龍を落とした男 ②
「で、場所はおなごのお隣ですか」
線香の香りを吸って、沖田が吐き捨てる。俺の方だけを向いていた。
「左之助の提案だろうが」
「それについていくのが、新八さんですよね」
「どういう意味だよ」
「そういう意味です」
憎たらしく鼻を鳴らして、沖田は吸物を啜る。取り皿の淵にネギを除けていた。
「俺は目付け役、文句垂れるのは筋違いだ」
「あれには、言っても遅いでしょうに」
沖田が顎をしゃくる方向には、小ぎれいな格好になって馴染みの女に体重を預ける、坂本。
その隣の左之助は、半裸になって不細工な舞に興じていた。機嫌が良くなるとすぐに着物を脱ぎ散らかすのが、こいつの悪癖の一つ。三味線を猛々しい足音で掻き消して、周囲の女を笑わせていた。
「毎度毎度、原田さまは愉快な方です」
声は、俺の肩のあたりから。酌を傾けるのは、シズと呼ばれた女だった。左之助のバカ騒ぎに手を叩く女を流して見ながら、俺の陰に隠れるように同席していた。
「沖田さまは」
「私はいいです。気分になりません」
「はぁ……」
シズが小首を傾げると、その小さな動きで彼女の香の匂いが振りまかれる。鼻から舌にまで乗ってくる、甘い香りだった。
「では、飴玉はいかがでしょう? 沖田さま、ハッカは苦手ですか?」
沖田を慮って、シズが包まれた飴玉を取り出す。
「得意じゃないですけど……まぁ、もらいますよ」
沖田はシズの手のひらから一つを摘んで、口に運ぶ。シズはそれだけのことにパッと顔を輝かせた。
シズは化粧っ気が薄く、絢爛な着物に着られているような野暮ったさの拭えない女だった。それでも紅を引いた唇は形良く、常に浅い弧を描いている。
「おシズさん。左之助さんは、よく此方に?」
右の頬を飴玉の形に膨らませながら、沖田が尋ねる。シズはこくりと首肯した。
「はい。坂本さまとご一緒のことが多いです。あのお二人がいらっしゃると、いつもこう……に、賑やか、ですよ」
「へぇえ」
沖田が片眉だけ下げて、肩を竦める。シズは反対に小首を傾げて、また香が漂う。
「あの阿呆二人は、付き合いが長いのか?」
俺が続けて問うと、シズは肩をひくっと飛び上がらせた。
「は、はい。あ、いいえ、その」
シズは歯切れ悪く答える。
「わかりかねます。それも、私がここでお世話になっているのはひと月ほど前からなので。も、申し訳ありません」
俺を相手に、シズは亀のように縮こまってしまう。俺は眉間を指でこすって、シワを解こうと試みる。
それを見下ろす、左之助。下品に舌を垂らして、俺とシズの間に滑り込んできた。
「よォ、新八。やっぱりおシズが好みか? おシズは、おぼこいからな! ケッタイな着物より浴衣が似合いそうだろう、な?」
「……左之助」
「昔っから言ってんの、忘れてやらねぇからな? 新八、お前さんは姉さん方に好かれるくせして、好みとなりゃあ自分より背も年も低いヤツばっかりで……」
俺は、左之助の脳天に拳骨を叩き込む。容赦はしなかった。
「原田さまっ?」
シズが、同席してから初めて大声を上げる。目を回す左之助に手を伸ばして、倒れる前に奴を体で受け止めた。
「だ、大事ないでしょうか?」
「一大事だっての……新八、加減しろよぉ」
半べそをかきながら、左之助はシズの膝を枕にする。それを、彼女も拒まなかった。
「…………」
俺は大ぶりに酒を煽る。猪口の中に見えた自分の顔が、ひどく歪んでいた。
「……さて、座敷遊びはもう十分でしょう?」
がり、と、飴玉を噛み砕く音が聞こえた。
口火を切ったのは、沖田。出口へ続く襖にもたれているのは、沖田なりの牽制なのだろう。
「沖田さんには敵わないですねェ、どうも」
上ずった声で呟くと、坂本は女から体を離して、俺と沖田に向かって居を正す。
「これまでが『あいすぶれいく』ってなもんですよ、えェ。こっから本番、命をたたき台に出した『ねごしえいと』でございます」
頭を下げる坂本に、沖田は唾を吐きかける勢いで言葉をぶつける。
「さっきから、それ、耳触りが悪いんですよ。あいすぶ、とか、猫が……なんですって? 土佐の国言葉にしては、聞き慣れませんが」
「沖田さん、こいつは日本の言葉じゃない。エゲレスの国言葉で『英語』っていうんです」
