第28話 9月21日(1)
目が覚めた俺は、夢の中で自分が泣いていたことに気がついた。それは涙がまだ頬を伝っていたから。パジャマの袖口で頬に伝う泪を拭いてゆるりと起きあがると見慣れたいつもの風景がそこにはあった。カーテンの隙間から入る太陽の光。机の上に開かれたままのノート。漫画や雑誌が散らばっている床。いつも見る俺の部屋だった。
夢だけど夢じゃなかった。あれは、あの悲しみは、俺自身が体験した事だ。俺の心の奥深くにある微かな記憶が、川底に沈んだ数粒の砂金のように現れて来た――そんな感じだった。
この気持ちは以前に一度だけ経験したことがある。6年前、父親が亡くなった時。あの時と同じ。暗く深い絶望の穴に落とされたような気持ち。大好きだった人にもう二度と会えないと思った時、身体の深い所からじわじわと染みだしてくる、やりきれない気持ち。
父親が亡くなって数年は朝、昼、夜とあらゆる場面で父の事を思い出し、果てしない虚無感に襲われていた。いや、その気持ちは消えることなく、ずっと俺の中にいる。ふとした拍子に現れて胸が締め付けられるのだ。その思いを、俺は前世でも味わっていた。
シゲはこの夢を見たのだろうか。目が覚めた俺がぼんやりと思ったのはそんな事だった。
『もうあんな辛い思いはしたくない』シゲの言葉が脳裏に浮かんだ。顔をあげて壁に掛けてあるカレンダーを見た。9月21日に赤い丸印がつけてある。
今夜……満月の十五夜。『あの日』がまたやって来る。数百年の時を超えて。
更姫――井原椿が何者かに殺される。登校前の彼女を家の前で待ち伏せて、一日中傍にいようかとも思ったが、いまさらシゲに頭を下げるのも癪に障った。
結局は、一人で登校して相変わらずボッチで一日を過ごしていた。昼はまた藤川と二人で食べた。
それでも今日、彼女が殺されるかもしれないと思うと、心がざわついていた。授業の内容は全く耳に入らなかった。時々、彼女の姿を視界の端に収めるが、必ずシゲも入ってきた。
『井原さんと、上田君ってお似合いだよね』『最近一緒にいるけれど、あの二人付き合っているのかな』女子たちが話している声が耳に入って、また溜息をつく。
それでも、と深呼吸して気持ちを切り替えた。大切なことを見落としているような気がした。でも、それが何か思い出せない。根本的な何かを見過ごしている。漠然とそう思い、放課後、閉館間際の図書館に向かった。
すでに後片付けを始めていた受付の女性は俺の顔を見て露骨に嫌な顔をしたが、気づかないふりをして奥の棚に向かった。何度も目にした歴史コーナーの蔵書。この中には何の手掛かりもなかった。夢の中で見た人物や目に映った景色もどこにもいなかった。
それでも、何かが引っ掛かった。気が付けばまた『戦国武将名鑑』を手にしていた。パラパラとあてもなくページをめくる。どのページも一度は目を通したはずだった。羅列された武将の名前を目で追う。上杉、武田、毛利、島津……違和感を感じた。大切な何か。俺は何かを見落としている。
『人の美しさは心で決まるものなのですよ』
ふと脳裏に、更姫の言葉が浮かんだ。何かが引っ掛かる。たまたま開いてあった、あるページが目に留まる。古田重然。確か以前もこのページを見たはずだ。ざっと目を通して、ある事に気が付いた。俺は立ち上がり、他の書棚に向かった。芸術に関する書籍が並んだ棚だ。
『日本画の巨匠』、『版画の世界』、『ゴッホ、ルノワール』、『東山魁夷』様々な厚さの本の間で俺は一冊の古い本を手にした。本のタイトルは『古美術・陶器講座』。
早速、席に戻ってページを開いてみる。瀬戸焼、美濃焼、歴史ある焼き物の写真が並んでいる。その中で俺は夢で見た歪んだ器を見つけた。姫が大切そうに持っていた器。その瞬間、俺の中で何かが繋がった。戦国武将の名前。姫の愛した器。俺は気付けなかった自分を呪い、勘違いしていた自分を恥じた。
更姫が危ない。急いで本を棚に戻し、外に出た。外に出ると月が明るかった。
『お前に殺されたのもこんな晩だった』以前、図書館で目にした六部殺しの一節が脳裏に浮かぶ。そう、彼女が殺されたのは、こんな晩だった。十五夜の満月。見渡す景色は数百年前とはまるで違う。それでも、空を見上げれば、あの日と同じ月がぽっかりと浮かんでこちらを見下ろしていた。
とにかく、まずは井原椿を探そう。彼女は何のために生まれ変わって来たのか。本人に確かめるしか方法はない。
月明かりに照らされた夜道を走った。昼間は半袖で過ごせたのに、乾いた冷気が走る俺の頬を掠める。空気の冷たさが余計に心臓の鼓動を早めた。明るい月に照らされて、胸が締め付けられる。自然と脳裏によみがえって来たあの光景。誰かに首を絞められて絶命した更姫。まるで眠っているような顔。早く、早く助けなければ。今走っているのは、俺なのか兼成なのか分からなくなって来た。
息を切らしながら走っていると、月夜に照らされて路上に張り付いたシルエットを見つけた。影は自転車に乗って、ゆらゆらと左右に進んでいた。俺は背後から全力で駆け寄り、影の持ち主に声をかけた。
「みっちゃん、こんな所で何してるんだ」
のんびりと自転車を漕いでいたみっちゃんは、ぜぇぜぇと言いながら駆け寄ってきた俺に目を丸くした。
「コンビニに行くんだよ。江口こそ何してるんだ。こんなに早くからマラソン大会の練習か?」
「ここを誰か通らなかったか?」
みっちゃんの問いには答えず、俺は聞いた。
「ああ、井原椿が歩いて行ったよ。誰か一緒だったけど……あれはお前のクラスの……あれ、あいつなんていう名前だっけなぁ」
「どこに行くって言っていた?」
「え? 声はかけなかったけど、ふれあい公園へ行こうって話していたぜ」
ふれあい公園はここから500メートルほど先だ。
「みっちゃん、サンキュ。これで昔の事は帳消しだ」
「昔の事ってなんだ? 俺、お前に借りがあったか?」
みっちゃんは意味が分からないというふうに、首をかしげている。
「そんな最近の事じゃないよ。ずっと昔の事。みっちゃんが腹を壊した時の話」
「はぁ? ますます意味が分かんねぇよ」
みっちゃんの声を背中に受けながら俺は走った。
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