第10話 9月9日

「この問題、分かる人はいるか」

 挙手をしたのはクラス委員長の村上有紗ただ一人。

「P が第 3 象限にあるとき,P は cos 座標,sin 座標とも負であるので, cosx < 0, sinx < 0, tanx > 0.です」

「そうだな」

 村上の答えに前田先生は満足そうに頷いた。俺は頷けない。さっぱり分からない。

「じゃあ次の問題」

 前田先生が黒板に向かってまた何か書きだしたが、チョークがぽきっと折れた。

「チョークが折れてチョー悔しいなぁ」

 先生の言葉で、教室は一瞬にして凍り付いた。

 チョークとチョー悔しいとか誰も笑わないよ……と思ったら村上有紗がくすくすと笑っていた。隣の席の井原椿も一緒になって笑っている。あいつら、先生に気を使っているんだろうな。愛想笑いというやつだろうな。二人が笑っているのに気が付いたクラスのメンバーもつられて笑いだした。昨日の気味の悪い事件のせいで、殺伐としていたクラスの雰囲気が少しだけ和らいだ。

 そんな中、藤川瑠璃は面白くなさそうに井原椿を睨み付けていた。


 昼休み。

「おい、江口」

 廊下に出たところで振り向くと、サッカー部の正木先輩が人懐っこい笑顔で立っていた。この前、夢に出てきた秀丸殿と本当に同じ顔をしている。もう、前世と現世がごちゃごちゃだ。なんで、こんなにも同じ人間が同じ時代、同じ場所に出てくるんだ。

「ちょっといいか。お前に聞きたいことがあるんだ」

 頭の中がごちゃごちゃになっている俺をよそに、正木先輩は相変わらずの笑顔を向ける。

「はぁ、なんでしょう」

 先輩はひょいと教室の中を覗き込んで、声のトーンを落とした。

「ここじゃ、あれだからちょっとついて来いよ」


 正木先輩について歩いて行く。3年生がわざわざ2年の教室に来るなんて珍しい。部活の話かな。もしかして俺に次期キャプテンやって欲しいとか。3年生の総意を伝えにきたのかな。頼まれたら受けるしかないな。などとあれこれ考えていたら、音楽室の前で先輩は立ち止まり、ガラッとドアを開けた。

「まぁ、入れ」

 言われるがまま、中に入る。しかし、どうして教室で話さなかったんだ。ああ、シゲに聞こえるとまずいからか。俺がキャプテンに推薦されたって、シゲには何て説明しよう。あいつなら、わかってくれるかな。

 

 しかし、先輩の口から出た言葉は全く違った。

「なぁ、お前のクラスの井原椿って彼氏いるのか?」

「は?」

 先輩の口からいきなり出たその名前に狼狽える。俺の動揺に気付かないまま、先輩はポケットから出したチョコバーの袋を開け、かじりながら続けた。

「あの子、可愛いよな。さっきもちらっと見たけれど、3年生の間でもっぱらの評判だよ。ああ、お前も食うか?」

 先輩はポケットからもう一本チョコバーを取り出し俺に差し出した。先輩はいつもそんなものを持ち歩いているのか。まだ日中は暑いのにポケットの中で溶けないのかな。

「いや、俺は……」

 先輩の体温と気温で柔らかくなっているであろうチョコバーを、俺はやんわりと押し返した。

「井原……でしたっけ?」

「そうそう、彼氏がいるか知っているか? 好きな奴とかいるのかな。お前、話したりする? 教室ではどんな感じなんだ?」

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。

「ええと。井原より、俺のクラスなら藤川瑠璃の方がかわいいですよ。ほら、目がでかくて髪もふわふわで。藤川、知りません? 井原なんか地味だし、たいしたことないでしょ」

