六文銭は裏返る 後編
もう、現実に戻ろう。
「山崎。お前、死ぬだろう?」
船室の隅で横になっている山崎に、俺が尋ねる。奴は枕の上で小さくうなずいた。
ここは、敗走の船内。
京の伏見から、薩長中心の倒幕派による武力行使が勃発。戦火は飛び、都は焼けた。隊服は煤けた臭いがして、その奥に血の鉄臭さが残っていた。
山崎は、敵の銃弾を浴びて瀕死の状態でこの船に担ぎこまれて、ようやく治療が終わった。しかし顔を覗く限り、山崎に生気はない。十分に起き上がることもできない体は、ほとんど黄泉に沈んでいる。
ただ山崎の監察方筆頭としての意識だけが、俺との会話を成立させている。
「船上で死ぬと、処理が、面倒ですから。せめて、江戸の港に着くまで、保たせます」
「余計な気ぃ回すんじゃねぇ」
「……申し訳ありません」
俺は奴の口元を見下ろす。土気色の顔色で、唇だけは薄く桜色のままだった。
「山崎。針医者上がりのお前が、自分の容態を把握できないわけがない。……明日、息は残るか?」
「いいえ」
山崎がきっぱりと言った。奴は自分の命さえ主観で語らない。事実だけを淡々と伝えて、俺たちの元を去ろうとしている。
「そうは、させねぇぞ」
「永倉組長……?」
俺は山崎の枕元にどかっと胡坐をかく。握った竹筒の中から漂う安酒の匂いが、鼻腔の奥を刺す。
「一献、付き合え。山崎」
「……酒が入る内臓も破れた、私に、ですか」
「酒は百薬の長、だっけか?」
「限度があります」
「命令だ。呑め、山崎」
俺が粗雑に竹筒を差し出す。山崎は初めて、呆れた視線を俺に送ってきた。
「呑めません。なので、唇に湿らせていただけますか」
「あぁ。わかった」
答えて、俺は竹筒から喉へと酒を流し込む。山崎はそれをぼんやり眺めていた。
口角に残った水っ気を自分の薬指で拭うと、指先から垂れるよりも先に、奴の唇へ塗ってやった。
山崎は今度、ぽかんと間の抜けた表情で俺を見上げた。
「なんだ」
「口吸い、でも、されるのかと」
「阿呆か、お前。俺にそんな甲斐性あるかよ」
「……永倉組長は、おかしな人です」
山崎は短く舌を突き出して、自分の唇を舐める。舌先に移った酒の味に、喉を上下させる。
「まだ要るか?」
「充分です」
山崎の声音が心持ち軽やかになった。それが、俺の狙いだった。
「なぁ。山崎。山崎烝」
俺は奴の名前を呼びつけてから、こう言った。
「お前は、どっちだ?」
「山崎君は、二人いる」
六番組組長・井上源三郎は、大真面目な顔で告げた。数秒の沈黙があって、俺たちは揃って爆笑した。
「源さんってそういうお噺もしてくれるんですね! 面白いですよ、面白い!」
沖田なんかは足をばたつかせて、腹を抱えていた。
「怪談ですか? 怪談ですよね? 納涼納涼! くひ、あはははっ!」
「……総司。俺はふざけたつもりはない」
「いつもの真面目な様子で言うんですから、もっと面白いんじゃないですかっ」
げらげらと品なく笑い転げる沖田に、源さんは困った表情で頸を掻いている。その様子は確かに、酒にのせられて妄言を発したものではなかった。そもそも、源さんは下戸だ。
肴の葱を一口つまんで、俺は腰から身を乗りだす。
「源さん。なんの根拠で、そんなこと言うんだ? 山崎って、監察の山崎烝だよな?」
「根拠も何も、この目で見たのだよ。鏡写しの同じ顔がもう一人。山崎君が、二人いた」
「へぇ……」
「あれは、お前たちが池田屋に乗り込む数刻前だった」
前置きをして、源さんは講談師よろしく膝を叩いた。
「攘夷浪士の潜伏先を特定するため、巡邏区域を広げていただろう。六番組も例外なく、ちょうど池田屋を覗いたのが俺たちだった」
内部調査のために潜り込んだ山崎との合流のため、源さんが裏口の戸板から中を改めた時、だったらしい。
「宿泊客と中居が、膝を突き合わせて話していたが……狐にでも化かされている気分だった。姿形はまるきりおんなしで、面にだって違いはない。そっくりそのまま、服が違うだけの山崎君たちがいたんだ」
「山崎たちって、変な言い方」
