龍を落とした男 ⑥

「新八ィ、新八やぃ! ここにいんのかぁっ?」


 戸を破るような大声が飛んでくる。手元の書は、机の下にまとめてから膝で奥へと押し込んだ。


「なんだよ、左之」


「一心発起の部隊を担ぐ一騎当千の若大将が、いつまで文人ぶって篭ってんだ!」


 許可を出す前に部屋に足を踏み入れたのは、真っ赤な顔をした原田左之助。奴は、酒が回れば回るほど口達者になっていく。普通は逆じゃないですか、と、沖田はいつまでもからかっていたものだ。

 筆を置き、俺は座布団の上で尻を回して左之助に向き直る。


「もう日を跨ぐだろうが。いつまで騒ぐつもりだ」

「いつまでも、だ」


 歯茎まで見えるように笑って、左之助は俺の膝に向かって猪口を投げてきた。


「明日の戦は、生きるか死ぬかの大博打だろう? 大勝負の前に酒盛りをするってのは、我らが靖兵隊の習わしだ」

「聞いたことねぇよ。誰が言いふらした?」

「俺だ」

「だろうな……」


 言いながら、左之助に酌を傾けさせる。


「俺たちみたいな得体の知れない新設部隊に、これだけの物資を与えてくれるってのは、どういう風の吹き回しだ?」

「どうもこうもねぇよ。まだまだ江戸っ子は、磯臭ぇ薩長連合より土臭ぇ俺たちの方が馴染み深いって寸法よ!」

「どのみち臭ぇのか」


 今さら猪口を合わせる気にもなれず、俺は並々注がれた酒を仰ぐ。味は舌を通り過ぎて、酒気だけが口と鼻に残った。

 戦場には不似合いな贅沢、土方さんでもいてくれたら拳骨一つで諌めてくれるだろうが、もう頼ることはできない。


 俺たちは戦争の中にいる。新撰組は佐幕の兵士として、今は江戸で敵を待ち構えている。……正確に記すのならば、これは紛れもない敗走の果てであり、そして俺たちはもう、新撰組ではない。


 俺と左之助は、新撰組を離隊した。

 銃撃による近藤さんの負傷、病床に伏す沖田総司の戦線離脱、数年の苦楽を共にした隊士との死別。年明けに戦争が勃発し、わずか四ヶ月。多くのことが起こりすぎた。


 東への後退を続ける幕府勢力の中、土方さんたちはあくまでも近藤さんを担ぐことを折るつもりはなかった。


 何も、新撰組に見切りをつけた訳ではない。戦場が流動的に変化する中、自由に動ける方が相手の裏をつくことができる。俺は俺の最善を尽くすために隊を離れ、そこに左之助も加わった。それだけのことだった。


