第18話 9月14日
朝、寝ぼけ眼で下に降りると、またダイニングテーブルいっぱいに食事が並べられていた。クロワッサンに、目玉焼き、ウインナー、レタスサラダ、ヨーグルト、バナナ。そして、ワッフルとクレープ、野菜ジュースもある。なんなんだ。今朝はスイーツバイキングかよ。夢の中で質素な食事を目にしていたから、目の前に並ぶ食事とのギャップに胃が痛くなった。
「なぁ、いつから日本人はこんな贅沢な食事を始めたんだ。麦飯と汁物で充分ではないのか」
思わず口から出た言葉に、ワッフルを頬張っていた菜摘が目を丸くした。
「お兄ちゃん、どうしたの? 顔、怖いよ」
「この朝飯は何だよ。我々は、もっと質素な物を食すべきだ」
「お母さん。お兄ちゃんが、おかしなことを言っている」
「母さん、何でも食べられるというのは贅沢なんだ。そのあたりをもっと理解しておくべきだよ」
「はぁ?」意味が分からないというふうに、母は首を傾げた。
「我が国はいつからこんな飽食の時代になったんだ。食べるものがあるだけでも、ありがたいと思わないと」
「謙、あんた最近変だよ。ずっと寝てるし、突然おかしなことを言い出すし。なんか頬もこけて目つきも悪いし、大丈夫かい?」
母は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「そうだよ。お兄ちゃん、一度病院に行った方が良いよ」
「俺はまともだ。行ってきます」
まだ何か言いたそうな母親と妹の言葉を遮って、何も口に入れずに玄関のドアを開けた。母親はいつまで大量の朝食を作り続けるのだろう。
教室に入ると井原椿は前田先生と話していた。俺たちは会話の内容が聞き取れる距離まで近づく。どうやら二人は昨日の時事ニュースについて話してるようだった。
「まぁ、先生は時事に詳しい『じじい』だからな」
井原はくだらないダジャレにくすくすと笑っている。
「なんだよ時事とジジイって」
俺は二人を睨み付けた。視線に気がついたのか、先生は俺を一瞥するとにやりと笑った。怪しい、怪しすぎる態度だ。
「とりあえずは大丈夫そうだが、気を付けたほうがいいな」
俺とは対照的に、シゲは冷静に二人を見ている。
「あいつ、ああやってふざけたことを言って井原を油断させているんだよ。放課後、直接確かめてやる。井原にもそれとなく話しておこうと思うんだ」
シゲが黙って頷いた。
前田先生と話し終えた頃も見計らい、井原椿に声をかけた。
「井原さん、あのさ」
「あら、江口君おはよう」
井原椿は今日も美しい。こうやって声をかけたのは何度目だろうか。頭の中ではいつも彼女の事を考えているのだが、なかなか気軽に話しかけられない。この前『絶対に守る』と宣言したのだから、もっと頻繁に声をかけてもいいよな。
いや、いつも井原と一緒にいる斎藤千鶴が厄介だ。斎藤は数日前、井原に告白しようとした男子を追い払ったらしい。それも『あの男が椿ちゃんに告白した』とあちこちで騒いだとか。告白した奴に同情するよ。俺が守らなくても、斎藤が井原のボディガードみたいだ。
「江口君のおかげで、嫌がらせがなくなったんだ。もしかして何かしてくれた?」
少しだけ弾んだ声で彼女が言った。俺は特に何もしていない。あるとすれば、藤川の県と今日からシゲと交代で井原の下校中の安全を守る……と言えば聞こえはいいが、彼女との距離を取って、周囲を伺いながら後をつける、一歩間違えば、ストーカーのような行為くらいだ。これは彼女には黙っておいたほうがいい。
「そうなんだ。俺は何もしていないんだけど、それは良かった。でもさ、前田先生には気を付けたほうがいいよ」
「え、それってどういう……」
「もしかしたら君に嫌がらせをしていた犯人は、前田先生かもしれない」
「えっ、まさか? 先生がそんな事するなんて思えないんだけど……。あ、でも、もしかしたら……」
井原が言いかけた時だった。
「ちょっと、江口君!」
いつも井原のそばにいる斎藤千鶴がどこからか現れた。
「椿ちゃんにちょっかい出して、江口君も椿ちゃんを狙っているんでしょ?」
「ええと、俺は……」
「椿ちゃんも、嫌ならはっきりと断らないとだめだよ。特にこういう男は」
斎藤の言葉に、井原は申し訳なさそうな顔をして俺を見た。こういう男って俺だどういう男だよ。だいたい、俺は告白に来たんじゃないって、俺は別に口説きに来たんじゃないだろ。井原を見ると困った顔で黙っている。だから、否定しろった。まぁ、下心がないわけでもないが……。結局、俺は井原が先生の何を伝えようとしたのか聞くことが出来なかった。