坂本は童に教えるような口調で言うと、続いて自分の猪口を目の高さまで持ち上げる。
「見てください。金魚ですよ、金魚」
「はい?」
坂本が指を差すのは、猪口に描かれた柄。確かに、小指の先ほどの小さな金魚が泳いでいる。
「ふざけてんのか、お前?」
俺が横から口を挟むと、坂本は酒を喉に落としてから首を横に振る。
「いやァ、まさか。俺は大真面目ですよ。なにせこの金魚が、新撰組なのですから」
「……どういう意味だ」
坂本は答えない。代わりに、奴は左之助を見ていた。
「なんでも、俺たちは猪口に泳ぐ金魚なんだとよ。川でも池でもねぇ、手のひらの中を死に物狂いで泳いでいる、ってか?」
言って、左之助はシズの膝から起きあがる。
「あぁ。新八、総司。これは龍馬の受け売りだぞ? 勘違いしてくれるなよ?」
「しませんよ。原田さんに、そんな感性があるとは思いませんし」
沖田が舌を出すと、左之助は大口を開けて笑った。つられてシズも肩を揺らして、香が振りまかれる。
「原田さんが言ってくれた通り、これは徳川統治の二五〇年が作った、侍の果てですよ」
猪口を遊女に渡すと、坂本は座布団から腰を上げた。赤い顔のくせに足取りは確かで、万に一つも不意はつけない。
「こいつは大前提ですけど、俺は新撰組を貶すために、わざわざこんな話はしませんよ。この金魚は美しい。一君に忠信を誓うあなた方は、誇り高き侍の完成形。俺はあなた方を、尊敬する」
締まりのない顔を引っ込めて、坂本は窓の障子を開いた。
「ただ、狭い」
「狭い?」
坂本は窓枠に腰掛ける。指を組んで手を握り、座る俺たちを見下ろす。
「外交を禁じて、国の発展を縛る。なるほど国力の均一化となりゃァ得策だ。だが、永倉さん、沖田さん。その足踏みが今じゃあ国ごと危険にさらしているってのは、お気付きですか?」
沖田はそっぽを向いている。俺は、首を横に振った。
「そんなのは、お前のお仲間が京で暴れるための大義名分だろう? 開国、倒幕、攘夷っていう常套句で、耳に胼胝ができてんだよ、こっちは」
「その言葉だけで片付くような段階じゃねェんですよ、永倉さん。もう、幕府だ外様だという枠なんざ、足枷でしかない」
「お上が、枷……?」
沖田の声がひときわ低くなる。
「撤回してください。それは、減らず口で済ませていい言葉じゃない」
「……沖田さん。局長の近藤さんと、副長の土方さんは、元来武家の出じゃないと伺っております」
「田舎者が京で侍を語って、お上に忠義を示すのが、お武家様には可笑しいですか?」
沖田は腰を浮かせて、早口でまくし立てる。坂本は沖田の逆鱗に触れてしまった。
俺や隊士の一部は、元々が武家の生まれだ。その上で近藤さんの道場の門を叩き、土方さんや沖田の剣に凌駕されて、今に至っている。
だが、近藤さんをはじめ、新撰組には武家の出自を持たない者が多い。沖田が心酔する近藤さんや土方さんは試衛館で育ち、新撰組で武士に成った。
生まれが武士であった俺と、剣を頼りに武士に成った近藤さんたち。ゆえに後者は、新撰組を登用した会津公、ひいては将軍に対する忠誠心が一線を画している。
無論、俺たちの忠義の程度が低いわけではない。彼らの忠義はより深く、容赦がない。
それに、沖田は……。
「可笑しくないです、絶対に。沖田さん。あなたが『その体』で人を斬ることだって、なんちゃァおかしくねェですよ」
俺と左之助は目を剥く。沖田は、襟を手で押さえた。
奴は、沖田が女であることを、見抜いている。
「お、沖田さまは、お身体の具合が優れないのですか?」
シズが、自分の膝にいる左之助へ小声で尋ねている。
「……龍馬。それ以上、言ってくれるなよ」
左之助の忠告に、坂本は素直に頷く。
「えぇ。そこを言及するつもりはありません。ただ、俺が追うのはそういう日ノ本ですよ、皆さん」
坂本が窓から身を乗り出すように外を見る。
京は快晴。晴天の青はどこまでも続きそうだった。
「俺も、国元では下士の家の凡だったんです。土佐の武家で慣習化していた上下の隔たりは、度が過ぎていました。下士の生まれじゃあ、人間扱いもされませんでしたよ」
「それでも、あなたは武家の生まれで……」
「生まれが、そいつの未来を決めるのですか?」
沖田の言を跳ね返し、坂本は腕を大きく広げて見せた。
