呻いていた。土佐言葉の方が比較的明瞭だったから、それが坂本だろうな。意識が緩むのを待つのが定石だが、他の者に踏み込まれても面倒だった。


 襖を蹴破ると、そこにいたのは三人だった。


 中背の男は血みどろの足を引きずりながら、窓に手を伸ばしていた。それが中岡だ。その向かいにいたのが、坂本龍馬。奴も斬られちゃいたが意識も明確で、俺を見上げていた。


 そして、もう一人は、その坂本の腕の中にいた。青白い顔を坂本の胸に埋めるような姿勢で収まっていたそいつから、血ィすら消すような花の香がした。


「……原田さん。頼む、助けてください」


 坂本は言った。俺を左之助だと思ったんだろう……まぁ、姿形はおんなじだがな。ともかく、あいつは左之助に助けを求めた。

 耳を疑ったぜ、俺は。続けて、あいつは言うんだ。


「シズが巻き込まれた。あと、中岡じゃァ、あいつも傷が深い。原田さん、後生じゃ。二人を、助けてくれ……!」


 坂本だって、傷が浅いわけじゃねぇ。放っておいたら命に関わる。それを自覚して尚、他人を優先できるのが坂本だった。


 感動したよ、俺は。天晴れ坂本龍馬、お前は立派な武士だ、と拍手くらいはしてやりたかったな……今思えば。


 奴らに情が確かに芽生えた。それでも、俺はまず中岡を斬り伏せた。

 窓から逃げられたら面倒だったんだよ。背骨を割るように一閃で済ませたから、痛みで気を失ったまま逝った筈だ。


 続けて、坂本。さすが達人ってもんだ。奴は、中岡が俺に斬られたのを見ると即座に武人の顔に変わった。

 右手を脇差に伸ばして、半身で俺と向き合う。心の臓を遠ざけるためだろうな、あの野郎。


 流れるように立ち合って、しかし邪魔だったのはシズだ。坂本がいくら優れた武術家だろうが、女一人を抱えたまま俺に勝てるわけもない。座布団を枕に寝かせてやろうと、坂本はシズを離した。


 シン、答え合わせだ。原田左之助が……もとい、今井信郎が坂本龍馬を殺したか?


 解は、否。


 シズの手には、坂本のリボルバーが収まっていた。その夜最後の銃声が、響いた。


 ……俺だって、何が何だかわからなかったさ。目の前には、銃を撃った反発で畳に転がるシズと、首にくっきり穴の空いた坂本がいた。擦過された火薬の匂いと、シズの花の香りが混じって、あそこが墓地のようだったことは、肌が覚えている。


 近江屋が雇った新米のおシズこそ、佐々木只三郎が差し向けた第二の刺客だった。あの夜、佐々木にとって俺が飛車で、シズが角の駒だったんだろうよ、畜生が。


「こんな、の、知らない。私、私は……」


 シズは、そんなうわ言を零した。蒼白の顔面で唇を震わせて、そのくせ手の中の拳銃は離さない。


「これまでより、楽、だなんて……小太刀で殺めるより、ずっと簡単、だと。でも、それがこんな、こんなっ。ただ、指を動かして、それで人を、殺められるなど!」


 ぼとぼととシズは泣いていた。最後、縋るように言い置いて。


「私はもう、知りたくありません。……只三郎さん」


 ……お前にゃ胸糞悪いもんか? シン。


 おシズは佐々木が手塩をかけて育て上げた、暗殺者だった。

 俺だって推測するだけだが、シズはこれまで幾人も殺めてきたに違いない。会津内部の反対分子やら、京都守護を脅かす不逞浪士やらを旅籠におびき寄せ、儚い女に溺れさせ、喉元開けりゃぁあの世行き。


