龍を落とした男 ⑤

「永倉さま。飴玉、いかがですか?」

「……貰おう」


 半歩前をはたはたと小さな歩幅で進むシズは、うなじからくるっと振り向いた。喉を乾かすほどの甘ったるい花の香が、風になって鼻腔をくすぐる。


「ざらめ付き、です」


 俺に飴玉を渡しながら、シズは得意げに鼻を膨らませた。


「しかし、坂本さまは最後、何をおっしゃっていたのでしょうか? 険しいお顔でしたが……」

「なぁ。あんたは、今の京をどう見ている?」


 俺は反対に質問を投げかける。シズは、ぱち、と一度大きく瞬きをした。


「……静かだと、思います。秋の終わりはいつもこうです。これからくる冬のために、厚手の半纏でも出そうとするのが、この頃で」


 ただ、とつなげて、シズは目を伏せる。


「今年は、何だか、いけません。嵐の前のように、この静けささえ空恐ろしい」


 シズの直感は、後に証明される。


 この日からひと月も経たぬうちに、慶喜公は政権を天子様に返上された。王政復古の大号令。幕藩体制の終結、徳川の世に区切りが打たれた。


 以降、年を跨ぐと不穏な空気は日本中に伝播した。薩長の志士を中枢に据えた新政府案に幕府要人は反発し、双方が陰で刃を研ぎ……


 この時の俺とシズがいた伏見から、戦争が始まる。


 後に「戊辰戦争」と名付けられた幕府の終焉など、汚した着物を替えるシズを待つ俺は知る由もなかった。


「申し訳ありません、永倉さま」

「気にするな。左之助はどうせ遅れるだろうから、このくらいの道草がちょうどいい」

「そうですか……」


 戸板の向こうからの声は普段よりも小さく、絹擦れも重なって聞きづらい。俺は戸に背中をべたりとつけて、声を拾うことに意識を向ける。


 茶屋を後にしたが、襟と袖を汚した着物のままで店には出られない、と嘆くシズが自分の住まいに足を向けた。店からの遣いの品物は坂本が担いで持っていき、俺は左之助との約束までの時間を潰す。

