第13話 9月11日(2)

 昼休み、井原が一人になったのを見計らって声をかけることにした。彼女が一人で女子トイレから出てきたところを後をつける。まるでストーカーみたいだなと思いながら、近くに噂好きの斎藤千鶴がいないことを確かめた。あいつに見つかったら、何を言われるか分からない。彼女の周囲に誰もいなくなったところで、距離を縮め、背後から声をかけた。

「ひ、井原さん」

 間違えて姫様と呼びそうになった。焦るな、俺。井原椿は俺の声に立ち止まり、振り返った。

「江口君、どうしたの?」

 俺の名前、覚えていたんだ。何でもないことだが、感激した。彼女はいつもと変わらぬ美しい笑顔を向ける。俺だけに向けられる笑顔に、心拍数がどんどん上がっていく。

「いや、その、ちょっと聞きたいことがあるんだ。こっちに来てもらって良いかな」

 それだけ言って、ちょうど開いている理科室に向かい、先に入って手招きをした。

「え、うん」

 不思議そうな顔をして、彼女も俺に続く。警戒されそうだから、ドアを閉めるのはやめた。この時間、あまり人通りもないだろう。冷静に考えれば、彼女と二人きりなんて現世では初めてじゃないか。そう思ったら余計に緊張してきた。水槽や、ビーカー、フラスコ、試験管が並べられた理科室は静まり返り、俺の心臓の鼓動が彼女に聞こえそうだった。


「江口君、聞きたいことってなあに」

 彼女が挙動不審な俺を見つめて尋ねた。

「ええと、あのさ、井原さん。最近、おかしなことはなかった? 怖い目に遭ったとか、脅迫みたいなことがあったとか。身の危険を感じたとか、命を狙われたり……はさすがにないか。ははは。あとさ、亡くなった正木先輩に何か言われなかったかな」

 焦ってた俺は、矢継ぎ早に質問をぶつけてしまう。いきなり何を言っているんだ。突然こんなことを言ったら、怪しい奴だと思われるだろ。天気の話とか、授業の話とか前置きが必要だったかな。

 しかし、俺の予想に反して井原椿の微笑みはみるみるうちに強張っていった。彼女は唇を噛みしめて辛そうな表情で俯く。

「井原さん?」

 彼女の顔を覗き込む。俺の質問に心当たりがあるのか。

「私……正木先輩に……どうしていいか……」

 声を詰まらせながら井原椿は声を絞り出した。顔を上げた彼女の頬には涙が伝っている。泣き顔さえも綺麗だな。ってこんな時に俺は何を考えているんだ。しまった。泣かせてしまった。何やっているんだ。ふと廊下に目をやる。誰も通りませんようにと祈った。

 気を取り直して、頭の中で言葉を選んだ。犯罪被害者に声をかける、優しい刑事みたいな口調で話そう。少しでも彼女の不安を取り除かなければ。

「正木先輩に何か言われたの? 井原さんの周囲でおかしなことがあったの?」

「江口君、どうしてそれを……私があんなことを言わなければ……」

「あんなことって」

「私、ずっと前から誰かに嫌がらせをされているの。脅されているの……」

 井原椿は手で顔を覆い、肩を揺らしてしゃくりあげた。彼女の絹糸のような黒髪が波打った。


 俺はこの場ですべてを話そうかと思った、きみは前世で誰かに殺されたんだ。そして俺も同じ世界にいた。もしかしたら、同じ奴にまた命を狙われているかもしれない。前世では守れなかったけれど、今度こそは俺が守る。いや、こんな話、誰も信じないだろう。俺の動揺をよそに涙声を震わせながら井原椿は続けた。

「一昨日の放課後、正木先輩に告白されて……その時に、ずっと誰かに嫌がらせをされて、怖い思いをしているって話したの。この高校に転校してから、下校中に突然背後から押されて、車に轢かれそうになったり、上履きの中にカッターの刃が入っていて、指を怪我したり、他にもいろいろ……私の体操服が無くなったことも同じ人がやっているんじゃないかって思う、あれからノートや文房具もなくなったの……先輩は『俺がそいつを捕まえてやる、心配するな』って言って。犯人を捕まえたら付き合ってくれって言われて……。そしたら昨日、先輩は……あんな話、しなければ良かった。校長先生は事故だって言っていたけれど、もしも私のせいで先輩が亡くなっていたなら。そう思うと怖くて怖くて……」