「酒もたんまり、腹八分目! 久々の東歌も耳馴染みが良いなぁ、えぇ? あとは、女がいりゃあ極楽だったがなぁ」


 唾を飛ばす左之助は、頬骨のあたりを赤くして、寝巻きはようやく肩に引っかかっているような泥酔ぶり。とろんと目尻が下がっているくせに、口調ははっきりしていた。


「お前は、死ぬまで乳離れができなかったな。左之」

「けッ。言ってろ新八。お前だって……」


 そこで左之助は酒を飲み干して、ため息を挟む。続いた言葉は、低く重かった。


「磯子、だっけか。小常が産んだのは」


「数えで一つの赤ん坊だぞ。こんな血の匂いがこびりついて、顔を見せられるかよ」

「違いねぇ」


 喉を鳴らし、左之助は膝を叩く。


「磯子はどうだ? どっちに似ている?」

「顔は、俺だってよ」

「あちゃぁ」

「ぶっとばす」


 言いながら、俺は左之助の肩に拳を見舞う。今夜は、酔いが早く回る。

 大袈裟に痛みに悶える左之助の様子は、戦禍の中でも愉快だった。


「産婆に言わせりゃ、この数年で一番小柄な赤子だった、とよ」

「へぇ……」

「産声あげるよりも早く、親指をしゃぶったらしい」

「かははっ。そりゃあ間違いなく、小常の娘だ」


 左之助は顎を天井に向けて笑う。そのまま畳に転がり、寝言のように続けた。


「日ノ本一の、良い女になるぜ」

「……あぁ」


 肘を畳に突き立てて、手のひらに頭を乗せる左之助。目を細め、俺の机に視線を投げると、言った。


「で? 何を書き残してんだよ、お前は」

「…………」


 やはり、左之助の勘の鋭さにはかなわない。下手に隠すとボロが出る、俺は正直に伝えることにした。


「坂本龍馬暗殺について」


 その名に、左之助は顔色を変えなかった。


「下手人は、今の今まで解らずじまい。幕府の差し金ってのが通説で、今回の戦は坂本殺しの憂さ晴らしだ、なんて土佐の輩が目ぇ血走らせてやがった」

「おぅ」

「そのくせ、同志の薩摩が背中から葬ったって噂まで立っている。死んでからも、騒ぎにことかかねぇ野郎だ」

「……違いねぇ」


 声を潜める左之助は、足を使って器用に尻を掻いている。この場の緊張感のなさをそのままに、俺は核心に迫る。


「左之助。お前が、坂本龍馬を斬ったのか?」


 俺は、血みどろの坂本龍馬と、その前に立ち尽くす左之助を確かに目撃した。


 波長が合い、二人で幾度も酒を酌み交わす仲であった左之助が、坂本を斬り殺す。その姿は、たとえ任務であろうと想像がつかない。

 第一、新撰組に坂本暗殺の命は降りていない。独断で左之助が坂本を斬り捨てたということは、いよいよ結びつかない。


 誰が、ということも重要だが、それより俺は知りたかった。

 坂本龍馬を殺したのは、何、だったのか。その生き証人は、目の前にいる左之助だけだ。


 答えを待つ俺に、左之助は寝転がったまま手を伸ばす。


「新八。それ、よこせ」

「あ?」


 左之助が指差すのは、机の上の白紙と墨が残っている筆の二つ。手招く奴は、それらを手に納めると豪快な筆遣いで一言を書き記す。


「新八、頼まれろよ。これを、俺に見せてくれ」


 筆を投げて返した左之助が、ごろっと仰向けに寝相を変えた。


「このまんま、俺は眠る。そうだな……いびきがなくなった頃に、ひっぱたいて起こしてくれ。そして、そいつを俺の前に出しておけ」


 俺の返事を待つこともなく、左之助は大きく欠伸をした。


「最後だろう? だから、洗いざらい吐いちまうよ。あの夜、龍馬に何があったのか」


 言い置いて、左之助が目を閉じた。おい、と声を投げるが、奴はごうごうとイビキをかき始める。取り残された俺は、手の中の紙を見下ろす。


 そこには一文、乱暴な筆跡で書かれていた。


『お前は誰だ』




「……よぉ。シン。面と向かって、ってのは初めて、か」


 言に従い、俺は左之助を起こした。眼前に掲げた言葉に、左之助は眉間に皺を寄せたが、それは一瞬。

 飛び跳ねるように起き上がり、その男は胡坐をかく。


「お前とは一度、腹割って話したかったんだ。あと、ソウの嬢ちゃんがいりゃぁ文句なしだったな。あんな別嬪に酌を傾けてもらえたら極楽だったが、そいつは過ぎた願いってか」


