山南の告白
「新八。遅いぞ」
空が濃い紫になり始め、屯所に戻った俺を土方さんが迎えた。眉間に深くシワを彫り込んで、機嫌の悪さを隠そうともしない。酒気に乗じて、俺は軽薄に答える。
「弔い酒が、思いの外深くなりました」
「あとの連中は、店で潰れたか?」
「寝かせときました。勘定は立て替えましたので、ご心配なく」
土方さんはチッと舌打ちをした。これは土方さんにとって息を吸うことと同じくらいの癖だから、俺は少しも萎縮しない。
「背中の阿呆だけは、持って帰ってきたか」
土方さんの視線は鋭いまま、俺がおぶっている沖田に向けられる。当人はそんなことなどどこ吹く風で、寝ぼけて俺の耳をしゃぶっている。
「総司! シャンとしろ!」
土方さんが俺の背中に回り込んで、沖田の頰を二度叩いた。俺から剥がそうとするが、酔いどれの沖田は土方さんの手を捕まえて、ふにゃっと笑った。
「……き、はは。ひじかたさんだぁ」
土方さんの一喝にも物怖じしないのは、酒のせいだけじゃない。
試衛館から十年来の付き合いになる、土方歳三と沖田総司。特に近藤先生を師として、兄弟子たる土方さんは沖田にとって正真正銘の兄貴分に近い。言外に醸し出される信頼だけは揺るがない。
「新八。オレの部屋まで運んでもらえるか」
土方さんが肩をいからせて身を翻し、俺はすぐ後ろをついていく。沖田はまた、俺の耳を噛み始めた。
屯所として長年使っている八木邸は、発足当初の功績もない頃から世話になっているため、そんな身分で個室など望んではバチが当たる。俺たち隊長格以下は大部屋で雑魚寝。総長以上の幹部にのみ、個室が用意されていた。
うち、奥から二つ目の部屋が副長の自室。執務と寝起きを行うためだけで六畳程度だが、沖田を押し込めておくには十分すぎる。
土方さんは、おそらく自分のために用意していた掛け布団をめくり、寝床を明け渡した。
「寝間着はオレが替える。まずは横にしておけ」
「あ、っと……」
「あ?」
俺の歯切れが悪くなったことに、土方さんは半眼で睨む。
「いや。なんでもないです」
「……あのな。いまさらオレにはこいつをどうこうできねぇよ。まだ酒の付き合い方も知らねぇ、妹、だぞ」
妹。土方さんはその言葉を強く発した。
「ほら、布団だ。あったかくしないと、腹壊すぞ」
ゆっくり、腰を下ろす姿勢で沖田を土方さんの布団の中に置いてやる。赤子相手にそうするよう慎重な手つきで沖田を寝かせるが、背中が敷布団に触れたとき、沖田の顔が歪んだ。
「いた、い……!」
「総司?」
「背中、いたい! いたい、びりびり、いたいっ!」
沖田は駄駄を捏ねる童のように、腕と脚を振り回す。
「いたい、いたいよ……!」
のたうつ沖田を前にして、土方さんは落ち着いていた。枕元に屈むと、額を手で包んで自分の熱を伝えた。そのまま髪をなでつけて、沖田の髪を梳く。
「大丈夫だ、ソウ」
「……歳さん、いる?」
「あぁ。ここにいる。道場掃除しか能がねぇ、ソウジのためにな」
「ソウ。わたしの名前、ソウです」
「しらねぇな」
「歳さんのいじわる。言いつけてやるから」
沖田は言った。新撰組一番組組長・沖田総司ではなく、試衛館に放り込まれた気弱な末娘・沖田ソウとして、言った。
「サンナンさんに、言いつけて、やる……」
軒先に吹き込む風で、火照った首元を冷ましていた。まだ眠気がこない俺は、足音に振り返る。
土方さんが沖田の上着を手に戻ってきた。
「あいつの癇癪なんて、久しぶりでした。昔はしょっちゅうだったのに」
「いつまでもガキだからな、あれは」
尻から落ちるように座った土方さんから、ひときわ強い酒の匂いがした。
「一人で、やっていたんですか」
「……今晩だけは、頭を鈍くしたかった。考えたくねぇんだ、余計なこと」
