第1話 9月1日(1)
「
鼓膜に響く母親の声で目を覚ました。目覚まし時計をセットしていたはずだが、いつの間にか止めていたらしい。のっそりと布団から抜け出して、身支度を整える。長いようで短かった夏休みも昨日で終わりだ。
部屋のドアを開けると、胃にもたれる油の匂いが二階に漂っている。ゆっくりと一階に下り、ダイニングへ入ると、母親から『早くご飯を食べなさい』と急かされた。
「俺、朝飯いらない。シゲと朝練するから」
時計を見るともう7時だ。シゲとの約束の時間は過ぎている。
小学六年生の妹、
「お兄ちゃん、もしかしてダイエットしてる? 女子にもてたいの? 無理無理、諦めたほうが良いよ。痩せたらイケメンだろうなぁって思う人なら別だけど、お兄ちゃんは痩せてもお兄ちゃんだから」
「うるさい。黙れ。だいたい俺は太っていない。BMIは25未満だ」
妹は最近、ますます口やかましくなってきた。まるで家に母親が二人いるみたいだ。
「二人とも朝からケンカしない。ほら、パンだけでも食べなさい」
母はトーストした食パンを皿に載せ、俺に差しだす。
「だから、いらないよ」
やんわりと押し返した。昔はモデル体型だったと豪語する母の姿は、今はその面影もなく、恰幅の良い肝っ玉母ちゃんにしか見えない。
「そんなことより……母さん、また太ったんじゃない? 少しはダイエットしたら」
「まったくあんたって子は、いつも一言多いわね。だいたいね、こうやってお母さんが一生懸命作ったものを残すから、いけないんでしょ」
母は怒りと言うよりは、呆れるに近い声を出し、引っ込めた食パンをちぎって口に入れた。だから、それ食べるのかよ。
ダイニングテーブルの上を見れば、食パン、から揚げ、卵焼き、ウインナー、スライスしたトマトがそれぞれ皿に盛られて鎮座している。何故かその隣におにぎりがある。味噌汁もある。まるでモーニングのバイキングだ。味噌汁などは昨夜の残りだと思うが、それにしても朝からこれだけ作る母はすごい。ただ、起きてすぐ、これだけの量を食べらるわけがない。
「毎朝毎朝、量が多すぎだろ。菜摘も全部食ってたら、母さんみたいに太るぞ」
食べかけの食パンとから揚げ、トマトを目の前に並べ、おにぎりを頬張っている妹の様子を見て顔を顰めた。
「私は成長期だから大丈夫なの」もぐもぐと咀嚼しながら口答えしてくる。
「はいはい、そうですか」
気だるく返事をして、ガラスのコップに、オレンジジュースを注ぎ一気に飲み干した。ダイニングの上に置いてある弁当箱を手に取り、スポーツバッグに放り込む。
「あ、ちょっと、謙。あんた本当に何も食べない気? 学校で倒れても知らないわよ」
母親の小言を背中に受けつつ、ダイニングに隣接する和室に向かった。四畳ほどの和室つの隅には仏壇がある。
「行ってきます」
仏壇には位牌が一つと笑っている父親の写真がある。それらに軽く手を合わせてから玄関に向かい、上がり框に腰かけ靴紐を結んだ。母親はまだ何か言っているが、聞こえないふりをして玄関のドアを開けた。
夏の間、部活をしている俺たちに照り付け、ここぞとばかり苛め抜いていた太陽は幾分か日差しが和らいでいた。空は高くなり、朝の空気は澄みきって心地いい。
通っている高校までは徒歩で20分。某県にある公立高校、普通科。全校生徒は500名ほどで、メンバーも同じ中学からの顔なじみが多い。地方の公立高校は偏差値が高いとか、特殊な学科がある場合を除いて、近年は募集する定員よりも受験者数の方が少ない。うちの高校もそうだ。中学の時、勉強ができる奴たちは、県内外の有名私立を受験するか、公立でもトップ5の偏差値を誇る高校を受験する。しかし、俺たちその他大勢は受験勉強をそこそこ頑張って、近所の高校に進学するのだ。この高校は俺にとって、それなりに勉強して入学できたありがたい存在だった。