 適当にはぐらかしてみる。しかし先輩はぐいぐい来て引き下がらない。正木先輩は食べ物にしか興味ないと思っていたので意外だった。

「そうかぁ。井原椿、普通に可愛いだろ。で、どうなんだよ。彼氏いるのか?」

「俺はそんな話はさっぱり……あ、そうだ。正木先輩は夢を見ますか?」

「はぁ?」

 突然の質問に先輩は怪訝な顔で俺を見た。俺は正木先輩が自分の前世に気付いているかどうか確かめたかったのだ。

「寝るときに見るアレですよ」

 そう言いながら先輩の顔色をうかがう。先輩はきょとんとした顔で俺を見て、ポンと手を打った。

「ああ、そっちの夢か。お前が将来の夢でも語りだすのかと思って、びっくりしたじゃないか。夢ねぇ……俺はすぐに熟睡するから夢なんて見ないよ。まぁ、見たとしても所詮、夢だしな。それよりさぁ、井原椿を紹介してくれよ。江口、同じクラスなんだろ。適当な理由をつけて呼び出してくれれば、あとは俺が話をつけるからさ」

「話をつけるってなんですか。決闘するわけじゃあるまいし」

「告白するに決まってるんだろ」

 涼しい顔で先輩は言った。例え、いつも食い物をくれる正木先輩であろうとも彼女に近づけてはいけない。いや、もしかしたら先輩、いや秀丸が更姫を殺した犯人かもしれない。俺は先輩に井原椿を諦めてもらおうと、必死になってあれこれと御託を並べた。

「俺、井原椿とあまり話したことないんです。ああ、それにたぶん彼氏いますよ。あと、あいつ性格悪いですよ。いつも澄ましているっていうか、男を小馬鹿にしているというか。やめておいた方がいいですって」

「なんだよ。お前、やけに井原の事を嫌っているじゃないか。彼女と何かあったのか」

 先輩は急に真顔になり、俺を見た。まずい、いろいろ言い過ぎて変に思われたかな。

「何って、その」

「まぁ、いいや。俺が直接話して確かめりゃ済むから。こんなところまで呼び出して悪かったな。お前に彼女との間を取り持ってもらおうと思っていたんだけど。まぁ、この話は忘れてくれ。ああ、それと。お前は興味ないみたいだけど、彼女、本当に人気あるんだぞ。あんまり仲良くして変な恨みを買うなよ」

「恨みを買うほど、井原と話していません」俺がムキになって否定すると

「だから、むやみに近づくなってこと。君子危うきに近寄らず、だ」先輩はポンと俺の肩を叩いた。

「だから、俺は彼女の事を何とも思っていないですから。近づきませんよ。でも先輩、本当に藤川の方が……」

 俺の説得はチャイムの音にかき消された。正木先輩はチョコの付いた口を手で拭いながら、じゃあなとその場を立ち去った。


 放課後、俺たちはまた図書館にいた。ありったけの蔵書に目を通し、何と書いているか分からない文章を目で追った。こんなに本を読んだのは生まれて初めてかもしれない。これで古文や日本史の成績が上がればいいのだけれど、もともと理解できていないのだからそう上手くはいかない。

「作田家だろ、嫁ぎ先は」

 俺の見た夢を話していたら、黙って聞いていたシゲがいきなり口を挟んだ。

「いや、友田家だって」

 孝姫の嫁ぎ先について二人が見た夢が違っていた。俺は『友田』だと思っていたが、シゲは『作田』だと言い張る。所詮夢だ、それも仕方のない事か。

 

 俺は書棚に向かった。『歴史コーナー』から『戦国武将名鑑』を引っ張り出す。もしかしたら夢の中で耳にした人物の名があるかもしれない。しかし俺たちが生きたであろう千五百年から千六百年の間は登場人物が多すぎた。

『戦国武将名鑑』には俺のやっている戦国ゲームに出てくるメジャーな武将の名前と共に、俺が聞いたこともない武将の名前がずらりと並んでいる。

 石川久智、古田重然、土居清良……って誰だよ。だいたい、俺は日本史も得意じゃない。こういう武将は地元の人間とか、歴史オタクなら詳しく知っているんだろうな。いや、本来はこの本に載っている武将くらいは知っておくべきなのか。

 俺たちが必死に調べても、図書館の蔵書には喜多倉家も友田家も作田家も載ってはなかった。

『戦国武将名鑑』の中でも多くのページが割かれている、織田信長、上杉謙信、武田信玄、伊達政宗、毛利元就、長宗我部元親……。誰もが知っている名前に目を通しながら俺は思った。どうせなら前世は有名な戦国武将が良かったな。聞いたこともない家のパッとしない家臣なんて、今の俺、そのままじゃないか。

 

