第19話 9月15日(1)
「どう見てもあいつが姫の護衛だよな」
井原の隣にいるのは、斎藤千鶴。斎藤は柔道の猛者だ。線の細い井原と並ぶと本当に姫の護衛にしか見えない。
「今日は斎藤と帰るみたいだな。大丈夫そうだから、今日はやめておくか」
やめておくというのは、井原椿の下校を見守ること。一歩間違えればストーカーのような行為だ。井原に話そうとも思ったが、『彼女が恐縮するだろう。それに俺たちが勝手にやっているんだ。アピールする必要はない』とシゲに止められた。
「いや、斎藤だって女子だ。用心に越したことはない」
二人の後ろ姿を見つめながらシゲが言う。
「でもな、噂好きの斎藤に見つかったら大変だぞ。俺達、本当にストーカー扱いされる。善意でやっているのにそれはないだろ」
そうは言ったものの、斎藤が途中でいなくなるかもしれない。井原が無事に家までたどり着くまでは見届けようと、俺たちは距離を取りながら二人の後をつけた。
学校から井原の家までは徒歩20分ほどだ。俺たちの家とは反対方向だが、距離にして1.5キロくらいある。彼女が住んでいるのは道路沿いにある賃貸のマンション。学校を出て少し歩くと商店街に辿り着いた。アーケードもなく、空き店舗が目立つ商店街を抜けると人気のない路地が続く。ここからはぐっと人通りが少なくなる。この路地からマンション前の大通りに出るまでの1キロほどは彼女が一人になる可能性が高い。俺たちが一番危惧している箇所だった。
井原と斎藤は笑いあいながら商店街を抜けた。そのままま交差点の角を曲がって、人気のない路地に入った。車が一台やっと通行できる道幅の左右には雑草のような背の高い草が生い茂っていた。ぽつぽつと家はあったが、空き家が目立った。
そこで事件は起きた。
最初の角を曲がったところで、俺たちは2人を見失ったのだ。あまり近づくと気づかれると思っていたので、いつもより距離を取っていたのがまずかった。
2人の姿を探し始めて、1分もしないうちに女の悲鳴が聞こえた。『きゃあ』という可愛い悲鳴というよりは、『ぎゃああ』という断末魔の叫び声のような野太い叫び声だった。あの声は間違いなく斎藤だ。俺たちは声の方向へと急いだ。
『売土地』という看板が立てられている空き地に、井原と斎藤が別々に倒れていた。
「おい、どうしたんだ。何があったんだよ」
まずは井原に駆け寄るが反応がない。しまった、やられた。そっと手首を持ち上げて。親指で内側に触れる。脈はとくんとくんと波打っていた。呼吸もしている。出血も見当たらないので、目立った外傷はないようだ。気を失っているだけなのか。
「どうした斎藤。何か言いたいのか」
シゲは斎藤に呼び掛けていた。斎藤はかろうじて意識があるようだ。
「つ、椿ちゃんが……男に……」
「大丈夫だ、井原は無事だから安心しろ。犯人は男なんだな。奴はどっちに逃げたんだ」
「痛い、腕が痛い……」斎藤は呻きながら目を閉じた。
「お前達、大丈夫か」
何かを言おうとした斎藤の言葉をかき消すように、大声が聞こえて男が駆け寄って来た。
「前田先生!」
この人どこから現れたんだ。というか、いつから見ていたんだ。
「とりあえず二人を病院に連れて行く。お前達も手伝え」
疑いの眼差しを向ける俺たちをよそに、先生は倒れている井原を抱きかかえようとする。が、シゲがそれを制した。
「井原は俺が介抱します。先生は斎藤をお願いできますか」
ナイス、シゲ。先生が犯人なら、井原を渡すわけにはいかない。斎藤には申し訳ないが、先生の狙いはあくまでも姫だから、危害を加えることはしないだろう。
「あ、ああ」
前田先生は何か言いたそうな顔で井原から一歩離れた。
俺達に何かを伝えようとした斎藤は、見ると気を失っている。井原は相変わらず目を覚まさない。先生は斎藤を介抱することなく、立ったまま俺たちを見比べていた。限りなく怪しい。今、この場で問いただすこともできるが、ここはまず、先生と井原を二人きりにしないほうが得策だと思った。