 目の前には左之助の顔をした、誰かがいた。


 その巨躯も顔も、確かに左之助のものだった。しかし、違う。稚拙な浄瑠璃を見ているような、明らかな不自然さが俺を混乱させる。


 それを感じ取ったのだろうか、左之助の顔をしている男は、カッと痰を飛ばすように笑った。


「俺は、原田左之助じゃねぇ。名は……今井信郎。その名前を貼り付けられた、しがない人斬りだ」

「貼り付け、られた……」

「一から言わせろ。無駄な時間はかけねぇからよ」


 奴が言うと、乱れた着物の裾を正してから、自分の胸を指で突いた。


「俺は、左之助が奥底に持っていた、別人だ」

「別人?」

「だからって、偽物じゃねぇ。体は一つで、心が二つ。このでかい体には手綱を握る騎手が、二人いる。たったそれだけのことだ」

「……俺を、からかってんのか?」

「おふざけだったら、お前を相手にゃ選ばねぇよ。つまらん」


 そいつは嘲笑とともに悪態をつく。これまで左之助には微塵も感じなかった陰湿さが、目の前の男からひしひしと感じられた。


「操る者の技量で、同じ馬だろうが名馬にもなりゃ駄馬にも変わる。尤も、左之助は断じて下手な奴じゃねぇ。俺が何枚も上手なだけだ」


 過剰なまでの自信に満ちた表情も、これまで俺は見たことがない。いよいよ、目の前の大男が誰なのか、わからなくなっていた。


「シン。新撰組じゃあ、左之助は良いとこ五番手だったろう?」

「あ?」

「近藤の大将や喧嘩剣法のトシさんは置いといて、筆頭が嬢ちゃんで、二がシン、いや、ハジ坊か? ついでヤマ先生。んで、やっと左之助だ。流石に平助やゲンのとっつぁんに遅れは取らねぇか」


 奴は指折りをしていき、小指を数度揺らす。

 新撰組となる前、近藤さんの抱えていた試衛館道場でも、その序列は奴の認識の通りだった。

 稽古が最も進んでいたのは俺だが、実戦では沖田や、三番組組長の斉藤一に届かないこともあった。

 総長・山南敬助や八番組組長・藤堂平助、六番組組長・井上源三郎が側から眺めて素振りを繰り返し、そして左之助は不真面目に眠りこけていた。

 そんな男が、唇の片方を吊り上げた。


「シン。そんなわけねぇ、と思わねぇか?」


 言って、奴は俺の前に袖をまくった。骨太なそれは申し分なく筋肉を纏って、はっきりと青筋を刻んでいた。


「この体は恵まれている。上背も筋骨も、武人として申し分ない。戦国武将に見せれば喉から手が出るほどの、天賦の体躯だ」


 俺は、沈黙で肯定する。


「まぁ、ソウの嬢ちゃんやトシさんみたいな化物はともかく、ハジ坊やヤマ先生に明らかに遅れをとっていた理由は『俺』じゃなかったからだ」


 奴がチッと舌打ちをする。その時の顔は、出来の悪い弟子に苛立っている師のそれだった。


「左之助は甘い。動きも不要に大ぶりで無駄が多い。無論、それでも不逞浪士ごときには遅れを取らなかった。なんとかなっちまうから、左之助は俺に届かない。あの阿呆が……」


 一人ごちる奴から主導権を奪うため、俺は問いを投げかけた。


「お前は、いつからそこにいた?」

「ずっといたさ。目ぇ醒ます機会が、京に上がるまではなかっただけだ」


 奴は一つ、声の高さを上げた。明らかに高揚し、舌の回りが早くなる。


「会津藩から新撰組の名を拝命してすぐだったと覚えている。俺……いや、左之助が初めて真剣で斬られた。命が左之助の手の中から地面に溢れそうになった時、二〇年以上待って、ようやく俺に順番が回ってきた」


 鋭い眼で自分の手のひらを見つめ、奴はククっと喉を鳴らす。


「相手は確かな腕っ節の剣豪だった。ちょうど、ヤマ先生の小綺麗な手癖を無くして、命を取ることだけに特化した、処刑人のような太刀筋をしていた」

「ただ、お前は負けなかった」

「あぁ。考えてみろ、シン。俺は左之助の眼を借りて、ずっと見ていたんだぜ? お前らそれぞれの怖さを、再現させればよかった」


「怖さ……」


「平助の鋭利な剣。ゲンのとっつぁんの頑強な剣。ヤマ先生の柔和な剣。ハジ坊の迅速な剣。シンの忠実な剣。ソウの嬢ちゃんの流麗な剣。トシさんの獰猛な剣。近藤の大将の豪胆な剣。それらを一つの体でなし得た時、誰かが俺に勝てるのか?」