 そう言えばと思い出して、本を閉じシゲの方を向く。

「正木先輩が井原椿に告るって。先輩、食べ物にしか興味がないと思っていたのに、意外だったよ」

 目の前で『日本各地の民話と怪談』というタイトルの本を読んでいたシゲはページを開いたまま顔を上げ「そうか」とだけ言った。開いたページからは『六部殺し』と太いゴシック体で書いてある文字が見える。

「何とかして、俺達で告白を止めさせたほうが良いと思うんだけど」

 俺の言葉にシゲが眉間に皺を寄せた。

「何故だ」

「先輩は前世で絶対に更姫の死に関わっているだろ。ほら、秀丸っていう、俺たちのリーダーだったんだし。もしかしたら先輩が更姫を殺したのかもしれない。そうだとしたら、先輩が井原椿を……」

「殺すつもりなら、お前に告白することをいちいち伝えないと思うが」

 冷静な口調でシゲが言った。

「確かに……」

「自分からみすみす疑われるようなことはしないだろう」

「そうか、そうだよな。考えすぎか。でも井原椿が先輩と付き合いだしたどうするんだよ。正木先輩、外見はぽっちゃりだけど面白いし、良い人だし」

「それは井原が決める事だ」

 また冷静な口調でシゲが言う。俺だけが熱くなって反対しているようで納得いかない。シゲだって井原の事が気になるくせに。気を取り直して俺は聞いた。

「ところでなんだよ、そのページ。ろくぶころしって。さっきからずっと真剣に読んでいるけれど」

「ろくぶじゃなくて『ろくべ』だ」

 シゲは本を差し出す。俺は開かれたページを目で追った。書いている内容はだいたいこういうものだった。


 昔、『六部(ろくべ)』と言う人間が旅の途中、農民夫婦に殺される。六部は金品を持っていたのだ。六部を殺した農民夫婦は奪った金を元手に裕福になり、子供も産まれた。しかしある晩の事、我が子の顔がみるみるうちに六部の顔に変貌する。六部の顔をした子供は言った。

『お前に殺されたのもこんな晩だった』

 夫婦の間に産まれた子供の正体は六部の産まれ変わりだった。その後の夫婦については、このまま話は終わったとか、裕福だった家が衰退したとか、様々な言い伝えがあると書かれていた。

「どこにでも、こういう類の話はあるらしい」本を閉じてシゲが言った。

「殺された人間が殺した人間の子供に生まれ変わるって事か」俺は尋ねる。

「井原もそうだとしたら、井原の両親も怪しいと思うのだが」

「いや、それはないんじゃないかな」

 俺が否定するとシゲがまた険しい顔をする。

「何故そう思うんだ」

「更姫は殺された相手に復讐を誓う人間じゃない。ましてや、その子供に生まれ変わるとは考えられないよ」

 思ったとおりを口に出した。校内で見る井原椿の姿を思い出す。いつも優しく微笑んでいる彼女が、誰かに復讐を誓うなんて想像できなかった。シゲはしばらく考え込んでいた。

「そうだな。確かにお前の言う通りだ」

「それよりもさ、シゲ。正木先輩……」

「今、大切なのは彼女を守る事だ」

 俺が全てを言い終えないうちに、シゲがぴしゃりと口を挟む。

 それは分かっているよ。でも、彼女を助けた暁には、前世から続くこの恋を成就させたいんだ。だから正木先輩には諦めてもらわないと。そう言おうとしたが、馬鹿にされるのでやめた。


 夢の多くは更姫という喜多倉家の姫が隣国へ嫁入りする前後の場面が多かった。

 俺の前世の名前は兼成。シゲの名前は茂勝。更姫はおそらく井原椿だろう。姫の輿入れに帯同した人物は覚えているだけで、俺とシゲ、喜多倉家の家臣が数人、その中にサッカー部の正木先輩がいた。秀丸殿と名乗る先輩は俺たちのリーダーだ。姫付きの女中も何人かいたと思う。他に、僧侶の仁法師。嫁ぎ先である友田家からも同中の道案内を兼ね数名の家臣が来ているようだ。

 そして輿入れの最中に更姫は何者かによって殺された。しかし俺の夢にもシゲの夢にもその犯人は出てこなかった。犯人は未だわからないままだった。


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