酔って語順が不規則になる癖は、土方さんから始まっている。それをずっと見ていた沖田が、真似をしているだけなのかもしれない。
「風呂、入った方がいいですよ。ずいぶん、酒を浴びたようだから」
「もう、借りた。二度も」
「その後呑んだだけでしょう?」
「消えねぇんだよ」
土方さんは、庭の飛び石を目でなぞっている。鬼の副長の眼光など、この時に限ってはひどく鈍い。
「酒で頭は軽くなった。刀臭さも、風呂にも入って洗い流した。でも……あの顔だけ、消えねぇ。あいつの笑った顔だけ、なぁ、新八。どうやっても消えねぇんだ」
夜目の効かない俺にもわかった。土方さんの頬骨あたりが赤らんでいることと、彼の目が潤んでいることが。
「山南敬助を殺したのは、オレだ」
「…………」
何も言えずにいると、土方さんは懐から調書を引っ張りだす。
「山南の調書だ。新八、頼む」
切腹の直前、屯所に戻った山南さんは土方さんの執務室に連行された。
襖を閉める直前、土方さんは俺に副長命令を発した。
隣室で待機し、山南の最後の言葉を聞け、と。
「……はい」
俺は二番組組長として充分に命令を遂行すべく、沖田が見てきた顛末を酒の席で洗いざらい吐かせた。
障子の穴から覗いただけでは合点のいかなかった山南さんの最期が、沖田の独白を添えることで輪郭を持つようになった。
俺は、土方さんから受け取った調書を開く。
土方さんは、山南さんが嫌いだった。
土方歳三と山南敬助。どちらも近藤さんを慕っていることに変わりはないが、土方さんと山南さんが二人でいる機会は極端に少なかった。二人の間には必ず他の誰かがいて、仲介役をさせられた回数が多いのは、沖田だった。
京に上り、壬生浪士組を結成した当初、土方さんと山南さんは同格の副長の役職に就いていた。しかし、初代筆頭局長の芹沢先生亡き後、近藤さん一人を担ぐとなり、土方さんは俺たちに言った。
「局長を補佐する副官は、一人で十分だ。そこに収まる時、オレが山南さんに劣る部分なんてあるか?」
粗悪な言い回しだが、山南さんは困ったように笑っていた。事実、新撰組の練度を上げて、部隊として指揮を執ることにおいて、土方さんに勝る者などいなかった。苛烈にも正しかったから、隊士連中は土方さんを恐れて、反対に山南さんを慕った。
隊士が山南さんに懐く理由には、判官贔屓も確かにあったが、それだけじゃない。沖田に手を引かれて寺の童と羽根つきをしたり、剣のみならず書に触れてもらおうと隊士たちに寺子屋もどきを開いたり、と、山南さんはどこまでも人が良かった。
囁かれた二つ名は『仏の総長』。荒くれ者が集まった新撰組で町民が気軽に接することができたのは、あの人くらいだった。
そんな山南さんが、新撰組を脱走した。
沖田と共に戻った山南さんは、副長の自室に連れて行かれた。幹部さえ立ち入りを禁じられた中、口を開くよりまず、土方さんは山南さんを殴った。
「……痛いな、土方君」
山南さんは座を正したまま、赤黒く血の滲む唇を拭った。
「これで目ぇ、醒めたかよ」
土方さんの怒気を孕んだ声にも、山南さんは毅然としていた。
「君には、僕が居眠りをしていたように見えたかな。それは、申し訳なかった」
「うるせぇよ」
「君が不愉快な思いをしたのなら、それは僕の落ち度だから。土方君、すまなかった」
「やめろ!」
土方さんの怒号に、山南さんは眉を下げていた。
「自分が悪くもねぇのに、謝るな。みっともねえ。その腰の低さが……気にいらねぇ、んだよ」
「……これは、僕の性分だから。土方君には、迷惑をかけたね」
「迷惑を、かけた、か」
「あぁ。もう、それもお終いだ」
そこで、土方さんは山南さんの胸ぐらを掴む。
「どうしてだ、山南。なぜ、脱走した?」
「そうだね。新撰組の任務に、嫌気がさしてしまった。粛正と拷問の連続で血と罵声を浴びることに、僕は堪えきれなかった」