 近江屋から通りを二、三隔てたシズの住まいは、女一人の居住空間としては持て余す、大層なものだった。近藤さんが京に構える邸宅が頭によぎるほどだ。


「繁盛しているってことか……?」

「はい?」


 指二本ほど戸が開き、シズが俺を見上げてくる。途中なのか、着物は肩から落ちて、襦袢の上に巻いているほどのものだった。


「永倉さま、何か仰って……?」

「そんな格好で開けるな!」

「ひッ」


 俺が鋭く言って、シズはぴしゃっと戸を閉める。布との境界線が曖昧な肌の白さが、俺に声を荒げさせていた。


「違うだろう、お前は。違うじゃねぇかよ」


 言って、俺は余計なことを口走らないため、口に飴玉を放り込む。


 窓から通りに目を向けると、童を背負って家路につく女が、小刻みに揺れながら歩いていた。

 童は、女だろうか。玩具の簪を握ったまま母の肩をよだれで濡らしている。母は寝息を背中に感じ、疲れの中に充足した心地を見せながら、足早に通り過ぎていった。


「違う。違うだろ……」


 目を逸らして見えた路地の隙間に、人影が見えた。


 柳のごとき男が立っていた。


「……佐々木?」


 俺が視線を寄越す瞬間に路地へ吸い込まれたのは、間違いなく京都見廻組局長、佐々木只三郎。腰の大小の刀を差して、影に溶ける鼠のような黒の隊服に身を包んでいた。


「伏見は見廻組の管轄。おかしくはねぇ……か」


 新撰組が京都市中で行う巡邏で、俺たちなら威嚇のため、浅葱の段だら羽織をなびかせて大通りを闊歩する。こそこそと路地を隠れて歩くことは、稀だ。

 それこそ、存在を誇示することによって取り逃がしてしまう輩がいるならば、話は別だが。


 佐々木の足が指す方角に、近江屋はあった。


「……っ」


 シズのことなど頭になかった。しかしその時の俺は、戸板から背中を外すのが一瞬遅かった。


 戸は勢いよく横に開かれ、俺は背に預けていた体重のままに中へ転がり込んだ。


 受け身は取った。右膝をつけて、姿勢は低く保つ。

 右手も刀の柄に添えて、奇襲に備えて神経を張り巡らせる。目、耳、鼻。すべての感覚を爆発的に開く。


 緊張の線に真っ先に触れたのは、ひときわ強い花の香だった。


「永倉さま」


 冷たい指が俺の右手を抑える。細く、折れてしまいそうな脆さに逆らえなかった。


「永倉さま、永倉さま」

「どういうつもりだ」

「永倉さま……」


 じわりと熱を持つ声をこぼして、シズは爪で俺の腕の血管をなぞる。縋るように俺を引き寄せて、頰からもたれかかってくる。


「……やめろ。俺は」

「あなた、に」


 シズが遠慮がちに、しかし確かな力でにじり寄る。

 餡に汚れた着物は足元に脱ぎ捨てられている。襦袢さえ彼女の肩から外れかかっていることに、ようやく気づいた。

 シズは胸の上にいる。控えめな圧迫のせいで呼吸は荒く、シズの香に頭まで満たされる。


「永倉さまに、私は足りません、か?」


 言い終えて、シズは口吸いをしてくる。

 伸ばした舌先で、シズは飴玉を俺から奪い取った。がり、じゃり、とざらめを噛み砕いて、再びシズは甘く舌を伸ばす。


 シズは、まるで乳をせがむ赤子のように、俺の鎖骨を弄る。着物の下に腕ごと潜り込ませて、そのまま剥がそうとする。首皮にざらめを塗りつけて、利き手は俺をくすぐる。シズは俺を滑って、擦れたところから火が出るように熱くなったから。


 俺は、シズの手を掴んだ。指の股に爪を立てるよう乱暴に二人を結ぶと、どちらともなく布団になだれ込む。


 の髪の付け根が、甘い白粉の味だったことを思い出した。


 *


『新さまは、どうせ私じゃ足りんのでしょう?』


 そう言って、俺の手をすり抜けた女がいた。


 芸妓の小常は、声と肝っ玉ばかりが大きい、小柄な女だった。

 遠目で禿に見間違われるような容姿を、左之助たちはよくからかっていた。加えて、無意識に親指の爪を食むという遊女らしからぬ悪癖は、彼女を幼く見せた。

 しかし、座敷遊びに興じる際の器用さや酒に唇をひたす所作の美しさは、年月をかけて確かに熟練していた。


 俺と左之助を「新さま」「左之さま」なんて渾名で呼んだのは、吉原の中でも小常くらいのものだった。悪名を貼られた新撰組を前にして、彼女は馴染みの遊女であることを曲げなかった。


 俺も彼女の前では羽織を脱ぐ。小常と言葉を交わすひと時は、楽しさの底に安らぎがあった。

 それは線香が燃え尽きるまでの時間だったり、ようやく借りられた京の住まいでのいくつかの夜だったり。彼女は、新撰組二番組組長という責を俺から引きはがせる唯一の存在だった。


