第29話 9月21日(2)

 しばらく走っていると街灯一つない夜道にぬっと黒い塊が現れた。月明かりに照らされた物体の正体に気が付いた俺は呟いた。

「シゲ……」

「時間がないぞ。急ごう」

 いつものぶっきらぼうな口調でシゲは歩を進める。

「ああ。場所はふれあい公園だ。みっちゃんが教えてくれた」

「彼女じゃない。彼女は……更姫と同じ顔をした、誰かだ」

 悔しそうにシゲは呟いた。俺も走りながら答えた。

「そうだ。俺もさっき、とんでもない間違いに気が付いた」

 そして二人の声が重なった。


『殺したのがあいつだ』


 いつか夢で見た姫の愛した茶碗。あの器は志野焼きと呼ばれる美濃焼だった。さっき図書館で見たから間違いない。美濃焼は安土桃山時代、茶道の道具として茶碗や水差しなどが愛用されたという。そして戦国武将、古田重然。彼は一般的に茶人の古田織部として知られている。彼の名のつく織部焼きは美濃焼の一種である。そして現代。美濃焼を愛し、古田織部の茶器を愛している人がいる。俺の知っている人の中で……。彼女こそが本当の更姫だ。


「斎藤が言っていた『椿ちゃんが男に』は井原が男に襲われたという意味ではなく、井原の姿が男になったということだったんだ」

俺の言葉にシゲが『ああ』と頷く。

「でも、誰なんだ。井原椿の正体は誰なんだ」

「それは俺にも分からん。とにかく今は更姫を守ろう。あいつが、更姫にそっくりなあいつが犯人だ」

「シゲはいつ、気がついたんだ」

「今日の昼休み、ふとしたきっかけで本物の更姫に気がついた。まさかこんな近くにいたんなんてな。彼女は自分の席で焼き物の本を読んでいたんだ。その姿が、佇まいが、姫様と重なって思わず息が止まりそうだった。そして気がついた。ああ、更姫様はここにいたんだって。彼女は動揺している俺に気も付かないようだったがな」

 公園につくとの街灯がチラチラと辺りを照らしていた。俺たちは目を凝らして公園の様子を伺った。静かな月夜に照らされた塗装の剥げた滑り台やブランコ、小山が作られたままの砂場。

 そして心もとない街灯の明かりと月明かりに重なってベンチにいたのは、井原椿とクラス委員長の村上有紗。古田織部を愛し、授業中に美濃焼について熱く語った彼女、村上こそが本物の更姫だった。


「そこまでだ。更姫を離せ。お前が姫を殺したのは分かっているんだ」

 俺の声で更姫にそっくりな井原椿は、ベンチで横になっている村上有紗の首にかけていた手を離した。俺は続けた。

「俺たちはずっと騙されていた。更姫にそっくりな外見のお前が、本当は姫を殺した犯人だってことを」

「そこにいる村上が本物の更姫だ」

 低い声でシゲが言うと、井原椿はゆっくりとこちらを向いた。

「そうだ。儂は樫田かしだ家の家臣。中井なかいゆうさい

 井原椿の唇が動き、地の底から響くような低く唸る声が鼓膜に響いた。とても目の前の『彼女』が放ったとは思えない声に俺は一瞬ひるんだ。


 友田でも作田でもなかったのか。俺が気を取られていると、美しかったはずの井原の顔がみるみる歪んで、男の顔に変わった。その顔を俺は覚えていた。

そうだ、こいつは輿入れの際に道案内を兼ねて同行した樫田家の家臣、中井友斎。あまり目立たない奴だった。それでも俺はこの顔を覚えていた。こいつは夢の中で俺、兼成と酒を酌み交わした相手だった。俺はこいつに何度も『更姫様を頼みます』とお願いをしていた。なんてアホなんだ。俺は。