「それを、オレが信じると思ってんのか?」
山南さんは首を横に振った。
「信じてもらう必要はないんだ。重要なのは、僕がここに戻ってきたこと。一つだよ」
「あんたはッ!」
息を枯らして、土方さんは叫ぶ。唾に濡れようが、山南さんの顔は変わらない。
「あんたはなんで、一人で行っちまうんだよ。なぁ、なんのつもりだ? ……サンナンさん。なんでいつも、オレを置いていくんだよ!」
「……歳三くん」
胸倉に掴みかかり、そして土方さんは山南さんの肩に自分の額を押し付ける。
呼吸を乱す鬼の副長を受けとめて、仏の総長は刺々しい彼の髪を撫でていた。
*
土方さんと山南さんの不仲は、すべて土方さんの策略である。
近藤さんの単独局長の就任が決まった祝いの席で、土方さんから山南さんに持ちかけた大芝居の全容を、俺は狸寝入りの中で聞いていた。
「サンナンさん。新撰組の副長には、あんたが座ってくれよ」
酒を煽り、土方さんは山南さんの裾を引っ張った。両名とも、顔には朱色が差している。
「……久しく、呼ばれていなかったね。それは」
「田舎くせぇ呼び方だってか?」
「いや。ソウも新八くんも、他の隊士の前では呼んでくれなくなったから、寂しかったんだ」
山南さんの姓を音読みして渾名としたのは、幼い頃の沖田だった。手習いで覚えたばかりの言葉を使いたがって、その語呂が良かったから俺も昔は呼んでいた。ただ、土方さんがそれを使ったところなんて、それまで一度も聞いていない。
土方さんは、二人でいるときにだけ彼をサンナンさんと呼んでいた。
「それで? 僕が副長に、とは、どんな意味かな。歳三くん」
応えるように、山南さんは土方さんを名前で呼んだ。俺には違和感のあるやりとりだが、二人の自然はこちらなのだろう。
土方さんが片膝を立てて、山南さんの側に尻をずらす。
「芹沢は死んだ。これから、オレ達の大将は近藤勇になる。近藤さんを頭にして、それを支える首やら体やら、それはオレやサンナンさんが担わにゃいけねぇ」
「僕には、荷が勝っている。歳三くん以外に、近藤先生を担ぎ上げられる男がいるかい?」
「かッ。北辰一刀流は嫌味まで習得しなきゃ皆伝になれねぇのか?」
痰を吐くように喉を鳴らす癖は、土方さんが上機嫌な証だった。勝手知ったる山南さんは「手厳しいな」なんて、眉を引っ掻いた。
「誰がどう見たって、副官にはふさわしいだろ。サンナンさん、あんたの方がよ」
土方さんが、山南さんの腕を捕まえる。
「サンナンさんになくてオレにあるもんなんて、ねぇよ。指南役としての剣の腕も、兵を動かす裁量も。なぁ、だろう? オレぁだめだ。副官なんて場所に立っていたら、腐っちまうぜ」
「腐る?」
「オレは、先陣切って敵を斬り潰すしか能がない。それができなきゃ、ダメだ。骨から腐って落ちちまう。……誰が、そんな副官に命を預ける?」
オレなら御免だ、と土方さんは自嘲して酒を呑む。口の端から溢れて、はだけた胸元が湿った。
「自分だけの命で手いっぱいなんだよ、オレは。あと、近藤さんを侍大将にするってぇ野望があるんだから、もう抱えきれねぇ。それ以上は、溢れちまう」
「溢れる、か」
「あぁ。覆水盆に、ってやつだ。そいつが野郎どもの命ってんだから、尚更だ」
口元だけ拭って、土方さんはその場でごろっと横になる。
「オレは総長あたりが収まりいいだろうな。部隊を見ながら先陣を切る。多摩の喧嘩阿呆にはお似合いってもんだ」
「歳三くん」
言って、山南さんは土方さんの隣に胡座をかいた。穏やかな笑顔で、続ける。
「歳三くんが責から目を背けるとは、情けない」
「あ?」
ぎょろ、と土方さんの目が山南さんを捉える。その迫力に動じないのは、やはり山南さんくらいのものだった。
「何を臆する? 何に逃げている? 土方歳三、きみは何のために京に上った?」