『なんのかんのと仰りながら、新さまはついぞ私を選んでくれなんだ。あぁ悲しや、悲し』


 芝居がかった口調は、小常がとりわけ機嫌を損ねた証拠だった。


『枕を並べても、口をつくのは近藤さま、土方さま、沖田さま……! そんなに新撰組を好いているなら、新撰組と懇ろになればよろしいので?』


 俺のいない方へ寝返りを打つ。手を伸ばしたが、俺の言い訳は弱かった。仕方がないだろう、とか、どうしてすぐ拗ねるのか、とか、言葉にする意味もなかった。


『わかっています、重々承知の上でございますとも、えぇ。永倉新八に、京の都は狭いでしょう。いずれ飛び出すあなたさまを、小常は見送ることしかできませんよ』


 後ろから見ても膨れていることがわかる彼女の頰がおかしくって、俺は指の腹で押してやる。ぽこっと下手なビードロに似た音がして、俺だけが笑った。


『いずれ、が、わかっているのですから』


 やっと、小常は俺の方を向く。下唇を突き出して、涙袋が膨らんでいる。泣きじゃくる童にそっくりな顔がいつまでも似合うほど、小常は可憐だった。


『いま、くらい、私が新さまを独り占めしてもえぇでしょう』


 小常は俺の浴衣の襟を握って、反対の手は口元に置いている。見れば、自分の親指をしゃぶりながらくぅくぅ寝息をたてていた。

 俺はいつも包むように抱いてやったが、体格が合わずに身を寄せ合っても肌寒い。だから、俺は息もしづらくなるほど小常を抱いて眠った。


 永倉新八に、お前は必要だ。お前の小さな体と、微かな熱と、舌ったらずな京言葉が、俺を支えてくれていた。左之助の二番煎じになるから、と、俺はついぞ言葉にできずにいた。


 とうとう、言えずじまいにいなくなるとは、知らなかったのだ。


 *


 目を覚ます。

 シズの髪が口の中にあった。


 俺は指で舌を引っ掻くように、髪の毛を掻き出す。それは唾に浸っていたから、もう香りなんてしない。布団にこするようにして、捨てた。


 目を凝らす。周囲を確認できる程度の薄闇は、まだ夜が更けていないことを教えてくれた。俺は、掛け布団を努めて静かにめくりあげた。


「シズ……」


 名を呼んだ女は、いなかった。


 見渡すと、だだっ広い部屋は夜討ちにあったかのように乱れていた。箪笥は開けっ放しで、中から地味な柄の浴衣がべろっと出ている。脱ぎ散らかされた着物のうち、男物を身につけ、女物は布団の上に放っておく。