シゲはしゃがみ込み、そのままの姿勢で井原の頭部をそっと自分の膝に乗せた。そのまま横抱きにしようとすると先生が口を挟んだ。
「上田。井原は頭を打っているかもしれないから、むやみに動かさないほうがいい」
「分かりました」
先生は斎藤に近づいて、結構重量がありそうな彼女を軽々と持ち上げた。横抱きにしたまま空き地の端にポツンとあった古ぼけたベンチにそっと寝かせる。
「斎藤は腕を骨折しているようだ。先生は車をまわしてくる。お前達はここで待っていろ。それと、二人とも一緒に病院まで来てくれ」
「もちろんです」疑いの眼差しを向けたまま、俺は頷く。どうして一瞬で、斎藤が腕を骨折しているって分かるんだ。自分が怪我させたって言っているようなものじゃないか。
数分も経たないうちに先生は真っ赤な乗用車で登場した。やけに目立つ色、五人乗りでハッチバックのコンパクトカー、部活の練習試合の時に何度か乗せてもらった先生の愛車だ。この近くにあらかじめ車を停めていたのだろうか。ここで何かが起きると知っていたのか。
先生は空き地の中に車を停めると、まずは車の助手席に斎藤を乗せた。次に後部座席に俺とシゲが井原を挟むように座れと指示した。全員が乗り込んだことを確認した先生は運転席に座り、シリンダーにキーを差し込んでエンジンをかける。車はゆっくりと動き出した。
無駄にでかいシゲのせいで、俺は少しずつシートの端へと追いやられる。井原は苦しくないだろうか、そっと彼女の顔を覗き込んだ瞬間、長い睫毛が揺れ、瞼がゆっくりと開いた。
「……ここはどこ」か細い声が漏れ、不安げな瞳が俺を見た。
「井原さん、気がついた?」少しでも緊張を和らげようと優しく声をかける。
「大丈夫か」シゲも心配そうに彼女を見つめている。
「頭が痛い……一体、何があったの?」
「ここは前田先生の車の中だよ。これから病院に向かうから」
「前田……先生……?」
頭を押えたまま井原が不安げに呟いて、運転席の先生を見る。
「これから近くの整形外科に向かう」
バックミラー越しに俺たちを見た先生は、短く答えた。
病院の駐車場についた時、斎藤が目を覚ました。ひどく腕を痛がっている。先生は車を降り、斎藤を連れて受付に向かった。俺たちと井原も後に続く。
「先生は二人のご両親に連絡して来るから、お前たちはそこで待っていろ」
先生は受付を済ませるとスマホを手にして病院の外に出て行った。斎藤は奥から出てきた看護師に連れられてレントゲン室に入って行った。待合室には俺とシゲ、井原椿が並んで座った。平日の診察終了間際の時間だからか、個人病院の待合室は俺たちと腰の曲がったおばあさん以外は誰もいない。
「井原さんは大丈夫? どこか痛む?」俺が聞くと井原は曖昧に微笑んだ。
「え、うん……。頭と足が痛かったけれど、もう、大丈夫だと思う」
「何があったんだ」シゲが問う。
「分からない」彼女はか細いで答えた。
「分からないって覚えていないってこと?」
俺の問いに黙って頷いた。その表情は硬い。
「井原さん、以前に前田先生がどうとか言いかけたことを覚えている? あれは、何を言おうとしたの?」
「私、そんな話したっけ。ごめんなさい、覚えていない」
「井原椿さん、診察室へどうぞ」
カルテを手にした看護師から名前を読み上げられ、彼女は立ち上がった。同時に前田先生が俺たちの方へと歩いて来た。それから俺たちは一言も発しなかった。先生も何も言わなかった。
診察を終えた斎藤は先生が言った通り、左腕を骨折していた。井原は腕と足に軽い擦過傷があっただけで他に異常はなかったようだ。
二人の診察が終わった頃、斎藤と井原の親がやって来た。先生はそれぞれに事情を説明しているようだった。俺たちは少し離れた場所でそのやり取りを見つめていた。井原と斎藤はぎこちない感じで話している。