「だから、近藤さんを大将に」
「近藤先生を隠れ蓑にしてくれるな。きみは、何を為す?」
はね返すような詰問。山南さんは、土方さんの答えを待つ。
「手柄を、立てる」
土方さんが声を零す。
「剣でも拳でもいい、振るえる力は全部使う。悪評だって構わねぇ。新撰組はここにあり、と日ノ本中に轟かせる。そして、新撰組に土方あり、と震え上がらせてやる」
沸々と煮えたぎった決意の言に、山南さんは満足そうに頷いた。
「なら、総長などに甘んじるのは下策だろう?」
ようやく酒が回ったのか、山南さんは腕を広げて天を仰ぐ。
「隊士の誰より先に斬りかかる副官、上等じゃないか! 不逞浪士を取り締まる警邏部隊なんだ。それくらい果敢でないといけない」
「んだ、それ」
「歳三くん。きみは恐怖に聡い。恐怖を飼い慣らせない武士は、無謀な死を美談とするからね」
「…………」
「君は自らのみならず、隊士の犬死にさえも恐れていた。それだけ、新撰組に賭けている」
違うかな? と、山南さんは土方さんの顔を覗く。体を重ねるような姿勢に、土方さんは寝返りを打つ。
そっぽを向いたまま、土方さんは伝える。
「じゃあ、サンナンさん。あんたはオレと、敵対してくれよ」
「敵対?」
山南さんの鸚鵡返しに、土方さんはまた喉を鳴らした。
「オレは、恐怖と規律で新撰組を組み上げる。武士の身分にないオレ達だからこそ、鉄の掟がなければ瓦解する。新撰組の法を破るやつがいりゃぁ、情け容赦なく切腹。それっくらいで初めて、オレ達はまとまる」
当時、すでに土方さんの中で新撰組の絶対理念は動き出していた。
後に副長自らの手で記される、局中法度。私闘、身勝手な金策、不貞行為、そして、脱走。士道に背く行為に身を落とした隊士は、腹を切って償わなければならない。
これまでだって、隊士の切腹はいくらでもあった。敵前逃亡はもちろん、酒屋での迷惑行為でさえ腹を切らせて処断してきた。だからこそ新撰組は成立した。
すべては、土方さんが冷血漢に徹していたから。そして、山南さんが温情をもって隊士を見ていてくれたから、成り立っていたのだ。
「その時、手を下すのは総司や新八で、命を下すのはオレだ。恨まれるのはオレでいいが、サンナンさん。あんたにはその間に入って、隊士の声を聞いてくれ」
山南さんの方を向く土方さんは、道場で新しい剣技を会得した時と同じ笑顔だった。
「鬼の副長と、仏の総長。どうだ?」
「仏とは、僕も出世をしたものだね」
「鬼にそれを言うのかよ」
そんな言葉を投げ合って、二人は声をあげて笑った。
「悪評でも構わねぇって言っただろ? オレに恨み嫉みが来るんなら、近藤さんのとこにはいかねぇ」
畳に転がったまま、土方さんは手を頭上にかざした。指の根元の膨らんだ手形が、影になって土方さんの顔を隠す。
「旗は光ってなきゃいけねぇんだ。オレが陰を背負えば、新撰組は近藤さんについていく。そこをサンナンさんが支えてくれりゃぁ、オレはいくらでも血を冷やせる。あんたのような善がいるから、ようやく悪に徹する度胸が固まるんだよ」
山南さんはそこで、眉を下げる。
「やはり、きみが副官に相応しい。僕なんかが上に立つと、一山いくらの武装集団で止まってしまうよ、きっと」
そして、土方さんの手を山南さんは握ってみせた。
「歳三くん。きみには僕にないものが、間違いなくある」
「……なんだよ、それは?」
「僕が山南敬助で、きみが土方歳三であることには、この世の誰も敵わない」
聞いて、土方さんは舌打ちをする。腕を振り払って、山南さんを離した。
「頭の良いサンナンさんの御忠言は、わからねぇよ」
「歳三くんは歳三くんのまま、前を見ればいい。それだけだよ」
そんな密約から、たった二年。
局中法度は、仏の総長に牙を剥いた。
*
「あんたが、会津の古狸どもの言いなりかよ!」