沖田が茶化しても、源さんの口は止まらない。
「君たちは、おかしいとは思わなかったか? 山崎君が、どんな人間にも化けていることに」
「それが監察方でしょう? まぁ、山崎ほど精度の高い者なんて知りませんけど」
寝転がったまま沖田が答えると、源さんは大きく頷いた。
「山崎君の技能は一人の男が成し得る範疇の代物じゃない。士農工商、それらに成り代わることまでは、わかる。しかし、しかしだ。女中や遊女にまで自らを偽るなど、不可能じゃあないか」
源さんが熱を込めた声で語っていると、とうとう俺たちから笑いが消えていく。
「じゃあ、何か? 見かけたもう一人の山崎は、女だって?」
俺は沖田を横目で見ながら、源さんに尋ねる。沖田は、俺の視線など気にもしないで徳利を傾けていた。
「俺たちの知る山崎は、華奢な奴だ。あれなら、変装次第でどうにでもなるんじゃ?」
「体格の問題じゃない」
源さんは食い気味に俺の言葉を否定する。蝋燭の炎のせいか、源さんの顔にはほんのり朱色が差している。
「それに、誤魔化しが効く居住まいや仕草以前のものだ。彼女は、無常な感じで、儚く、とても……」
「とても?」
「……いや」
そこまで言って、源さんは口を噤んだ。俺は、自分の眉がだらっと下がることがわかった。
「おいおいおい、源さん。そいつは穏やかじゃねぇなぁ。東国一の堅物っぷりが、京じゃ形無しかよ」
「な、何が!」
耳まで赤くして弁明を試みる源さん。その時、今日一番の酒の供が決まった。
「新八さん? 穏やかじゃないって、何がですか?」
「あぁ、あぁ。総司はそのまんまでいいからよ。……斎藤!」
俺の一声で、斎藤は源さんを後ろから羽交い締めにする。さすが三番組組長、話が早い。
「斎藤君、何をする?」
「源さん。今夜はあんたで遊ばせてくれよ」
俺が徳利を二本掴んで、源さんににじり寄る。源さんは危機を察知したが、時すでに遅し。
この席一番の年長者らしからぬ体勢のまま、斎藤の拘束から逃れようと地面の蝉のようにもがいてみせる。
「駄目だ。よせ、新八」
「今更呼び捨てたって迫力ねぇよ、源さん」
「酒はやめろ。俺が飲んだら、おまえたちが迷惑を被るだけだぞ」
「上等だよ。こちとら、全部吐かせるつもりだ」
その日、俺は源さんに無理やり酒を飲ませて、文字通り腹の中の全てを吐かせてしまった。
山崎が二人いること。片方が男で、片方が女であること。
そして、女の山崎を偶然見かけた源さんが、一目で惚れちまったこと。江戸の頃から浮いた話に縁のなかった源さんの初心な吐露に、俺の方が恥ずかしくなった。
源さんはその日のことを翌日には忘れていた。沖田は早々に座布団の上で丸くなって寝て、斎藤も途中で屯所に戻っていた。残りは、話が始まる前にいびきをかいていた原田左之助だけ。この話の生き証人は俺だけだった。
今、この世でこの話を語れるのはもう、俺だけだった。
「井上組長は、伏見にて砲弾を受けて戦死……ですよね」
山崎が言って、俺はうなだれながら頷いた。
源さんは死んだ。先の戦争で誰より早く、逝ってしまった。
「……源さんは、特段才のねぇ男だった」
敬意を込めて、俺は源さんを扱き下ろす。
「近藤さんみたいに人前に立つ器量はなかった。土方さんみたいな戦略眼もなかった。山南さんほどの知識だってなかった。俺や斎藤、総司に敵う腕もなかった」
「でも、井上組長は、新撰組だった」
「……あぁ」
山崎の言葉に、俺は酒を腹まで流し込む。
朝食だとか稽古だとか、取り留めのない時間を縁取ると必ず、井上源三郎はそこにいた。
源さんは、俺たちの日常だった。
「私も井上組長にはよくしていただいていましたから……無念です」
と、起伏のない声で語る山崎が、俺はひどく憎たらしかった。
「で? 俺の質問に、いい加減答えろよ」
「……意味がわかりません。私が、どちら、とは?」
「死んだ組長を法螺吹きにするのか? 源さんが見た、もう一人の山崎ってのは、どこにいる」
「山崎は、一人。それは事実です。そして、私、山崎烝はここに。それ以上のことは、ありません」
