第15話 9月12日(2)
小学5年生、夏休みが始まった7月末の事だった。
朝、ラジオ体操から帰ってくると、玄関先で仕事に出かける父親と出くわした。『行ってらっしゃい』と父を見送り、朝飯を食べた。夏休みの学習帳なるものを数ページだけ雑に終わらせて、シゲのうちに遊びに行こうとしたら母親に窘められた。『遊びに行くのは午後からにしなさい』と。
妹の菜摘はまだ幼稚園の年長だった。仕方がないので、ポスターでも書こうかと絵の具の準備をしていたら、家の電話がけたたましくなった。その後の記憶は、ぼんやりとしか残っていない。
父親が交通事故で亡くなった、駅に向かう歩道を歩いていた所に、猛スピードで車が突っ込んで来たのだ。ついさっき『行ってらっしゃい』と言ったばかりだった。
車を運転していたのは80歳代の老人だった。もともと病気がちで、その日も持病の薬をもらうため病院に行く途中だったという。アクセルとブレーキを踏み間違えたようだ。体調が悪いのに何故運転をするんだ、と怒りを覚えた。
老人は交通事故を起こした翌年、持病が悪化し亡くなった。交通事故を起こした後も、ずっと入院をしていて、一度も俺達の家を訪ねる事はなかった。
母はパートを掛け持ちして俺たちを養っている。中学、高校と物入りな時に俺がお金の心配をすると、事故の賠償保険と、もともと父が加入していた生命保険があり、贅沢を望まない限り我が家は経済的に心配はないと母は言った。
ただ、お金の心配がなくても父親が戻って来る事はない。虚無感と喪失感が俺たち家族をどれほど苦しめただろう。
あの年、夏休み明けの登校は憂鬱だった。小さな町だったので、父親が亡くなったことは近所のほとんどの生徒が知っていた。実際、父親の葬儀には親に連れられたクラスメイトの姿があった。
9月1日、休みが終わった喪失感と久しぶりに友達に会える高揚感。今まではそんな気持ちで、登校していたがこの年の俺には弾む気持ちなど、どこにもなかった。
俺が教室に入った途端、それまで騒がしかったクラスは一気に静まり返った。みんながチラチラと視線を寄越すが、誰一人として話しかけてこなかった。居心地が悪く、早く家に帰りたかった。早く一人になりたかった。
翌日の9月2日、昼休みのことだった。机の前に影ができ、顔を上げると同級生の小原が俺を見下ろしていた。
「なんだよ」こいつの事はあまり好きではなかった。こいつが話しかけるくらいなら、一人の方がましだと思ったその時だった。
「あのさ、じいちゃんが言っていたんだけど。お前んちホケンキンがいっぱい入ったんだってな。父親が死んだら、家のローンも返さなくてもいいって聞いた。羨ましいよ」
小原のじいちゃんは秋祭りの時、俺たちに神楽を教えていた。地域ではそれなりに有名な人物だった。
「てめぇ……」
俺が立ち上がろうとすると、当時隣のクラスだったシゲがそれを制して、「いい加減にしろ」と小原を睨み付けた。小学生の頃から無口なシゲが、それも隣のクラスの人間がわざわざ口を挟んだことで、小原は一瞬黙った。
「こんな奴の言う事なんて気にするな。それより外に出ないか。天気がいいぞ」
シゲは窓の外を指した。校庭では、みんながドッジボールや鬼ごっこをしている。いつもと変わらない風景がそこにはあった。
がたがたと椅子を引き立ち上がり、小原に背を向けて歩き出した。その時、背後から声が投げつけられた。
「お前の父親、たいした稼ぎもなかったんだろ。良かったじゃないか。金持ちになって」
強張った顔で振り向くと、小原はにやりと笑った。その瞬間、俺の中で何かが切れ、気がつけば奴に殴りかかっていた。何発殴ったのか、素手だったのか、何かで殴りつけたのかは全く覚えていない。ただ、何か叫びながら、小原の上に馬乗りになった事はかろうじて覚えている。
その後、気がつけば、背後から担任に羽交い締めをされ、動きを封じ込まれていた。シゲの『やめろ』とか『もういいだろう』と言う声が途切れながら耳に届いたような気もした。視線を落とすと、目の前の小原が唇から血を流し俺を睨み付けていた。
俺は迎えに来た母親とそのまま家に帰らされ、夜、母親に連れられて小原の家まで謝りに行った。
「孫は会いたくないと言っている。お前を警察に突き出してもいいくらいなんだぞ。何をやったのか分かっているのか」
俺に神楽を教えていたじいちゃんは、玄関で腕組みをしたまま、俺たち親子を睨み付けていた。
母親は『すみません すみません』と繰り返しながら頭を下げ、俺の頭も抑えつけた。頭に載せられた母親の手が震えていたのを感じ取った俺は、奥歯を噛みしめながら渋々頭を下げた。
小原が言ったセリフは担任も知っているはずだった。小原が保健室に行った後、シゲたちが説明しているのを聞いたのだ。その時は『そうか。分かった』と言っていたはずなのに、気がつけばなかったことにされていた。今思えば、小原のじいちゃんは学校の行事に来賓としてよく顔を出す人物だった。
