第8話 9月7日
朝、シゲに正木先輩が夢に出てきたと話をした。シゲの夢にも先輩は登場して、名前は『秀丸』というそうだ。シゲの夢では、名前は頭上ではなく、名札のようなものが見えるらしい。俺の夢はというと、あれから俺とシゲ、そして更姫以外は誰の名前も出てこなかった。知っている人は正木先輩以外、いないような気がする。
「そうそう、今日は
朝から前田先生のくだらないダジャレで教室内は凍り付いている。それはいつもの教室、いつもの光景だった。毎晩見る夢と、美しい転校生の存在を除けば俺の世界は平常運転だった。
俺はこの二日間で、井原椿と少しだけ話した。話したと言っても当たり障りのない挨拶や、「どう、慣れた?」と言うお決まりのセリフ。こんなの話したうちに入らないか。夢の中ではそれなりに話しているんだけど。早く俺のこと、思い出してくれないかな。
いつもの教室で、事件は起こった。それは休み時間の事だった。
「ちょっと、邪魔」
尖った声と同時に、バタンと机が倒れる音がする。音がした方を見ると、井原椿の机が倒れ、井原本人も倒れこんでいる。どうやら、藤川瑠璃が机の前に立っていた井原椿を背後から突き飛ばしたようだ。倒れた井原の机から、ノートや教科書が勢いよく飛び出していた。
「あんたさ、目障りなんだけど。どいてよ」
藤川瑠璃は冷ややかな視線を井原椿に向けていた。倒れこんだ井原は膝をついたまま俯いている。
助けてやらないと。そう思い、席を立つ。しかし、俺よりも素早く動く影があった。
「椿姫は悪くないよ。大丈夫? 怪我はない? 俺が手当てをしてあげる。一緒に保健室へ行こう」
同じクラスの豊永が机を起こしながら井原椿の腕を取ろうとしていた。こいつは転校初日から井原の周りをうろついている。何がしたいのか、みえみえだな。井原が転入する前は藤川を『るりっち』と呼んで、いつもくっついていたのに。推しのアイドルもしょっちゅう変わっているし、薄情な奴だ。だいたい、何だよ『椿姫』って。この前音楽の授業でやったオペラかよ。
「ちょっと、豊永君どいて。藤川さん、今わざとぶつかったでしょ。私、見てた」
今度は豊永を押しのけて、斎藤千鶴が藤川の前に立つ。柔道の有段者である斎藤に睨まれた豊永は、黙り込んでコソコソと教室の後ろに下がった。
藤川と斎藤は睨みあっていた。蛇とマングース、いやライオンと熊か。井原は顔を上げて、心配そうに二人の顔を見比べている。普段から藤川をよく思っていない斎藤は、ここぞとばかりに藤川を責めはじめた。
「藤川さん、ほんと性格悪いよね。ねぇ、みんなもそう思うでしょ」
斎藤は周囲に同意を求める。いつの間にか、藤川を囲むように数人の女子が集まっていた。
「藤川さんって、ちょっとひどすぎ」
「井原さん、かわいそう」
「怪我したら責任とれるの?」
藤川は男子に人気があったが、どうやら女子の中には彼女を良く思わない人間もいたようだ。彼女達は、斎藤を中心に口々に藤川を責めはじめた。
「あんたたち何なの? ウザいんだけど」
眉間に皺を寄せ、顔をゆがめた藤川が大声をあげた。あいつ、あんな怖い顔するんだ。いつもの快活な姿はそこにはない。藤川も露骨に井原へ嫌がらせをしなくてもいいのにな。クラス中から冷ややかな視線を浴びた藤川瑠璃は、取り囲んでいる女子を押しのけて、口をへの字に曲げたまま教室から出て行った。
「井原さん、大丈夫?」
クラス委員の村上有紗が、床に散らばった教科書を集めながら井原に声をかけている。村上が手を差し伸べると、井原は何でもないというふうに微笑んで村上の手を取った。
「村上さん、ありがとう。でも私も悪かったよね。後で藤川さんに謝らないと」
教科書を机の中にしまいながら井原は溜息をついた。
「井原さんは何も悪くないと思うけれど……でも、そう思うなら私も一緒に行ってあげる」
村上がそう言った時、斎藤と懲りない豊永が二人の間に入った。
「そんなことしなくていいって。るりっちは困った子なんだよ」
「藤川さんは椿ちゃんがかわいいから嫉妬しているだけ。こんな嫌がらせに負けちゃだめだよ。もしも何かあったら私に話して。今みたいにガツンと言ってやるから」
「でも、藤川さんの邪魔になったのは事実なんだし」
井原椿……こんな時でも自分が悪いだなんて謙虚だな。クラスメイトに囲まれて柔らかく微笑んでいる井原椿を見て、俺は更姫の姿を思い出さずにはいられなかった。
更姫にそっくりな井原椿が現れたことで、以前にもまして夢を見るようになった。ひどいときは一晩に何場面も見る。目覚めてはまた眠りを繰り返すこともある。起きているのか寝ているのか……正直、眠る方が疲れる。困ったことに夢ばかり見るので昼間も眠い。時々体調が悪いと嘘をつき、保健室で寝ることも多くなった。夢の内容は似たようなことばかりだ。この状態がいつまで続くのだろうか。それは俺にも分からなかった。
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