山崎の顔は微動だにしやがらない。だから俺は、こいつが不得意だった。
密偵の状況報告の時と、源さんの死を悼む時の顔が、まるで同じだ。喜怒哀楽が一つの表情で完結する輩を、こいつ以外に知らない。
俺が竹筒に残った酒を鉄仮面にぶちまけてやろうと構えると、山崎は首だけ傾けて俺から目を外す。そして、消え入りそうな声で続けた。
「ヤマザキススムは、ただ一人。私は、名前すら、与えられなかったのですから」
「…………」
山崎は腕を持ち上げる。皮膚の破れた手の中に、光。
その正体は、目の荒い紐に結ばれた六文銭だった。
「大坂の町で必要なのは、くるくる回る口と、ヨゴれた金子を嗅ぎ分ける鼻。愛想笑いを見破る目と、井戸端会議を拾う耳。最後、一日二食で長生きできる体だけ。生憎、私とあの子は、母の胎の中でそれらを二つに分けました」
「本当にいるのか、二人……」
俺のボヤキに、山崎は首を横に振る。
「永倉組長。薬屋に、強いて粗悪品は出さぬでしょう」
「粗悪品?」
鸚鵡返しに、山崎は短く笑った。俺が浪人時代に幾度と見ていた、性根の曲がった商人の顔だった。
「身体を看ようって医師が、満足に布団から起き上がれなかったら、お笑いです。町医者も商いの一つ。私は、山崎の家にいる……いや、要ると思いますか?」
山崎が言い直した意味には、察しがつく。
「奉公人としても需要がない。下働きとしても動けない。町医者に、使い道のない人間を抱えるだけの余裕はありません。だから私は、産まれなかったことになった」
その言葉に、俺は自分の喉が細くなることがわかった。
「……山崎。何を言っている?」
「台帳のでっち上げなど、商家に頼めば朝飯前、いわば技巧の一つです。私が産まれた事実を塗りつぶすなんて、ひどく容易い」
山崎が息を継ぐ。その時、船が目立って揺れた。
俺は、途端に吐き気を催した。すんでのところで口を押さえて、こみ上げた酸味を嚥下する。しかし、山崎は俺を見上げて言葉で追い討ちを決めた。
「山崎に産まれた跡取りは、一人。私の双子の弟、山崎丞だけ。金だけかかる粗悪品は、初めから存在していないことになったのです」
喉をつくように、山崎の言葉が俺を揺さぶる。腹の筋がひくっと跳ねて、酒が舌に戻ってくる。
口を押さえて、俺は駆け出す。息を吸いこむと、膝から崩れていきそうだった。
俺は船から落ちんばかりに身を乗り出して、そのまま吐瀉物を海にぶちまけた。
すれ違った仲間に船酔いをからかわれたが、その情けなさの方がいくらかマシだ。
俺が甲板から船室に戻ると、山崎は青白い顔のまま言った。
「永倉組長。ご気分はいかがです?」
「……最悪だ」
「だと思いました」
山崎は眉を下げて、しかし口元が笑っていた。やはり、俺はこいつのことを生涯苦手だろう。
山崎の枕元に転がっている竹筒は、傾けると水音がする。まだ残っているが、酒などもう飲めやしない。
「…………」
チ。チチュ……。ピ、チヂッ。
鳥の囀りが、鈍痛のする頭に入ってきた。こんな深い夜に、船の中で、鳥など鳴く訳が無い。
「……何だよ、山崎」
音の出所は、目の前。横たわった山崎が唇をすぼめて、鳥の鳴き真似をしていた。
「永倉組長の気を紛らわすことができれば、と」
「そうか。ありがとよ」
「は」
山崎はいつもの調子で短く返し、軋むようなのろさで目を細めながら、続ける。
「あの子も、これが好きでした」
「もう一人の山崎、か」
「人目につかぬ納屋に押し込まれた私は、こんな一人遊びを覚えました。見せる相手は決まって、丞。自分の握り飯を袖に隠して持ってきてくれる、優しい丞だけでした」
俺は顔を持ち上げて、山崎を見た。真っ青な顔をしながらも、丞、という名を呼ぶ時だけ、こいつの声音は甘くなる。
「鳥の囀りさえ再現する偽装技術を、丞は頼ってくれた。そして、人の顔色を窺うことについて、丞以上に優れた者はいませんでした」
語られるのは、暗躍の達人・山崎烝のカラクリ。
