もう少し君とふたりきりでいたかったんだ

 喋ろうとした瞬間、唇に指を当てられて、ヴィンセントに覆いかぶさられるように側板に押しつけられた。バラと、ウールと、走ってきた熱が混ざり合った香りの風が吹く。


 仕事とか言って油断させておきながら、とうとう本性を現したのかこの修羅場魔王!


 スカートのポケットから扇子を握りしめて突き出そうとしたとき、ヴィンセントの視線がわたくしのほうを向いていないことに気付いた。


「ヘレナ……ヘレナ……ヘレナ……ヘレナ……」


 じゅうたんを踏むかすかな足音とともに、聞き覚えのある声が聞こえてくる。


 振り返るように書架の陰からヴィンセントの視線の先をうかがうと、ゴーストのように虚ろなアルバートが左右上下を見回しながら通路を通りすぎていった。ヴィンセントとルイに注意されたので、動きはゆっくりにして呟きも控えめにしたらしい。そういうことではない気がするが、そこが兄のいいところである。続いて歩いてきたルイがこちらに気付いて、まばたきで目配せしていった。


 アルバートの声が聞こえなくなったのを確認して、わたくしは唇に触れているヴィンセントの手をつかんで押しのけた。


「ああ、ごめんねヘレナ。苦しかった?」


「いくらお兄様に見つかりたくないからって、仕事仲間とこの距離は非常識だわ。今見つかってもあとで戻ってもどうせ怒られるんだから同じでしょう」


『ごめんね』とまた軽薄に笑うのだと思っていた。けれど。


 ヴィンセントはどこか苦しさを押しこめた表情で、微笑んだ。


「もう少し君とふたりきりでいたかったんだ」


 心臓が、強く鳴ってしまった。


「ロード……ヴィンセント。そういう台詞は本命の方に言ってさしあげたら? 本命が何人いるか知らないけど」


 ヴィンセントはまばたいて、苦笑した。


「そういう意味じゃなくて、友人として。こういう関係は貴重だから楽しいんだ」


「貴重な友人なら適切な距離を保ってくれる? ワルツじゃないのよ」


「今後は気をつけるよ」


 ようやくヴィンセントが離れていき、わたくしは顔と体をそむけた。


 側板に押しつけられたのも唇に指を当てられたのも、アルバートから隠れるためで、ヴィンセントが本性を現したと思ったのはとんだ勘違いだったわけだが、これは酷い。わたくしだって、ものすごく不服だが、近くであんな顔をされて思わせぶりな台詞を言われれば鼓動が速まりもする。深い意味などまったくないと分かっていてもだ。


 何というか、天然女たらし? 無自覚? 計算してやってるならたいしたものだけど、浮き名が流れるのも納得だわ。

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