一部始終を見ていたシゲは、仕方がないと言うように首を横に振っていた。
放課後、俺はまず結城先生を探した。先生は美術部の顧問なので、美術室を覗いてみたが先生の姿はない。職員室にもいなかった。しばらく校舎内をうろついていたら、資料室に入って行く先生の姿を捕らえた。見た感じ、いつものあずさちゃんなんだよな。
「結城先生、ちょっといいですか」
資料室から出てきたあずさちゃんを呼び止めて、目の前に立ちはだかる。
「結城先生、更姫を殺そうとしているでしょう」
直球の質問にあずさちゃんは数秒固まった。しかし、すぐに笑顔を浮かべ、いつものあずさちゃんになった。
「江口君、急になぁに。更姫……ああ、授業でやっている更級日記の質問? 興味を持ってくれるなんて嬉しいな」
完全にすっとぼけてあずさちゃんは笑った。おい、俺は一言も古文の話なんかしてないぞ。
「そうじゃない。先生は更姫の女中、数学の前田先生は仁法師だろ。二人が共謀して何かを企んでいることは分かっているんだ。井原椿をどうするつもりだ」
俺は語気を強めた。あずさちゃんは一瞬ビクッとして顔を強張らせたが、すぐに、にっこりと笑った。
「ええと、言っている意味が全く分からないわ。先生は職員会議があるから行くわね。古文の質問ならまた今度」
「また今度」のあたりであずさちゃんは踵を返し、既に俺から三歩ほど離れていた。何なんだあの動き、もしかしたらくノ一か? 上手くかわされた。しかし、本人が否定する以上、何も聞きだすことができない。もう一人の容疑者にあたってみるか。
担任の前田仁、彼の前世は仁法師。更姫を殺害した犯人、俺の中ではこいつが一番の容疑者だ。クラスの中で二日連続で起きた事件だって先生なら可能だ。夜の校内に忍び込むこともできる。でも何のために? 何のために井原の体操服を切り刻むんだ? 警告のつもりか? 『お前をもうすぐ殺してやる』っていうメッセージか? だいたい、前世でなぜ更姫を殺したんだ?
教室に入ると前田先生は一人、後方の壁に新しい掲示物を貼っていた。自分で破いて自分で貼り直すのも変な話だな。仕事が増えて面倒なだけだよな。そんなことを考えていると、先生は俺に気付いた。
「江口、そこでぼーっと棒のようにつっ立っているなら手伝ってくれよ」
「は、はい」
ぼーっと棒ってなんだよ、思わず突っ込みを入れたくなるが、突っ込むほども面白くないので止めた。俺はおとなしく先生の手伝いをすることにした。教室の後方にあるキャビネによじ登り、高い位置から掲示物を貼っている先生に倣った。
「誰が掲示物を破いたんでしょうね。先生は犯人の目星ついているんですか」
隣に並んだ先生を注意深く見つめる。真剣に掲示物を貼っている横顔は、どう見てもいつもの前田先生だった。
「さぁな。俺は生徒の仕業ではないと信じているよ」
校内文化祭の役割分担表を貼り終えた先生は俺の方を見て微笑んだ。この笑顔はなんだ。余裕かよ。全ての掲示物を貼り終えた俺と先生は、よじ登っていたキャビネから降りた。
「手伝いサンキュー。と、お前の数学のテスト。もうちょっと頑張れよ」
先生は意味ありげに、にやりと笑った。
「は?」
何の話だ? 少し考えた。この間の数学のテスト、確か俺は三十九点……三九、さんきゅう。頭に来た俺はむっとして言った。
「先生の前世は僧侶ですよね」
「おっ、突然どうした? 先生が和尚に見えるのか? 和尚が二人いると何になるか知っているか? お正月だ。和尚がツ―ってな」
白い歯を見せながら先生は言う。
「ふざけないでくださいっ。先生は仁法師で古文の結城先生は更姫付きの女中。二人が姫を殺したんじゃないんですか」
俺は真顔のまま、怒り口調で聞いた。すると先生も急に真顔になり、俺との距離を一歩縮めた。
「何事も疑うというのは良い心がけだ。いいか、彼女から目を離すな。今度こそは彼女を守り抜くんだ。みすみす二度も殺されるような真似はするな」
真剣と言うよりも怖い顔で先生は言った。いつもとは違う凄味のある低いトーンで目も笑っていない。いつもにこやかな先生とはまるで別人だった。その圧倒的な存在感で俺は思わず一歩後ろに下がる。しかし先生は俺の前に歩を進めた。うろたえながら俺はかろうじて声を出した。
「えっと……それはどういう意味ですか」
「自分で考えろ」
いつもつまらない冗談を言って、俺たちがせせら笑っていた先生はそこにいなかった。動揺する俺をよそに真顔のまま先生は続けた。