 その報酬は、女ひとりにゃあ十分すぎる住居と金と……いや、それ以上は野暮ってもんだ。


 ……おい、睨むなよ。俺は見てきたものを見た通りに語って聞かせてんだ。恨むってのはお門違いだろうが。


 たとえお前が、刀を盗まれ、濡れ衣着せられかけたからって、な。


 坂本の側に、お前の刀の鞘が捨てられていた。新撰組二番組組頭の名刀だ、見る奴が見りゃあすぐにわかる。シズにお前の刀を盗ませて、現場に無造作に放らせる。そこまでが、シズの任務だったようだ。


 シン。お前も純な童じゃねぇんだ。シズに利用されたことだって、飲み下せるよな? ……俺が言うのは馬鹿らしいが、あいつだって使い潰されていたんだ。


 言ったぜ、シズは。寒空の下の犬猫のようにぶるぶる震えて、自分の手首を嗅ぎながら。


「臭う。まだ、臭う……」


 そのまま、あいつは髪を掻きむしった。右手には、リボルバーがまだ握られていた。


「臭い、臭い! 肌がめくれるほどに体を擦っても、お香をどれだけ焚いても! 血の臭いが消えないっ。消えてくれない……!」


 指の間に乾いた髪の束が絡まって、抜け落ちた。癇癪でも起こしたように足を乱暴に放り出して、浴衣の裾から腿が光った。錯乱したシズは脆く、美しかった。


 シズは自分の喉を削り出すような呼吸を続けた。坂本は首を押さえたまま、膝をついて血を吹くばかり。俺は……情けねぇが、動けなかった。


「消さないと。もう、私が消さなきゃ」


 シズは確かにそう吐いた。間違いない。歪んだ唇が笑って見えたのは、正しいと思う。安堵に近い何かを、あいつは感じていやがった。


 シズはリボルバーの銃口を、自分の頭に当てがった。


「これにて、さよならです。原田さま」


 真っ先に動いたのは、坂本龍馬だった。

 奴の手についたのは、シン、お前の鞘だ。そいつを坂本は、シズに向かって投げつける。

 鞘はシズの頭上を通り過ぎて、襖に穴を開けただけ。シズが怯むだけの間ができりゃあ、坂本の目的は達していた。


「原田さん!」


 俺の体は、低く踏み出す。標的は一点。楽なもんだ。


 俺が、シズの手首を刎ねた。二度と自害なんてできないように、リボルバーとともに斬り飛ばしたんだ。


 シズは痛みで目ぇ回して倒れちまった。半端に意識が残って悶えるよりは、幸せだった筈だ。その後の、坂本の最期だって見ずに済んだからな。


「辛い役目、負わせてしまいましたね」


 坂本は死に際だってのに、俺を慮って笑うんだ。とうとう、俺にはあいつがわからねぇ。首に鉛玉が食い込んだまま、呼吸が漏れ出ているのに、声の調子は快活さを保っていた。


「原田さん……いや、他の誰か、なんでしょう。どうか、シズを頼みます」

「……正気か? 坂本龍馬。お前は、この女に殺されたんだぞ?」

「引き金を引いたのは、シズだが、引かせたのは……こン国でしょう」


 喋ると、首の穴から血が噴くんだろう、坂本はやっと左手で首を抑えた。掛け軸に背中を預けて、顎を持ち上げた。


「命を奪うのに、力は要らなくなる。引き金に指をかけて、狙いを定めて、撃つ。それができれば、武士じゃなかろうと、命を奪える。もう、人斬りを藩で重宝する理由はなくなって……刀は、廃れる」

「望んだのがこの末路か? 意趣返しにしても、笑えねぇ」

「そいつは結果じゃァ。俺が望むのはいつだって、未来やき」


 未来、だとよ、シン。もう日を跨ぐこともできねぇような骸が、確かにそう言った。


「明日、土佐の幼い少年が、泥を舐めずに済むように。来年、郷土の友と祝いの酒が飲みかわせるように。数年後、数十年……百年後でもえぃ。身分や出自などつまらんしがらみから解放されて、誰もが声を上げることができる国に、日ノ本が生まれ変わるように。そのために、俺は走った。それだけのことじゃ」