担任は学校で、迎えに来た俺の母親に『ちょっとした行き違いがありまして、カッとなった江口くんが手を出したんです』と説明した。俺が抗議の声をあげても『小原くんは、そんなことを言っていないと話しているんだ。お前の聞き間違えじゃないのか』と一蹴された。どうして俺ばかりこんな目に遭うのか。
小原の父親は不在のようで、小原本人と母親は家の中にいるらしいが出てはこなかった。代わりに同居している祖父母が俺たちに向けて次々と口を開いた。
「ご主人を亡くされて大変なのは分かるけれど、子供のしつけはちゃんとしないと。取り返しのつかないことになるわよ」
「人を殴るなんて、碌な大人にはならんな」
「あとで後遺症が出るようなことがあれば、その治療費は請求するから」
「慰謝料も請求したいくらいだ。旦那の保険金が入って、生活には困っていないだろう」
「きっと子供にろくな朝ご飯を食べさせていないんでしょう。朝食をちゃんと食べない子はキレやすいから。食育ってとても大切なのよ」
「秋祭りのときは面倒を見てやっていたのに、恩を仇で返すとは」
祖父母の
「お父さんがいないんだから、あんたがしっかりしてくれないと」
帰り道、ポツリと母が零した。「ゴメン」と言って俯くと、母はそっと俺の手を握った。
思いのほか手を強く握られて顔を上げると、母親は俺の顔を見て力なく笑った。
「滋君のお母さんから連絡があったの。何があったかは分かったから。どうして謙があんなことをしたのかもね。でもね、手を出したら負け。どこにいても信じられないことを言う人はいるの。子供でも、大人でも。残念だけど、きっとなくならない」
スッと短く息を吸って母は続けた。
「菜摘と三人で頑張ろうね」
翌朝から我が家の朝食には大量の食材が並び始めた。あとで聞けば、小原の祖母はずっと栄養士の仕事をしていて、以前から食育の大切さとやらを周囲に力説していたようだ。
昨夜、朝食をちゃんと食べさせていないと言われたことが気に障ったのか、俺と菜摘がどれだけ残しても、どれだけいらないと言っても、母親は毎朝大量の朝食を作り続けた。
俺はできれば、こんな町から出て知らない土地で暮らしたかった。縁もゆかりもない土地に住むよりも、家を売って子供と一緒に実家へ帰って来いと母方の祖父母は娘に何度も言っていたようだ。けれども母は、父親との思い出がいっぱい詰まったこの家から出ることを拒んだ。父親の実家は隣町で、母親の実家は県外だった。父親が亡くなった事で、父方の親戚とは少しずつ疎遠になっていた。
俺はその年から秋祭りに参加することをやめ、神楽の練習にも二度と行かなかった。そして、この神社に近づくこともなかった。神社に近づくだけで、小原のじいちゃんの顔を思い出して吐き気がした。シゲは、そんな俺の様子を察して自分も祭りに出ないと言い出した。
秋祭りの日、シゲは俺の家で一緒に過ごすとやって来た。神楽の練習も一度も参加していないのだと言った。母は仕事で不在だった。妹の菜摘は友達一緒に祭りへ出かけていた。
「何でそんな事するんだよ。俺が勝手に行かないだけだ。シゲには関係ないだろ。行けよ、祭り」
シゲを追い返したくて、きつい口調で奴の肩を押した。けれども、シゲはびくともしないで、それどころか家に上がり込もうとする。
「俺も、祭りには出ない。今日はお前とここにいるんだ」と言いながら玄関で靴を脱ごうとしていた。
「もう、ほっといてくれよ」
思わず叫んだ。大声を出したと同時に、涙が頬を伝って落ちた。
「ほっといてくれよ……俺の気持ちなんて……誰にも分からないんだ」
俯いたまま、しゃくりあげて言った。ぽたぽたと涙の雫が俺の足元に落ちた。シゲは何も言わなかった。シゲがずっと黙っているので静かに顔を上げた。シゲも泣いていた。
「お前の父さんのこと、俺も好きだった」
一呼吸おいて、シゲは鼻声で続けた。
「一緒にキャッチボールしてくれたこともあった。優しいおじさんだった」
「ああ」と言ったがそれ以上の言葉が思いつかず、二人はしばらく無言だった。俺たちが鼻をすする音だけが玄関で響いていた。
しばらく沈黙が続いた後、手の甲でごしごしと涙をこすりながら、ぶっきらぼうに玄関のドアを開けた。
「なぁ。頼むから、祭りには出てくれよ。俺が止めさせたみたいで嫌なんだ」
「分かった」とだけ、シゲは答えて出て行った。
それから俺たちの間で、祭りや神社の話をしたことは一度もなかった。
幸いなことに、俺に悪態をついた小原は県内にある私立中学を受験をしたらしく、小学校を卒業後に姿を見る事はなかった。
あれから、6年が過ぎた。
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