土方さんは三度怒鳴り散らす。
「まさか。彼らの功績には敬服するが、それに命を渡すほどじゃあない」
切腹の数刻前に、山南さんは事の経緯を土方さんに打ち明けていた。調書を改める限り、沖田が語った内容と一致する。
会津藩の一部上役の密命で、山南さんに局長昇進の打診があった。その条件は近藤さんの暗殺と、土方さんの排斥。
その身に降りかかった重責を明らかにして、それでも山南さんは頑なに切腹を所望する。
「僕は、新撰組のためにここにきた。僕が生きている限り、新撰組はまとまらない。最早、そんな状態にいるんだ」
「わけわかんねぇよ。そんなに会津の御重鎮が怖いってか?」
「違う。見える脅威なんて、たかが知れている。今、脅威は目に見えていない」
目を逸らさない二人の間で、小声が交わされる。
「伊東は、新撰組を壊すつもりだ」
「伊東が……?」
参謀、伊東甲子太郎。山南さんの同門北辰一刀流を扱う傑物。
総長、参謀という二人で議論をする姿を俺たち隊士はよく目にしていた。山南さんは彼のことを「伊東先生」と呼び、あからさまに信頼を見せていた。
しかし、山南さんは土方さんの前で、伊藤に対して「先生」という敬称を一度も使っていなかった。
「僕と歳三くんの不仲を察知して、伊東はすぐ僕に近づいてきた。うまく話を合わせていてわかったが、奴は世渡りの鬼才だ。一介の道場主のはずが、京に上ってから諸藩上役に自分を売っていた」
「会津藩のお偉いさんに、か?」
「それだけじゃない。長州や薩摩を含めた尊皇攘夷強硬派でさえ、奴は藩邸の門を潜っていた」
ここまで聞いて、俺も土方さんと同じ結論に至る。
「……サンナンさん。あんたの局長昇進を会津に提言したのは、伊東か?」
山南さんは小さく首肯する。
「奴は、新撰組の戦力をそのままに、異国を打ち払うためだけの軍隊に仕立て上げることを目論んでいる。佐幕の我々とは、野望の根幹が正反対だ」
ただ、と、山南さんは声を潜める。
「伊東は、巧い。会津の懸念事項を煽り、長州や薩摩の憎悪を焚きつけた。それから僕を傀儡にして隊士を籠絡し、近藤先生を亡き者にして、歳三くん。きみを始末する心算だった」
チッ。一際大きく、土方さんは舌打ちをした。
「上等だ。オレがあんな朴念仁にやられるかよ」
「きみが勝とうが、新撰組は負ける。大局を見ろ、歳三くん」
ぴしゃりと言い放って、山南さんが土方さんの肩を掴んだ。
「僕はね、近藤先生が一国の大名にまで上り詰めた姿を見たいんだ」
「は……」
「侍大将とは、そういうことだよ。天守まで上った近藤先生の側には、きみがいる。同じく、沖田くんが、永倉くんが、皆が集っている。想像しただけで武者震いがするよ」
穏やかに話す山南さんを、土方さんは理解できていなかったことだろう。
山南さんは、死を前にして童のように夢想を語る。
「なんで、今。そんなことを言う?」
土方さんが尋ねると、山南さんは腕を組んで、当然のように言い放った。
「悪評だろうが、日ノ本中に轟かせると言ったのはきみだろう? ならば、あの世に届くくらい、わけない」
沈黙。
言葉を用いずに、土方さんと山南さんの間で思考が交錯した。そして土方さんは、声を絞り出す。
「逃げろ、サンナンさん。こっからすぐ、逃げてくれ」
そこで、土方さんは山南さんの膝に手を添えた。
「今ならオレの不手際で済む。これが最後だ。近藤さんも、沖田も! あんたを見逃すと言っている。会津の密命も、伊東の謀略も、あんたがいなけりゃ成立しない。だったら!」
死ぬ必要なんてない。命を、ここで捨てる意義がない。
その言葉を、山南さんは言わせなかった。
「嫌だ。僕は腹を切って死ぬ。これは決めたことだ。新撰組の局中法度に、例外は許されない」
「…………」
「土方くん。ここで僕が死ぬから、新撰組が生きるんだ」