 新撰組幹部の各々優れた一面で形作った剣豪。想像するだけで、肌が総毛立つ心地だった。


「胴から二つになったのが……見廻組に招集されていた、今井信郎だった」


「その名を、お前が?」

「骸から剥がして俺に貼り付けたのは、あいつだよ。佐々木只三郎。見廻組の頭だ」


 奴……以降、今井とする男は、吐き捨てるように上司を語ってみせる。


「もともと、今井信郎は佐々木の懐刀だった。肩が当たった当たらねぇってつまらねぇ諍いで、奴の方から仕掛けてきた、なんて言おうが、会津の要人の駒を、俺が……左之助が斬り伏せた事実は変わらねぇ。ようやくまとまった新撰組の取り潰しだって、十分にあり得た」


 ふ、と息を継ぎ、今井は髪をかき上げた。


「左之助の居場所をなくすのは、俺も本意じゃなかった。だから、俺は佐々木に持ちかけたんだ。俺を今井信郎として使ってみろ、とな」


 俺はようやく、今井に尋ねる。


「左之助は、それを知っているのか?」

「どうだろうな。今、あいつは眠っている」


 今井は今度、指で自分のこめかみを叩く。


「左之助は、やけに臭いの強い夢のように思っているんじゃねぇか? 見て、聞いて、言っている。が、あくまでも夢だ。欠伸とともに忘れちまうのが、左之助って奴だろう?」


 俺に同意を求めてくる今井は、まるで既知の友人を扱き下ろすような口調をしていた。それも、おそらく正しいのだろう。体の中で付き合い続けた二人の男、俺よりも左之助について詳しいのは、間違いなく目の前のいけ好かない男だ。


「元の今井信郎は市中警邏には参加せず、斬り合いにだけ召集される特務方で、隊内でも奴の顔を知る者は限られていた。図体も俺と同じくらいだったもんで、入れ替わったところで誰にも気付かれやしなかった。連中、俺を見ると畳に目を背けやがる。鬼でも前にしたように縮こまりやがって……居心地は悪かったぜ」


 そこで初めて、今井が首を折って俯いた。続く言葉は、幾らか弱々しい。


「左之助が、羨ましかった」

「お前では、あるだろ」

「シン。さっき言ったろう? 今、左之助は夢を見ている。逆も然りだ。左之助が起きている時は、俺が夢を見ている」


 不機嫌な顔をそのままに、今井が膝に頬杖をついて、顎を乗っけて唇を突き出す。その様は、左之助にとてもよく似ていた。


「気心が知れた同志と刀をぶつけて、釜を囲んで、だんだら羽織で京を闊歩する。血を浴びることが日常になった俺には……正真正銘、夢だった。左之助のくせに、生意気だ」


 強がりを吐いて、今井は俺をじっとりと見上げてきた。不快感を、俺は人肌の温度になった酒とともに飲み干す。


「新撰組での日常が、お前の言う左之助の甘さか? そいつは、不要なものだったのか?」


 尋ねたことへの答えは、突拍子もない問いかけだった。


「……シン。懐に、飴はあるか?」

「今は、ねぇよ」

「今は、か。そりゃそうだ。飴玉入れる隙間がありゃあ、鉛玉でも詰めたほうがいい。違いねぇ」


 冗句に俺が笑わないと、今井は自分でカッカッと手を叩く。どうも、俺はこいつと波長が合わない。

 窺い見ていた俺に、今井は髪をかき上げながら続けた。


「左之助はきっと、鉛は忘れても飴は入れるぜ。それを笑い話にできるのが、原田左之助で……坂本龍馬だった」


 枕にしては濃厚な話は、ここまで。

 とうとう始まる。これはこの世でただ一人、坂本龍馬の最期を知る男の回顧録だ。


「どいつもこいつも甘ったるい。血の鉄臭さしか知らない俺には、食えねぇんだよ」

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