 俺は玄関まで足を引きずって、そこで、全身の毛が逆立った。


「……!」


 着付けなどぐちゃぐちゃのまま、飛び出した。目的の場所までの方角だけはわかっている。焦りに引っ張られるように駆け抜けて、路地を曲がった。


 前から、闇に溶ける着物を着た男が同じく走ってきたことに、ぶつかってから気づいた。


「貴様ッ!」


 相手が尻をついた。すぐに体勢を整えると、鯉口を切る。


 倒れなかった俺は、反射的に右手の平を腹の前で天に向け、無刀取りの構えを取った。しかし、すぐに腕を下ろすことになる。

 倒れた男の横から、提灯が差し出される。照らされた俺の顔を見て、そいつは幽霊のように冷たく笑って見せた。


「永倉君、じゃないか」

「佐々木……、局長」


 背後に控えていた京都見廻組の隊士に抱え起こされる、佐々木只三郎。奴は俺を睨め回す。


「こんな時分に奇遇だ。永倉君は、非番の日まで上官の顔は見たくなかったろうに」

「……いえ、そんな」

「そんなに着物も乱して、何より、帯刀もしていないとは。武芸達者な君と言えど、些か不用心ではないか?」

「…………」


 俺が顎を引くと、佐々木は道を開けた。


「我々は平素のごとく、夜間の巡回を続ける。君は、馴染みの店にでも行くのだろう? 急いだ方が良いのでは」


 俺は答えない。答えを待つつもりもないのだろう、佐々木は隊士に先を行くよう促して、最後に俺とすれ違う。視線で俺を刺しながら、奴は言い残す。


「色男は、香りが違うな」


 佐々木の言葉の底には、嘲笑があった。その言葉の真意を問い質すよりも先に、むせるような臭いが俺の鼻をくすぐった。


 紛れもない、血の悪臭。佐々木と見廻組の隊士たちから、それは撒き散らすように漂っていた。


 見廻組の連中を見送ってやる義理はない。唾を吐いて、目的地に足を向ける。


 旅籠・近江屋は、静まり返っていた。活気がない、寝静まっている、などではない。まるで建物自体が斬り殺されているように、沈黙が支配している。


 俺は、ぎこちなく首を上げる。近江屋の二階、突き出した窓を、わざと見ていなかった。


 先日、坂本が飛び降りた場所は、下から見上げると近かった。……障子に飛び散った、血の跡が見て取れるほどに。


 ほとんど蹴破るように、俺は近江屋に乗り込んだ。手狭な石畳に、糠漬けの樽が転がっている。襖は踏み荒らされて、格子が折れている。


 二階へ続く階段では、濃紺の着物を着た奉公人が、背中から血を流して突っ伏していた。

 右の肩から腰の左まで達するほどの袈裟斬りで、痛みのうちに死んでしまったのだろう。俺は目を閉ざしてやって、手を合わせてから彼を跨ぐ。


 階段を一つ上がるたび、血の臭いは強くなっていった。空気が溜まって、循環していかない。死は目に見えないし、耳に聞こえてこない。充満した死というものは、嗅覚でしかわからなかった。


 手すりに凭れながら、俺は首を回す。階段を上がって左が、以前坂本に呼ばれた部屋だった。


 若草色の襖は、内側から外れて倒されていた。その上に、一人。浴衣姿の女が転がっていた。俺は彼女の頭までたどり着き、名前を呼ぶ。


「シズ!」


 横たわる女……シズは、部屋から這いずるような姿勢になっていた。膝の上に乗せた顔面は塗ったように蒼白で、そのせいで顎から滴る返り血が鮮明だった。


 首に指を当てると、弱々しくも脈はあった。生きては、いる。張り詰めたままの糸が緩んだが、気休めに過ぎない。

 シズの浴衣の袖、右側の袖口だけ帯状に真っ赤に染められている。刃が腕に当たったのか、とめくりあげたことを、俺はすぐに後悔する。


「う……っ」


 彼女の腕はまっさらで、傷一つなかった。ふっくらと薄く肉付いた肩も、角ばった肘も、陶器のような白のまま。ただその先が、ない。


 シズは、手首から先を斬り飛ばされていた。


 傷から推測するに、ちょうど骨のつなぎ目を下から一閃刎ねあげたのだろう。むごたらしいまでに美しい太刀筋は、下手人の腕の良さを物語っている。


 俺は自分の袖を千切り簡素な包帯を拵え、シズの手首にきつく巻きつける。シズを階段の欄干に背中を預けて座らせ……部屋につま先を向ける。


 俺は、自らの足音以外に何も聞いていない。それはもう生き残ったものがいないことを表しているようで、ふつふつと肌が泡立った。


 第一、俺は丸腰だった。万に一つ、身を潜めた輩に斬りかかれたら、無事では済まなかったことだろう。


 結論、それは杞憂に終わる。俺が部屋を覗くと、下手人と思しき影は窓際に突っ立って、自分自身を隠そうともせずに月明かりを浴びていた。


 俺より頭半分上背のある巨躯は、光を遮っていた。蝋燭は軒並み斬り捨てられているから、薄闇の中で部屋を改めなければいけない。


 俺が蹴っ飛ばしたのは、漆塗りの茶碗だった。中身と思しき豆腐と葱が草履の裏の模様に潰れて、畳にべとりと染みこむ。


 鉄の鍋は座布団の上で逆さになっている。それは、以前も出された猪鍋だろう。脂の匂いが血の生臭さを助長させて、鼻の曲がる異臭になっていた。


 上座に向かって鍋の汁が池を作り、縁を境に赤黒く変色している。辿って、掛軸が傾く床の間に、奴は胡座をかいていた。


「坂本、龍馬」


 龍は、血溜まりに落ちた。


 眉間から右の頬骨にかけて刻まれた刀傷から、数本の鮮血が滝のように流れている。頸にも刃が差し込まれたのか、紋付羽織の左半身はひどく鉄臭い。腕を投げ出しており、目を凝らすと、左手の親指以外が切り落とされていると判った。


 そこまで部屋の中を凝視して、しかし俺は一歩も動けなかった。理由は明白だ。ゆらゆらと佇み、絶命した坂本を見下ろす面。それを俺は十年見てきた。


 見間違うはずが、なかった。


「……左之助?」


 男は、首を傾ける。

 手には小太刀が一振り。血は、涎のように垂れていた。

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