「丞が情報を収集し、私が写し取る。私たちは二人で一人、新撰組監察方筆頭・山崎烝でした」
「二人で、山崎烝」
ここで俺は、長年仲間を騙したことを怒鳴りつけてもよかった。反対に、そこまで任務に徹底した姿勢を讃えてもよかった。どちらも本当の気持ちで、しかし、それは今の山崎に届く気がしなかった。
「おい、山崎」
声を低くして、俺は山崎を見下ろす。
「おまえ、源さんのこと、どう思っていた?」
「先ほどもお伝えしましたが、井上組長にはよくしていただいたので、無念です」
いけしゃあしゃあと言い切った山崎。俺は確かに苛立ったが、もう察しはついた。こいつに原因があるわけじゃない。
もう眠らせてやろう。死ぬまでこんななんて、あんまりじゃねぇかよ。
「いい。もういいんだ、山崎」
「は……?」
「もう、装うことねぇよ、新撰組監察方なんて。そんな肩書き背負って、死んでくれるなよ」
「その役職は、私の誇りです。なぜ、そんなことを申されるのでしょう」
山崎は間髪入れずに言い返す。その愚直な在り方を美徳だと評したのは、局長の近藤さんだった。だから、山崎はそう動く。こいつはこいつを押し殺したまま、新撰組監察方筆頭という自分で死を迎えようとしている。
「それ、寄越せ」
言うが早いか、俺は山崎の手を掴む。
握りしめているのは、六文銭。指を解いてそれを奪うまで、数秒と要らなかった。
「六文銭は、甲斐の真田の旗印。三途の川の渡し賃は決死の覚悟を示す、か。大坂出身のおまえに馴染みは薄いんじゃねぇか?」
「……返してください。それは」
「源さんから、だろう」
「はい。井上組長の形見、です」
「よく言ってたぜ、同じ数字の六番組を率いるのは運命だ、って」
俺は周囲を見回して、源さんが山崎に贈った六文銭を投げ捨てた。
狙い通りに、六文銭は船室通気のための隙間に吸い込まれる。波にのまれたのだろう、海面に落ちる音すら聞こえずに消えた。
「…………」
山崎はそして、無表情のままに俺を見つめていた。
「山崎。これで、おまえが新撰組だって証明はねぇぞ。ただの一人の、死に損ないだ。最後に答えてくれ。源さんのこと、どう思っていた?」
「私は」
言って、山崎は口を噤んだ。監察方にとっては致命的な情報伝達の遅さだったが、それがこの山崎の生来の気質なのだろう。やっと、俺はこいつの顔を見ることができた。
相変わらずの鉄仮面だが、よく見たら目も鼻もころりと丸く、野良猫のようないじらしさがあった。女きょうだいが多く、面倒見の鬼であった源さんが惚れるのも納得だった。
ついに、山崎は息を吸いこんだ。
「私は、井上源三郎さんのことを、何とも思っておりません」
「……く、はっ」
あっけなくって、笑えてしまった。
「先ほどの六文銭を渡された時、あの方は私に『戻れる場所になってほしい』なんておっしゃっていましたが、意味がわからなかったです」
「そうかよ……源さんにゃあ、死んでから悪いことしたな」
「あなたのせいです」
「あぁ。いつか、あの世でどやされる」
俺が天井を仰ぐと、くっくっと山崎が喉を鳴らす。
「山崎?」
「やだ、な。ほんっと。みなさん、誰より化け物じみているくせに、誰より純で、童のようです。私にはどうも、眩しすぎます」
ひとしきり笑って、山崎は大きく息をつく。俺が二の句を継ぐより早く、山崎は語り始める。
「好き、だの、嫌い、だの、言葉は知っていますが、それだけです。例えば、丞が痣を作って持ってくる柿の味を、私は愛と呼びます。それから外れたものを、納屋で学ぶことがなかった。私の世界は、丞かそれ以外か、二つです。だから」
「だから、弟の身代わりになったのか?」
俺が言葉を奪ってみせた。山崎は、満足そうに歯を見せる。
「新撰組に加入した後、丞は屯所近くに私が暮らせる長屋の一室を借り、私を生家から連れ出しました。数日ならば街を出歩けるようになった私に、任務の手伝いもさせてくれました。納屋の扉を開けようともしなかった私が、浅葱のだんだら羽織で都を闊歩するなんて……夢を見ているよう、でした」