「どうして更姫様を殺したんだ」

 怒りに震えたシゲと茂勝の声が重なって聞こえた気がした。

「儂の家族は、儂がまだ幼い頃、樫田に殺された。家族の中で唯一生き残った儂は、いつの日か樫田に復讐しようと家臣になって近づき、その機会をうかがった」

 低い声でゆっくりとその男――中井友斎は言った。

「お前が勝手に樫田に復讐すればいいだろう。更姫様には関係のないことだ」

 俺の声と兼成の声が絡まった糸のように絡まって発せられた。

「儂が樫田に復讐するためには更姫が必要だった。輿入れ前から彼女を手なずけ、樫田を油断させ、その隙に本懐を遂げるはずだった。物心ついたころからたった一人で家族の復讐だけを誓っていた儂は、多くの人間に愛され慕われていた更姫が憎かった。輿入れの道中では喜多倉から来た供の者すべてが彼女を慕っていた。だからこそ、この女を利用してやろうと考えた。輿入れの道中、彼女を呼び出して儂の生い立ちを話した。それを聞いた更姫は儂に同情した。それは大変な目に遭った、辛かったことでしょうと自分のことのように涙を流し、悲しんだ。だがな、彼女は儂の復讐に手は貸さないと言い切った。人目を忍んで何度も頼み込んだが、彼女は最期まで首を縦にはふらなかった。儂の計画を知られた以上、生かしておくわけにはいかない。儂はあの夜、月の下で彼女を殺した」

 『殺した』とあっさりと口にした男の言葉に俺はこぶしを握り締めた。怒りで肩が震えている。夢の中で更姫が泣いていたのは、この男の所為だったのか。この男に殺人の片棒を担ぐよう何度も頼まれ更姫は泣いていたのか。怒りで震えている俺を気にも留めず、男は淡々とした口調で続けた。

「更姫の死後、樫田のもとに帰り、本懐を遂げようとすると、いつも彼女の顔が脳裏に浮かんだ。息絶える前、彼女は言ったのだ『復讐からは何も生まれない』と。あの時、訴えかけた彼女の目が、最期の言葉がいつも儂の邪魔をした。儂は結句、樫田を殺めることなく天寿を全うしてしまった。皮肉なことにその時、儂は樫田家の筆頭家臣になっていた。樫田家に復讐することだけを望んでいた人間が、樫田の血を引く一族から信頼され、亡くなる時は多くの者が涙した。儂は何がしたかったのだろうかと自分を呪った。今度こそ、次こそは生まれ変わって樫田を根絶やしにすると心に決めて、儂は生涯の幕を下ろしたのだ」

「それなら何故、お前の復讐を止めた更姫と同じ顔で生まれ変わったんだ。だいたい数百年も樫田を恨み続けるなんて、どれだけ粘着質なんだよ」

 吐き捨てるように言った俺に、中井友斎は不気味な笑みを浮かべた。

「何故だろうな。儂はこの女が妬ましかった。いつも脳裏によみがえり、肝心な時に邪魔をするこの女が妬ましく、憎かった。だが……もしかしたら……儂はこの女になりたかったのかもしれないな。誰からも愛され、慕われるこの女に」

「お前が恨むのは勝手だがな、井原椿には関係ない事だろ。彼女には彼女の人生があるんだ!」

 シゲの怒号が飛んだ。こんなに感情を剥き出しにしているシゲは見たことがなかった。

「確かに、井原椿はここに来るまで普通の高校生だった。だが、お前たちに会い、彼女の魂の奥底にいた儂が覚醒した。あの時にいた奴らが揃っていたからな。仁法師、姫付きの女中、そして間抜けな護衛のお前たち」

「間抜けな護衛……」

 中井友斎は俺を見てにやりと笑い俺を指さす。

「これから更姫を利用して復讐を企んでいたところに、酒を注ぎながら姫様を頼むと何度も言ったお前の事だよ。それにしても、この女の顔に生まれて、勘違いしてるお前たちの間抜けな面構えを見るのは愉快だったぞ。儂を更姫だと信じ込み、心配しているお前たちの姿は実に愉快だった。儂の演じる更姫にお前たちはすっかり騙されていた。いつも気にかけ、後をつけていたのも知っておる」

 中井友斎は笑みを浮かべて、今度はシゲを見る。シゲは顔を赤らめて俯いた。それは照れているというよりは、心底怒っているように見えた。

「お前が正木先輩を殺したのか」俺は尋ねる。

「あいつは、お前達より少しだけ優秀だった。儂が更姫ではないと早くから気がついていたからな」

「はぁ? どういう事だ」

 やはり正木先輩は前世を覚醒していたのか。俺には夢なんて見ないと言っていたけれど、全てを理解したうえで井原に近づいたのか。

「夜、学校の屋上に呼び出され、何を言い出すかと思えば、あいつの第一声は『お前、本当は誰なんだ』と。間抜けな護衛の中であいつは、それなりに優秀だったようだ。お前達が、俺の正体に気付く前に、儂と決着をつけようと言い出した」

「だから殺したのか」

「先に手を出したのは、あいつの方だ。『正体を現せ、本物の更姫はどこにいる』と言いながら儂に飛び掛かって来た。儂はもう人間ではない。何度も死んで蘇った、怨念の塊だ。ただ生まれ変わったお前達とは違う。儂は、あっさりとあいつを突き落とした。それだけだ」