井原の母親は、彼女と同じ黒髪の50代くらいの女性で、物静かな感じだった。一方の斎藤の母親は、斎藤によく似た外見で恰幅が良く、大声で先生と話していた。
申し訳なさそうに事情を説明する前田先生の横で、こちらも申し訳なさそうに頭を下げる井原の母親と、『うちの子は元気だけが取り柄だから、すぐに良くなるわよ』と笑っている斎藤の母親を見ていると、ふと以前シゲと読んだ『六部殺し』を思い出した。井原の母親が犯人なのか? いや、それならもっと早く行動に移しているだろう。隣を見るとシゲも母親を凝視していた。
「あの人は違うみたいだな」俺が言うと、
「そうだな。さっきの斎藤の言葉を信じれば犯人は男だろう」シゲが頷く。
斎藤は母親と帰ったが、井原の母親はまだ先生と話し込んでいた。井原は一人、窓際に立ち外を眺めていた。艶やかな黒髪が光を反射して輝いている。表情は見えないが、ただそこに佇んでいる姿も美しかった。彼女の白い脹脛にはガーゼが貼られていた。大した怪我じゃなくて良かった。もしも、俺たちがあの場所にいなかったら。しかし、犯人はどうやって逃げたのだろう。犯人は俺たちの姿を確認したのだろうか。分からない事だらけだった。
ただ、一つだけ言えることは前田先生は何かを知っている。
「井原さんのお母さんと何を話していたんですか」
井原が母親と帰ったのを見届けて、前田先生に話しかけた。
「ちょっとな。井原のお母さんから色々と相談されているんだ」
「相談?」
彼女が嫌がらせを受けていることを、先生も知っているのか。
「それって……」
口を開こうとすると、シゲが制服の袖口をくいと引っ張った。
「俺達が知っていることは、黙っていたほうがいい」
ぼそぼそと耳打するので、頷いて質問を変えた。
「先生はどうして斎藤が腕を骨折しているってすぐに分かったんですか」
「こう見えても、俺はサッカー部の顧問だぞ。お前達が怪我をした場合の応急処置も知っいる。骨や筋肉の仕組みくらいは勉強しているんだ。先生自身も趣味で筋トレしているしな」
ほらとポロシャツの袖を捲り、肘を曲げて上腕二頭筋を俺たちの目の前に差しだした。それは太く逞しかった。これなら斎藤でも運べるか。斎藤を骨折させることも可能だろう。
「お前たちがいてくれて助かったよ」
白い歯を見せて笑う先生は、いつもの前田先生だった。
「早く警察に連絡しましょう。二人は誰かに襲われたんです」
俺の言葉を聞いて、先生の顔から笑みが消えた。
「誰かに襲われた? 警察に連絡するって? おいおい、憶測で物を言っちゃだめだろう。いいか、今日のことは先生が調べるからお前たちは何もするなよ。ただ、井原を見守っていればいい」
「いや、でも」
「あの二人にも、親御さんにも『二人は下校中にふざけていて転んだのでしょう』と話している。それに二人とも倒れる前の記憶が無いんだ。みんな、俺の説明に納得している。余計な詮索はするな。ことを荒立てるなよ」
「みんなが納得しても、俺たちは納得できませんよ。斎藤は襲われた直後に言ったんです。犯人は男だって」
「斎藤がそう言ったのか」
先生の表情が険しくなった。まずい、喋りすぎたか。
「お前ら、正木のようにはなりたくないだろう」
険しい顔のまま、先生は厳しい口調で俺たちを見た。
「え?」
すっと背中が寒くなった。
「彼女を守りぬけ。今言えるのは、それだけだ」
「先生は何を知っているんですか」
「先生が犯人じゃないんですか」
俺達の問いに聞こえないふりをして、先生は背を向け歩き出した。纏った空気がこれ以上近づくなと言っているようで、俺たちは暫くその場に立ちすくんでいた。
斎藤が言ったメッセージ。犯人は「男」。でも誰だ? 前田先生か、それとも校内にいるほかの奴か。俺たちには全く分からなかった。
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