「そんなもん、童の絵空事だ」

「えぇ。そうですとも。何が悪い?」


 開き直った坂本は、窓に視線を投げる。障子の形に影ができて、俺たちを照らしていた。


「どうか俺が、この国で力に殺される最後の一人であるよう、願います。幕府も薩長も、血ィを流すこともなく、国を開いていけるようになれば」


 言葉を切った坂本は、そこで俺を見上げた。


「あなたの涙は、きっと、止まってくれる」

「あ……?」


 出した言葉は、醜い鼻声だった。

 俺は泣いていた。いや、違うか。俺の体を使って、左之助が泣いていたんだ。


「なんだよ、これ」


 そう呟いたのは、俺たち二人だ。俺は自分の頬を濡らす涙に、左之助は目の前の惨劇に、それぞれ困惑しちまった。


「しらばっくれちゃ、困りますよ、原田さん。ほとんど、あなたの仕業じゃァ」


 坂本は冗談めかして言う。痛みとか後悔とか、後ろ向きな感情は全部笑いで覆い隠して、俺たちに語りかけた。


「……龍馬。お前が死んで、どうするんだよ!」


 そこで、主導権は左之助に奪われちまった。刀を放り捨てて、坂本の肩を抱く。


「言ったじゃねぇかよ、龍馬! 夜明けが来る、この国は生まれ変わるって! 国が一つになりゃあ、お前は海に出て、世界を相手に商いをするんだろ! まだ、夜だ。暗がりの中に沈んで、飛ぶ様も見せねぇで何が龍だ、馬鹿野郎っ!」


「原田さん。俺は死なんき」


 坂本は確かに言った。口の中は、柿をかみつぶしたような血の塊が溜まっていたが、言葉は鮮明だった。


「俺の道は、一人で歩いたもんじゃない。土佐の家族に始まって、以蔵さんや武市先生、高杉さん、勝先生に海援隊の連中も、いつだって横にいてくれた。辿った道と行き着く先は、俺だけが見たものじゃ、ない」


 坂本は空いている右手で俺をかきむしるように、掴んでいた。俺に、じゃなくって左之助に、伝えたかったんだろうよ。


「道半ばにたおれる俺を、乗り越える者がいる。連綿と続く限り、受け継ぐ者がいる限り、坂本龍馬は死なない。思想は、意志は、言葉は! 生き行くあなたの中で息づく!」


 だから、生きろ。


 坂本にとって言うまでもなかったんだ、それは。

 奴は、俺の腰から小太刀を引き抜いた。素早く逆手に持ち替えて、自分の頸に刀を突き立てた。……シズに打ち込まれた銃弾をほじくり出すために。


 あいつは、シズに罪を残さないつもりだった。死体を改められても銃痕に気づかれないよう、塗りつぶすために刀を喉に突き立てた。


 あと、左之助がそいつを引き抜けば終わりだ。既に虫の息、騒ぎが起こる前に逃げたら完遂だった……。


 だが、左之助はその場で坂本龍馬を殺めた。

 小太刀の柄で坂本と手を重ねるとそのまま、頸を裂くために横向きに薙いだ。穴を抑える左手の指を諸共、斬り散らす。


 左之助は、まだ泣いていた。嗚咽を抑えて、鼻水をすすり、そして斬った。坂本の思惑には感づいていたが、それだけが理由じゃない。


 多くの者と歩んだ道半ば、坂本龍馬がここで一人死んでしまう。せめて、その最期を自らの手で看取ってやりたかった。


 一人の、友としてな。


 そこから、致命傷をいくつも作った。心の臓に突き一つ、腹を真一文字に切りつけて、最後は眉間を割るように、斬った。俺にしちゃぁ不細工な太刀筋だったが、手向けにとやかく文句はつけねぇよ。


 顔を斬る瞬間、坂本の口が動いた。もう口に息すら届かないが、左之助は聞いた。聞こえた気になりたかったんだ。


 あなたに会えて、良かった。

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