 歯を食いしばり、睨みつけるが、やつは平然と言葉を続けた。

「いつも儂の傍にいる、あの女も邪魔だった」

「斎藤か」シゲが聞く。

「儂は更姫に近づき、隙あらば命を奪おうと思っていた。それなのに、あの女は儂にべったりくっついて、何度もその機会を奪った」

「斎藤にその気はなかったけどな。まさか、お前が村上を殺そうなんて思ってもいなかっただろうし」俺の言葉に奴は静かに頷いた。

「ああ。だがな、結果的に間抜けなお前達より、よっぽど更姫を守ったという事だ」

 俺とシゲは顔を見合わす。確かにそうだよな。斎藤に感謝しないと。

「まぁ、そんなことはどうでもいい。何度も生まれ変わった儂はやっと今、この世で一番必要としていた人物を見つけたんだからな。そこにいる更姫を見つけた時に」

「どういうことだ? そうだよ、だいたい、更姫……村上をこの世で殺す理由なんてないだろう。どうして数百年も超えてまた彼女を殺そうとするんだ。お前の動機は何だよ」

 怒りを含んだままの口調で俺は聞いた。俺の怒りは無視して、中井友斎は気味悪い顔でにやりと笑う。

「忘れたのか。儂の目的はあくまでも樫田家をつぶすこと。あいつら、樫田の魂は俺の恨みも虚しく、ずっとのうのうと受け継がれ、生き続けていた。儂は何度も生まれ変わり、その度に覚醒し、樫田の血を絶やすことだけを考えた。だが、長い歴史の中では様々な事が起こった。戦や戦争、事件や事故。せっかく生まれ変わっても、儂は何度も命を落とし、いつも本懐を遂げられずにいた。それは樫田一族も同じだった。もともと子孫が少なかった奴らは、先の戦争で滅亡したようだった。しかし、今回覚醒して知ったのだ。樫田の血を引く最後の一人がまだ生きていたという事実をな。そして皮肉なことに、この女が樫田の血を引く最後の人間だ」

 中井友斎はベンチで横たわっている村上有紗を指さした。

「村上が樫田家の血を引く末裔? 最後の一人だっていうのか」

「そうだ。この女、両親が離婚して母親の姓が村上。父親の姓が樫田。樫田の血を引く父親は離婚後、病気で亡くなった。そしてこの女は正真正銘、樫田の血を引く最後の人間だ。儂の本懐は樫田に復讐すること、奴らの血を絶やすこと。それだけだ」

「もしかしたら更姫の魂はそれに気が付いて、樫田家の末裔である村上に転生したのかもしれない」

 シゲが呟いた。

「まさか。生まれ変わってもなお、この男の復讐を止めるためにか?」

 俺は口をポカンと開けた。そこまでして何になるんだ。更姫にとって得することなんて何もないじゃないか。

「そうだな井原椿を返そう。彼女はただの入れ物に過ぎない。儂の本懐は樫田の血を絶やすことだ。お前たちは更姫にそっくりなこの女、井原椿が欲しいのだろう」

 唖然としている俺をよそに、中井友斎がにやりと笑う。その直後、井原椿の身体から青白い光が発せられた。そして彼女は魂が抜けたようにその場に倒れこんだ。俺たちは思わず井原に駆け寄った。どうやら息はあるようだ。しかしその姿はまるで、脱皮した後の抜け殻のようだった。シゲが井原を横抱きに抱きかかえ立ち上がる。


 井原椿から出てきた青白い光は中井友斎本来の姿を取り戻していた。背は低く、土色の肌。ぎょろりとした目。黒光りする髪の髷姿。奴は動揺している俺たちをよそに眠っている村上に近づいた。そして首元に手を伸ばした。村上が苦しそうな表情をする。まずい、止めなくては。また同じことが起こってしまう。

「おい、何やっているんだ。村上から手を離せ」

 精いっぱいの声量を絞り出して俺は叫んだ。

「そんな勝手な真似をさせるか」 

 シゲも叫んでいる。しかし俺たちの足はピクリとも動かなかった。なぜだか身体が動かない。奴が怨念の塊だからか、一歩も踏み出すことができなかった。こいつはこうやって、正木先輩を殺し、斎藤千鶴を襲った。俺たちはこの力には勝てないのか。俺たちも殺されてしまうのか。中井友斎の指が村上の首にゆっくりと沈んでいく。俺は目の前で、みすみすと更姫を殺されてしまうのか。二度も姫様を殺されるのか。何とかして止めなければ。でも、どうすればいい。

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