山崎は今、目を閉じている。俺はこいつが眠りにつけば、もう戻ってこないと確信していた。
「諍いを好まない、優しい丞。任務といえど、人を殺めることに涙を流したあの子は、それでも戦場に足を向けた。やはりあの子は医者の跡取りです。新撰組の山崎を全うしようとする義理堅さこそ、あの子らしさで……私にとっては、何よりばからしい」
「一君に殉ずる武士は、馬鹿に見えるか?」
「はい。言ったではないですか。私には丞とそれ以外、だと。御顔も知らぬ天子様も、京の戦火を前に江戸へ逃げ帰る将軍様も、丞ではない誰か。それらに、なぜ命を投げねばならないのでしょう。ついぞ、私にはわかりませんでした」
俺は周囲を見渡す。山崎がつらつらと語ったのは、佐幕の船での言葉とは思えない、切腹ものの暴言だった。
「明日の朝には、私は生きておりません。切腹など、誤差です」
「……そうかよ、山崎。じゃあ、好きにしろ」
「仰せのままに」
言って、山崎はようやく俺の方へ首を傾ける。血の気の引いた顔に後れ毛がふわふわと重なって、潤んだ瞳を隠した。
「永倉さん。私の死を残してください。新撰組の山崎は戦死したと、どうか語り継いでいただきたい。そうしないと、まっさらになったあの子が生きるのに、邪魔をする」
「…………」
「剣など取らず、あの子には生きてもらいたい。きっと質素で、それを補うだけの幸せな生活を、愛する誰かに与えてほしい。あの子がただ、山崎丞として生きるこれからのため、私は新撰組の山崎烝として、今日まで生きながらえた意味になる」
山崎は俺の膝に手を置いた。そのまま幼子をあやすように俺の膝を撫でて、そして最後にぶくっと血を吐き出した。
「山崎っ!」
「……あぁ、私の可愛い丞」
血濡れた枕の上で、山崎は笑っていた。
「あなたは将来、どんな大人になるのかな?」
翌早朝。粛々と水葬礼が執り行われた。先の鳥羽・伏見での戦いにて負傷した新撰組隊士数名が、江戸へと向かうこの船から降りることとなった。
敗走後も徹底抗戦を掲げる俺たちは、死ななきゃ船は降りられない。つまりは、そういうことだった。
「新八さん、新八さん。これは、誰ですか?」
沖田が俺の袖を引っ張った。藁の隙間から垣間見えた顔を、奴は指差していた。
「やめろ、おまえは。ホトケに指なんかさすんじゃねぇよ」
「ホトケじゃないですよ。あれは、わたしたちの仲間じゃないですか」
沖田は憔悴しきった顔をしているくせに、そう反論した時の目だけは鋭利だった。
「……だったら、仲間の顔くらい覚えてろって」
「それはそう、ですけど……。思い当たらないから、仕方がないじゃないですか」
「山崎烝。監察方筆頭の、山崎だ」
「山崎。山崎……?」
沖田が訝しんで、また藁を覗こうとする。俺はその首根っこを掴んで、自分の横に引っ張って戻した。
「いよいよバチが当たるぞ、総司。よせ」
「でも、山崎ってあんなでしたっけ? あんなに……美しかった、ですか?」
「そうだよ。俺だって知らなかった。あれを知っていたのは、源さんだけだ」
「なんで、そこで源さんが出るんです?」
「さぁな」
海軍の連中は、俺たち新撰組の戦死者にも敬礼を怠らない。間違いなく誉れではあろうが、俺にはどうしても杓子定規な儀式めいて見えてしまった。
俺は懐から銭を取り出した。
「……総司。一文だけ寄越せ」
「後で返してくれます?」
怪訝な表情のまま、沖田は俺に一文銭を飛ばしてきた。これで、六文。
ちょうど、すべての戦死者が海に飛び込むところだった。
俺は手の中の六文銭を、振りかぶって投げてやった。朝凪の中だからか、ちゃぱちゃぱと小さな水音が聞こえたような気がした。
「新八さん、何しているのですか?」
「昨日のは、源さんの分だったから。今のが、正真正銘あいつの分だ」
「よくわかんないですけど」
沖田が深呼吸をして、咳き込んだ。
「……空しい、ですね」
「それが戦争だろ」
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