続く山南さんの口調は、聞かん坊に言い聞かせるような優しいものだった。
「総長だから、古参だからと認めてしまえば、他の者たちは安堵する。法度を破ろうが、事情さえあれば許される、と。結果、統率が綻び、指揮系統が鈍る。そこを伊東は虎視眈眈と狙っていると、まだわからないか?」
言い返せない土方さんに、山南さんはここぞと畳み掛ける。
「近藤先生を斬らない。新撰組は潰させない。そして、伊東に新撰組は渡さない。これだけの意義を持って、僕は命を散らすことができる。……過ぎたことだ」
「納得、できるか」
土方さんは俯いたまま、声だけ山南さんに向けていた。
「あんたはそれで満足かもわからねぇ、けど! オレ達は納得できねぇ! あんたがここで死ぬなんて、間違っている! 綺麗なままで済ませんな、サンナンさん! 生き汚く、縋れよ……!」
切腹を言い渡す筈の副長が、苦しそうに言った。その返答として、山南さんの言葉はあまりに不可解なものだった。
「僕は、ソウと寝た」
「え」
顔を上げた土方さんに、山南さんは照れ臭そうに頸を掻いている。
「生きることへの執着と、やりきれない後悔は、昨晩の床で捨ててきた。それに付き合わせたソウには申し訳……いや。ここで謝るのが僕のいけないところだね」
山南さんは一つ咳払いをして、続ける。
「正直に言おう。僕は、ソウと寝たことで生の未練を断ち切った。そのために、ソウが僕には必要だった」
土方さんは、言葉を失ってただ山南さんを凝視した。「覚えているかい?」と、山南さんは饒舌になっていく。
「あれは試衛館で、ソウが二十の手前になる頃だったね。ソウが水を浴びるのを、稽古終わりに覗いたことがあっただろう」
俺がまだ試衛館に入る前のことを、後に聞いたことがある。道場の男どもが結託し、いそいそと隠れて水浴びをするソウをふざけて覗いたことがあったらしい。結局、近藤さんに見つかって、最後はおかみさんにこっぴどく叱られたのだという。
「僕は皆を止めきれなかった。今際の際で往生際の悪いことのはいけないから、白状するよ。僕は見たかった。ソウの肌、ソウの恥じらう様を、どうしようもなく見たかったんだ」
山南さんの下劣な告白の姿は、いっそ清々しく俺の目には映っていた。
「自分はこんな欲に無縁だと思っていたが、違った。僕は彼女に溺れていた。息もできないくらいに、永く」
「……あんなガキの、どこが」
「きみは、ソウに特段厳しい。親愛の裏返し、だろうね」
「知った口、叩くな」
「ソウは、美しいよ。痛みには鈍感になってしまっていたが、それだけ快楽には慣れていなかった。君たちにとってソウは妹かも知れないが、僕には一人の女性だった。彼女以外、僕には」
言葉はここで途切れた。土方さんが、山南さんをひっぱたいたから。
「いい加減にしろ。あいつは、沖田総司。女だろうが、新撰組の特攻隊長だ。あんたの欲の捌け口みたいに語るんじゃねぇ」
「…………」
「これ以上、あいつを穢すな……!」
「良かった」
山南さんは、はっきりとそう言った。
「なんだと?」
「嫌悪しないと、切腹なんて言いつけづらいだろう? きみは、優しいから」
山南さんの精一杯の悪戯心に、土方さんは小さく舌打ちをする。
「オレの、どこが」
「沖田くんのことに、仲間のために、本気で怒ることができる。自分をないがしろにしてしまう強さは心配だけど……きみがいるのだから、新撰組は大丈夫だ」
「…………」
「きみがただ、僕に死ねと命じればいい。辛い役目を負わせて、すまないね。……歳三くん」
最後、山南さんは土方さんをそう呼んだ。
土方さんは副長としての覚悟を乗せて、返す。
「新撰組総長、山南敬助。屯所からの脱走は、局中法度に反する行為だ。その理由も、任務に嫌気がさしたなど、酌量の余地はまるでなし。よって、士道不覚悟につき、切腹を申付ける」
