龍を落とした男 ④

「永倉さん! 永倉さんじゃァないですか。こんな寒空の下、奇遇ですねェ」


 吹いたら飛びそうな軽薄な声。茶屋の軒先で、坂本龍馬が笑っていた。


「坂本……?」

「龍馬って呼んでくださいよ、原田さんみたく」


 ククっと喉を鳴らす坂本は、湯飲みを持った手で俺を招く。向かいにちょこんと座った着物の女の隣を、指し示していた。


「永倉さまっ」


 振り向くと、件の甘い香が届く。近江屋の女中・シズが、団子の串を両手で持ったまま俺を見上げる。


「……今日、店は休みか? 坂本と二人で、とは」

「い、いえその」


 例のごとくシズは俺を前にすると、悪戯が露見した童のように縮こまる。口元に団子の串を持っていくのは、口を噤んでいるつもりなのだろうか。


「違いますって、永倉さん。シズの稼ぎ時はこっからですよ。暖簾を上げる前の買い出しの帰路を俺に見つかった、ってぇ寸法です」

「これから、店に行くのか?」

「ご明察。今日は、退っ引きならない会合がありましてね」


 坂本は含み笑いで受け流し、それを見て俺はシズの隣に間を空けて座った。


「俺は、お前がいるなんて聞いてねぇぞ」

「知られていたら困ります。なんだって新撰組の幹部に、手ずから伝えるんです?」

「今日は、左之助と呑むんじゃねぇのか」

「それは一昨日の夜ですが?」

「……あぁ、そうかよ」


 俺の謹慎中に、奴はまた坂本と飲み交わしていたようだ。会津藩御預が聞いて呆れる、土方さんの拳骨が今すぐに欲しかった。


「あ、でも、その時の原田さまはいつもの調子ではありませんでした……」


 と、シズは身を乗り出す。


「心ここに在らず、というか、上の空と言いますか。本調子ではなかったようなので、長居はせず布団に入られました、よ」


 擁護のつもりなのだろう、シズは俺に訴えかける。喉の下のあたりがささくれだつような感覚に、顔が歪む。そんな俺を見て、シズはしおしおと眉を下げる。


「すいません、でした」

「シズの謝ることじゃァないでしょう。原田さんを無理に誘った俺に非がありますから、永倉さん」


 坂本はへらへら笑って、俺の視線を自分に誘導する。


「あいつのだらしなさは今に始まったことじゃない。今更咎めるのも阿呆らしい」

「そうでしたか、そうでしたか。仲睦まじきは美しき哉」


 言って、坂本は膝を叩いて笑う。このちゃらけた態度に沖田は殺気立ち、左之助は意気投合した。


「非があると認めるなら、お前が対価を払え」

「えぇ。今度は何を『ねごしえいと』しましょうか?」


 喉仏を掻く坂本。俺は意味もなく声を潜める。


「以前、お前が答えなかっただろう。坂本龍馬、お前は一体何を為す?」


 この男は俺たち新撰組を「気高い」と称した。同時に「狭い」と貶した。

 手柄を上げた俺たちを迎える会津も、戦火の向こうで慟哭した長州も、そんな言い方をしなかった。

 遠巻きに讃えるか、恨みつらみをぶつけるか。両極端の見られ方しかなかった新撰組を、坂本龍馬は敬意を持って罵った。


 こんな男はもういない。坂本龍馬は、何を見る? 俺はそれを知りたかった。


「シズ」


 満を辞して坂本は、俺の隣を見る。最後の団子をむきゅむきゅ齧っていたシズが、目を丸くする。


「む、ふぁい?」

「襟ンところ、餡が垂れちゅう」

「……あっ」


 顎を引いて、シズは自分の胸を見下ろす。蛞蝓のようにべろりと襟を汚す餡を、彼女は自分の袖で拭った。


「それじゃあ、次は袖が汚れるだろ」

「あ、えと……」

「早く洗濯しないと、シミがつくぞ」

「はい……」


 俺の言葉に、シズは呆然とした。袖の残りをどうすることもできていない。

 すっかり萎んでしまうシズを見て、坂本が自分の額を指で突っついた。


「それじゃァ、永倉さん!」

「あ?」

「洗濯じゃ、洗濯! 俺が為すのは、日本の洗濯やき!」


 自分の言に、坂本は大袈裟に身震いをした。


「俺がこンまい頃にゃ、姉やんにやらされたもんじゃ。夏は水遊びの延長で褒美のようじゃったがァ、今くらいからは拷問に近い。ひやっくて指がちぎれそうになって、それでも汚れが落ちんとゲンコやき、やるしかない。ありゃァ御免じゃ、もう二度と」

「……さっきからお前、何言ってんだ」


 俺が訊くと、坂本は腕を大きく広げた。さながら、飛び立っていく龍のように。


「二百年越しの垢やらシミやらに塗れた日本を、今一度洗濯致し候! 俺の為すことは、童の頃となんちゃァ変わらん、ってことですよ」


 末尾だけを取り繕った敬語に戻したが、坂本の興奮は国言葉に乗っていた。

 この男は、国を語る時に限って口調が乱れている。理性的な交渉人ではなく、土佐の一人の若武者に戻るのだ。


 それは交渉人としての致命的な欠点だろうが、人はこの姿に惹きつけられる。左之助も、安房守も、そして俺も、気づけば奴に絆されていた。


「まっさらな日本を、海に、世界に開く。それが、俺が命を注ぐだけの価値のある夢じゃァ」

「開く、ってのは」

「外からの文明を寄せ付けない攘夷じゃァない。国に根付いた組織をぐちゃぐちゃに解体する倒幕じゃァない。今こそ、日本は外に目を向けなきゃいけない」


 そう語る坂本の言葉は均されて、穏やかな声音ですらあった。


「沖田さんにゃァ怒られたが、俺はね、永倉さん。お上のことは尊敬しています。これまで二五〇年もの間、この国を統治した組織はない」


 坂本は拳骨を俺との間に掲げると、勢いよくその握りこぶしを解いて見せる。


「その力と知恵を、今度は開国のために使って欲しいのです。それを、俺は勝先生にも直談判しています」

「幕臣が、お前の言葉に耳を傾けるのか?」

「あの人は安房守である前に勝海舟で、俺は土佐の脱藩浪士である前に坂本龍馬。それだけのことですよ」


 国言葉の快活な響きは、しかし、続く言葉には引き継がれない。


「……そのためにも、血ィはいけない」


 席を立って、坂本は呟いた。その時、奴は俺を見てはいなかった。


「せっかく洗った一張羅を、どうして自分らの血ィで汚さにゃいけない」

「何を言っている、お前は……?」


 もう坂本が答えることはなかった。

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