「ところでお前はどんな夢を見るんだ」
「へ?」
「まぁいい。お前が見た世界が全てではないという事だけは、覚えておけ」
「先生……何を……」
「せいぜい頑張るんだな」
先生が去り間際に左手を挙げた瞬間、袖口から覗いた手首に小さな痣が見えた。あの痣、夢で見た仁法師と同じ痣だった。
頭の中で先生の言葉を整理した。先生は犯人を知っているのか。先生ではないということなのか。彼女から目を離すな。みすみす二度も殺されるマネはするな。やはり井原椿が狙われているのか。それなら、なぜ先生は彼女を守らないんだ。怪しい。俺を攪乱するためにでたらめを言っただけなのか。
わけが分からない。
大きな溜息をついて教室を出て、廊下を歩く。シゲは下駄箱の前にいた。井原の下校を見届けて、戻ってきたようだ。
「結城先生から何か聞き出せたか」
俺は首を横に振る。
「全くダメだ。面と向かって聞いたけれど、はぐらかされた。あと前田先生は」
俺は先生のセリフをそのままをシゲに伝えた。シゲは眉間に皺を寄せて俺の話を聞いていた。
「なるほどな。『お前が見た世界が全てではない』か。どういう意味なんだろうな。二人が姫を殺した犯人だと限りなく怪しいが、現時点ではどうすることもできないな」
抑揚のない声でシゲが言った。俺は黙って頷いた。
俺たちはその足でまた、図書館に向かった。いつものように、書棚から数冊の本を選び開ける。
今日選んだ本には戦国時代の婚姻や輿入れする様子が説明されていた。勢力図が頻繁に変わる戦国時代は殊更、政略結婚が多い。女の人も大変だな。若いうちから人質として嫁がされて、同盟が崩れればいつ殺されるかもしれない。結婚も命がけだよな。
ページを読み進めると、江戸から金沢まで輿入れした名のある姫様について記載されていた。この姫は当時3歳。輿入れに備え、道中の道や橋は整備され、一里ごとに茶屋が建てられたと書いてある。そして、幼い姫が飽きないようにと諸芸人なども従っていたようだ。
それに比べて、更姫の輿入れは質素なものだった。年も16、7歳だったから当時としては遅い方だったのか。輿入れ先に家臣が残り、相手方に仕えることもあったようだが、俺やシゲは送り届ければ帰ると言っていた。喜多倉家自体、小さな家だったから家臣まで差し出せなかったのか。侍女くらいは残ったのかな。更姫はいろいろと心細かっただろうな。
シゲは『前世の覚醒』と太いゴシック体で書かれた表紙の本を開き、俺の前に座っている。
「ヒントになりそうな事、書いてあるか」
俺の問いに、シゲは黙ったままページを開いて差しだした。そこには催眠術に掛けられた人間が、突然別の名を名乗りだし、以前どんな暮らしをしていたか、どうやって亡くなったなどを語り出したと書かれていた。
「催眠術ねぇ。確かに井原に催眠術をかけると、思い出すかもしれないよな。前世とか誰に殺されたとか。やってみる価値はありそうだな」
「だが、彼女に何と説明する。誰が催眠術をかけるんだ」
ぶっきらぼうにシゲが答える。いやいや、その本見つけたのお前だろ。なんで、俺が責められるんだよ。パラパラと他のページを捲ると、『肉体が滅んでも、精神や意識は残り続ける。輪廻転生は数千年前からさまざまな宗教で受け入れられてきた事実だ』と書かれていた。
シゲは読み終えた本を持って立ち上がり、書棚に向かった。こいつも一生懸命なんだよな。大きな背中を見つめて思った。俺たちは一体何をしているんだ。
そして夜。夢の中。夢に出たきた更姫は井原と同じ笑みを浮かべて月を見ていた。
「今宵の弦月は一段と綺麗ですね。古より、月には不思議な力があると言われます。きっと私がどこにいてもきっと、月は私達を見守ってくれます」
「さようでございますね。月はきっと、姫様を見守り続けるでしょう」
俺、兼成はそう答えて空を見上げる。漆黒の闇には刀で真っ二つに切ったような月がくっきりと浮かび上がっていた。
場面は変わり、また、輿入れの道中になった。
俺は出てくる人物を注意深く観察した。誰か、誰か知っている奴はいないか。あの女中、斎藤に似ているかも。いや、違うか。眠っていても神経を使うってなんなんだよ。睡眠は脳を休めるものじゃないのかよ。これってレム睡眠なのかノンレム睡眠なのか。夢を見たような見なかったような、曖昧な意識で目覚めた。そろそろ疲労が限界に達していた。
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