「どこに生まれ、男か女かどれかで、どんな家の出で……。そんな材料だけが俺たちを作っているなんて、狭い、狭い! 俺が何をするか、何を成すか? 俺の衝動に、信念以外の理由はつけたくない!」
語る坂本は、童のような邪気のなさで笑っている。このまま、名前の通りに飛び立っていきそうな様子に、俺は目を離すことができなかった。
「だったら、お前は何を成す? 聞かせてみろよ、坂本龍馬」
俺が、そう尋ねていた。左之助は得意げににやついて、沖田は収まりが悪そうに襖に寄りかかる。
そして坂本は、俺をまっすぐに見つめてから、言った。
「ここで今日はお開きです。本日の『ねごしえいと』、商談成立ってことで」
言葉を最後に、坂本は開け放たれた窓枠の向こうへ、背中から落ちていった。
「はぁっ?」
慌てて手を伸ばすが、座を正していた俺たちが間に合うわけがない。俺の指が奴の袴をかすめて、坂本は消える。
勢いのまま下を覗く。そこに潰れた坂本は、いなかった。
「坂本さん、あんたはまた無茶して!」
「命をなんだと思ってるんです?」
「バカだ、うちの大将は大バカだ!」
俺たちのいる店の前に、屈強な男たちがあふれていた。町人の通行を妨げるほどの大所帯で、肉布団を作っていた。
そこに受け止められた、坂本。奴はカッカッと喉を鳴らしている。
「やっとか、やっと! 遅い遅い、何しちゅうがァ、おまんらは!」
坂本は土佐の国言葉で、周りの同志を爽やかに叱りつける。
「あいつ、味方が来るまでの時間を稼いで……!」
俺の背におぶさる姿勢の沖田が舌打ちをする。
身を翻して下に降りようとする沖田に、声が飛んできた。
「おぅい、壬生の狼! 伏見くんだりまで、ご苦労さん!」
「……あれって」
今にも坂本を斬り殺そうと息を荒げていた沖田が、立ち止まる。
声の主は、坂本を待っていた男の中でも小柄で、しかし最も整った身なりをしていた。皺ひとつない紋付羽織や彼の脇に控える籠など、身分の高さが一目で判る。
見下ろす形の俺たちに手をあげて、屈託なく話す。
「儂は、勝海舟って者だ。お前らが相手していた、この駄馬を引き取りに来た!」
「駄馬ってずいぶんじゃァ、勝先生! 馬は馬でも、俺は龍馬じゃ!」
「阿呆! てめえの仕事もほっぽって駆け出すのは、儂の故郷じゃあ総じて駄馬ってんだよ!」
勝海舟。確かにそう名乗った。
俺も沖田も、体がこわばって動けない。
「勝先生、って、あの安房守ですか?」
「だ、な。本物の、幕臣だ」
沖田が俺と囁きあっていると、勝安房守は手をひらひらと降った。
「あぁ、そのままでいい。ついさっき、お前らの大将に会ってきた所だからよ」
「近藤局長に、ですか?」
「そうだ。近藤と土方には参ったぜ? こいつを儂に任せろっていっても、最後まで渋ったからよ」
勝安房守はそう言うと、坂本の首根っこを掴んだ。
「儂の肝いりの要人ってなことで、なんとか説き伏せた。その時の取り決めで、新撰組は坂本を発見し次第引き渡し、で固まったからよ。図らずも、お前らが役目を果たしてくれたって寸法だ」
「は、えと……」
「改めて、ご苦労! 褒美をとらせるよう、松平には儂から申し伝えておこう」
その言葉を最後に、勝安房守は籠に姿を潜めてしまった。言葉を続けられない俺と沖田は、籠と坂本たちがその場を去っていくのを傍観するほかなかった。
「またな、龍馬ぁ!」
大声は、俺たちのすぐ後ろから。左之助はシズの肩を借りながら、坂本に声を降らせた。
建物を震わせるような大声に、坂本は振り返る。奴は外行きの微笑を浮かべて、叫んだ。
「楽しかったですよ、原田さん、沖田さん、永倉さん! また会いましょう、次もおんなじ『近江屋』で!」
*
今日、思い出すのはここまでだ。これ以上は見張りの上役が蝋燭の無駄遣いと煙たがる。
渦中の野郎は、今頃イビキをかいていやがる。戦火の中でも変わらない剣呑な姿が、俺には救いになっている。奴に言ってやることは、一生ないだろうが。
原田左之助。試衛館からの同門、仲間内で唯一の槍術の遣い手。誰からも同じだけ信頼されて、同じだけの距離を保っていた、十番組の組長。
本当に、お前なのか?
坂本龍馬を斬ったのは。
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