「正木先輩以外の誰かには話したの? 先生とか、両親とか、警察とか」

 井原椿は黙って首を横に振った。

「まだ誰にも言っていない……怖くて……正木先輩が亡くなったって聞いて、もう、どうしたらいいか分からなくて。でも、怖くて誰にも言えなくて……。もし話したら私はその人に殺されるんじゃないかと思って。本当は学校に来るのも怖くて。それなのに、江口君は私に起こっていることを言い当てた。私、思わず話したけれど……どうして……どうして正木先輩のこと……私が怖い目に遭っていること、誰も知らない話を知っているの? ねぇ、どうして? もしかして、江口君が……」

 黒い瞳に涙を浮かべたまま、井原椿は俺に不安げな表情を向けた。いや、不安じゃなくて俺のことを怖がっているのか。

 そうだよな、突然あんなこと聞いて変だよな。俺のことを犯人とか思っていないといいんだけど。俺は唾を飲み込んで喉を湿らせ、緊張で渇いた舌で唇を撫でた。唇はかさかさに乾いている。でも、俺はこれだけは言わずにはいられなかった。

「もう大丈夫だよ。何かあったら、俺が守るから」

 やっと言えた。

「え?」

 不安げな顔のまま井原椿は俺を見つめた。

「詳しく話すと長くなるし、井原さんが混乱するだろうから、止めておくよ。でもこれからは大丈夫だから。井原さんは俺が守る。それだけは信じて欲しい」

 井原椿は少し驚いたような顔で俺を見つめた。彼女の目にはうっすらと涙の膜が張っている。

「ええと、江口君が私を守ってくれるの? 犯人じゃないの?」

「犯人じゃないよ。それは断言できる。そして、井原さんは俺が守る。嫌がらせをしている犯人もつき止める。だから安心して。それに正木先輩の事は本当に事故かもしれないだろう。そう自分を責めないで。きみは何も悪くないんだから」

 真剣な顔で彼女を見つめ返し、力強くうなずいた。井原椿はぎこちなく微笑んだ。まだ俺のこと疑っているのかな。

「ありがとう。でも無理はしないで。先輩は私に今の江口君と同じことを言って亡くなった。もしも、正木先輩が亡くなったのは事故だとしても、私はもう、誰かがいなくなるのは絶対に嫌だから」

「分かってるって。それに俺はこの話、誰にも言わないよ。井原さんが先輩の死について変に疑われると困るだろ。大丈夫、今度こそは俺が絶対に守って見せる」

「今度こそ?」

 彼女は怪訝な顔で俺を見つめる。黒目がちの大きな瞳で見つめられると、心臓がまた鼓動を早めた。このまま顔を近づけたら、キスできそうだな……いや、何考えているんだ。さすがにそれは不謹慎だ。コホンと咳払いをして、言葉を続ける。

「いや……何でもないよ。実は正木先輩から聞いていたんだ。井原さんが好きだから、俺に紹介してくれって。井原さんが嫌がらせを受けているってことも、先輩からちょっとね」

 嫌がらせの件は何も聞いていないけれど。正木先輩、口の軽い奴にしてごめんなさい。話を聞いた井原椿はほっとしたような顔になり、微笑んだ。

「そうだったんだ。そうか、正木先輩から聞いていたんだね。びっくりしたよ。ごめんね、江口君のこと、ちょっと疑っちゃった。それにしても、クラスメイトのためにそこまでするなんて江口君は優しいね。困っている人を見たら放っておけない人なんでしょう」

「そ、そうかな」

 誰でも助けるわけじゃないんだけどなと思ったが、口には出さなかった。彼女を守る。

 そのために俺は、今この場所にいる。言い換えれば、彼女を守るために俺は生まれ変わったんだ。俺の頭の中はもちろん、身体の細胞一つ一つが使命感という言葉で一杯になった。今度こそ孝姫を守ってみせる。

「江口君に話して、少しすっきりした。ありがとう」

 俺に向けられた井原椿の微笑みはあまりにもまぶしすぎて、俺は思わず俯いた。

 

 井原椿から聞いた内容をシゲには話そうと思った。ただ、彼女に『きみを守る』と話したことは黙っていることにした。抜け駆けだとか言われそうだしな。


 今日も部活をさぼり、俺たちは帰路についた。とにかく眠くて仕方ない。早く布団に入り、何か手掛かりとなる夢を見なければ。これだけ眠いと熟睡しそうだな。それも困る。

「正木先輩は誰かに殺されたということか」

 俺の話を聞いたシゲは、険しい顔を一層強張らせて呟いた。

「先輩は井原を脅していた犯人を突き止めたんだよ。そして屋上に呼び出した。なぁ、この話、警察に話したほうが良いと思うか?」

「前世の話なんて誰が信じる。それに、井原が脅かされていることは事実だとしても、正木先輩が殺されたとか、誰かが井原を殺そうとしているとか、全て証拠のない仮定の話だ。そんな話をしたら、逆に俺たちが疑われる」