締めくくる言葉は、こうだった。
「サンナンさん。新撰組のために、死ね」
「オレは嫌いだった。山南さんのこと」
俺は調書から顔を上げる。ちょうど、土方さんが酒気とともに残っていたわだかまりを吐き出していた。
「近藤さんに信頼されるだけの知識が憎たらしかった。新八たちと腹を割って話せていた温厚さが妬ましかった。ソウに懐かれてへらへらしていた軽薄さが……大嫌いだった」
「それは……」
俺は言葉を続けない。彼の情念の正体を他人から突きつけるのは、あまりに酷だった。
「オレにないものを全部持っているあの人が、嫌いだった。だから、腹を切らせた。もう、それでいい。いいんだよ……」
「土方さん。あんただけを責める人間は、新撰組にはいないです。全員が少しずつ、自分のことを責めればいい。だから」
「よせよ、新八。首が痒くなる」
チッと舌打ちをして、土方さんは踵を返す。
「部屋に戻る。総司がまた泣き出すかもしれねぇから、横についてやらなきゃな」
引き摺るような足取りの土方さんは、自室に足を向ける。
彼の背中に、俺はこれしか言えなかった。
「あんただけで背負うなよ。潰れんな、土方!」
土方さんから答えはなく、一度手を上げてくれただけだった。
山南さんの切腹から、月日は流れた。
四条小路の光縁寺に、山南さんの墓が建てられた。屯所近くということもあって、隊士たちからの線香だけではなく彼を慕っていた町民や童たちからの供物もあった。
「さすがの人徳だな。山南さん」
俺が初めて来られたのは、市中巡邏の合間。遅れてしまったのは、訳がある。
あれから、隊士の粛正が激化した。脱走を試みる新参隊士が急増し、その不届き者を見つけては、切腹を命じる。総長をも見逃さない処罰から、逃れられるはずもない。
「あんたのおかげ、なんて言ったら祟られるけどな」
今、新撰組は恐怖と規律によって、浪人たちの烏合の衆という殻を破って、軍隊へと羽化している。強固な組織の体制に、伊東のちょっかいを許す隙などない。
これから新撰組は只の人斬り集団から進化する。山南さんたち、多くの命を礎に。
「そうだ、山南さん。こいつを預かってんだ」
俺は線香の代わりに、懐から紙の束を墓前に掲げた。
土方さんが俺に渡した、調書のすべて。人目についてはいけないとあって、今の今まで処分ができなかった。
「これは、俺が持っているには重すぎる。山南さん、あんたに墓まで持っていってもらうからな」
冗談交じりに言ってから、俺は調書に蝋燭の火を移した。
紙束は文字を塗りつぶすように黒く萎んで、灰色の煙が墓石を覆う。山南さんの人生が、あの世に向けて放たれた。
「水の北、山の南や、春の月、ねぇ……」
燃えていく調書の表題として、土方さんは句を記していた。武州多摩にいた頃の、自作の一句を貼り付けている。
水が北にあり、南には山。さらに春の月が輝いている、なんて風景描写に、感動はない。当たり前のことを言の葉に乗せて、ただ残しているだけだ。
「当たり前だったんだよな、土方さん……」
土方さんにとって山南さんがいるのは、日常だった。だからこそ、敵対しろと願い出ることができた。不仲を演じていようが、同じ方向を向くことができた。絶対の信頼があったからこそ、副長・土方歳三と総長・山南敬助は存在していた。
「喧嘩するほど仲が良い、なんて言ったら、今度は俺が殴られらぁ」
笑って、線香の煙に噎せた。目にも浸みて、涙が浮かんだ。
山南さん。もう化けて出ろとは言わねぇよ。代わりに、見届けてくれ。土方さんや沖田、俺たち新撰組がどこにいくのか。
冥土の土産話は用意するから、そっちで酒でも汲んでいてくれよ。
なぁ、仏の総長。
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