「そうか、そうだよな。それにしても井原を脅かしているのは、更姫を殺したやつの仕業なのかな。もしかしたら、最近クラスで起こっている騒ぎも……」

「たぶんな。何のためにそんなことをするかは、俺にも分からんが……」

 一呼吸おいてシゲは続けた。

「守るしかないだろう。今度こそ」

「ああ、そうだな。物事には絶対に何か意味がある。俺たちの記憶が蘇ったこと。彼女と同じ時代を生きていること。それはきっと、今度こそは姫を守れという宿命だ」

 そう言って力強く頷いた。


 そしてまた夢の中。

 更姫の輿入れ出立前だろうか。屋敷内には更姫と俺、兼成の姿があった。

「姫様、それは何でござりまするか」

 兼成は更姫が大切そうに掌に載せ、眺めている茶碗大の器を指さした。くすんだ黄色の器は更姫にとって大切なものらしいが、俺の目にはその良さが分からない。姫が作った器だろうか。嫁入りに持参するのかな。

 兼成はなんとも言えない表情で器を見つめていた。きっと俺と同じ気持ちなんだろう。褒めるべきかどうか悩んでいるようにも見える。

「素敵でしょう、兼成。父上が大切に保管している物なんですよ」

 更姫は嬉しそうに器を差し出した。

「はぁ」

 兼成はやはり何と答えたら良いか分からないようだった。更姫の父親が保管しているのならば、やはり姫の作品か。殿は、まもなく嫁ぐ娘の作品をずっと大切にするんだろうな。

 もう一つ、更姫の傍らには黒く歪んだ焼き物が置かれていた。いびつなこの形、御飯とか食べにくそうだな。そもそも、これが茶碗なのか、小物入れなのか俺には分からない。おそらくは、俺の前世、兼成も分かっていないようだ。まぁ姫の手作りにしては上手くできている方だと思う。

「兼成、人の美しさとは何で決まると思います?」

 器を丁寧に桐の箱にしまいながら更姫は尋ねた。

「それは……見た目でしょうか。それは顔立ちだけではございません。姿かたち、所作においても……まるで姫様のような……せ、拙者は何を言っているんだ。も、申し訳ありません」

 おいおい、こんな所でいきなり告白かよ。更姫はもうすぐ嫁に行くんだぞ。何をいまさら言っているんだ俺。顔を真っ赤にして頭を掻く兼成の姿を姫は柔らかい笑顔で見ている。

「ふふっ、いいのですよ。でもその答えは間違っていると思います。私は人の美しさは心で決まるのだと思います」

「こころ……ですか? しかし、姫様。心は見えませぬ。いくら美しい心を持っていたとしても見えないもので図るのは、ちと無理があるのではないかと」

「そうでしょうか。では仮に美しい顔をした娘がいるとします。しかしその娘は顔を負傷し以前のような面影はなくなりました。そうなるともう美しくないのですか?」

「拙者はそう思います。人の美醜はその人そのもの。美しければもてはやされ、醜ければ蔑まれる。それが世の常でしょう」

「そうなんですか? なんだか寂しいですね」

 更姫は格子戸を開け、空を見上げた。兼成も黙ってそれに倣う。雨が降っている。月は見えなかった。

 しばらくの間があり、また別の夢が訪れた。

「月が眩しいな」

 俺、兼成はそう呟くが、夜空に浮かぶ月は雲をまとって霞んでいる。眩しいはずがない。

「まるで姫様のようだ。当たり前のようにそこにあるのに、決して手が届かぬ光」

 兼成は月を見上げたまま、廊下に座り込んだ。

「姫様が幸福に生きて笑ってさえいてくれれば、俺はそれでいいのだ。たとえ誰のものであろうと……ただそれだけだ」

 誰に聞かせることもなく呟いて、再び夜空の月を見上げた。それは先ほどよりも高く昇り、まとっていた雲を払って輝いていた。


 その時だった。どこからか声が聞こえた。

『更姫様をお守りしろ。あの日と同じ十五夜、再び姫様の命が狙われる。奴を止めるのだ。今度こそ、必ず、姫様を……』

 至近距離から聞こえた声に思わず飛び起きた。眠っている俺の耳元で囁いたような気がして、周囲を見回すが誰もいない。

「やっぱり彼女の命が狙われているってことか……しかし、奴って誰なんだよ。それが分からなきゃ守れないだろうが」

 漆黒の闇に溶けて姿の見えない、名もなき声の主に向かって呟いた。


 それにしても、先程聞こえた『声』は誰なのか。分からないことだらけだ。それでも逃れ得ぬ宿命が、再びこの世に廻り来るのは神命なのだと思った。

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