そして、近所にはもう一人、俺と同じ高校に通う奴がいる。
家から少し離れたコンビニの前に着くと、奴は微動だにせず、仏頂面で一点を見つめていた。ガタイが良いのでちょっと怖い。毎朝、俺たちの待ち合わせ場所であるコンビニ前にいるこの男、名前は
シゲと俺は幼稚園からの幼馴染。185㎝を超える長身で、端正な顔立ち顔をしている。しかし、凛々しい眉と鋭い目つきのせいか、初対面の人は近寄りがたいようだ。おまけにこいつには愛想というものがない。いつも無口で、女子と談笑している姿なんて一度も見たことがない。
「おはよう。シゲ」
「……遅いぞ」
「悪い。二度寝しちゃってさ。なんか変な夢見たんだよ。どんな夢だったかって聞かれると覚えていないけどさ、っておい、待てよ」
俺の弁解を聞かず、シゲはずんずん先を歩いていた。先に行くなら、どうして待っていたんだよと突っ込みを入れたくなるが、それがシゲという男だ。
俺とシゲはサッカー部。おまけにクラスも同じ。かれこれ十数年続く腐れ縁だが、さすがに高校卒業後の進路はバラバラになるだろう。だとすれば、この腐れ縁もあと一年半か。
サッカー部に所属している俺たちは、気が向いた時にだけ朝練をしている。気が向いた時だけと言うのは、我がサッカー部がどんな大会でも一回戦負け、良くて一勝いう、どこにでもある弱小チームだから。強豪チームのような有名指導者もいない。可愛いマネージャーもいない。夏の総体でも早々に敗退したので、三年生は総体後からは部活に顔を出したり出さなかったりだ。三年生は今月末で引退し、あとは俺たち二年生が主体になって活動することになっている。
学校に着くと、運動場の脇にある部室へと向かった。ロッカーに鞄を置き、ユニフォームに着替える。サッカー部の部員は全学年で30人程度。全校生徒からの割合としてはまぁまぁな数だ。ただ、中には名前だけの幽霊部員も多数いる。俺とシゲは他の部員数名とだらだらと喋りながら、ゆるい朝練を終えた。
「おっはよう。江口君、上田君」
制服に着替え、廊下を歩いていると、背後から快活な声が降ってきた。声の主は同じクラスの
「おはよう。藤川はいつも元気だな」
返事をしたが、藤川の姿はもうそこにはなかった。入学当時、かわいい子がいると噂になっていたのが藤川だ。彼女とは中学が違った。どうやら、遠方に住んでいて、毎朝バス通学をしているらしい。小さな顔に大きな目、ショートカットで少し茶色の髪をふわふわさせている藤川は、高校デビューした俺たちの心を一瞬にして掴んだ。そのくらい、愛らしいルックスだ。そして、彼女はとにかく明るかった。おまけに目立つのが大好きで、いつもクラスの中心にいた。ただ、言い換えれば、目立たない裏方の仕事は何一つやらなかった。それは、クラスの実情に疎い俺でも気がついている。
男子たちは、面倒なことを一切やらない藤川に何も言わなかった。それどころか、彼女に頼られると何でも引き受けてしまう。
そんなわけで、藤川は女子受けが悪かった。俺は一部の女子が陰で藤川の罵詈雑言を言い合っている姿を何度か耳にした。女という者は恐ろしい。いや、男でも同じか。
教室に入ると、もうほとんどの生徒が来ていた。
「委員長、課題写させて。お願い」
藤川瑠璃の明るい声が聞こえる。
「るりっち、俺の課題を貸してあげるよ」
藤川を『るりっち』と呼んでいるのは、お調子者の
「いらない。きよくんの課題っていつも間違えているし。ねぇ、委員長。お願い」
纏わりつく豊永を振り払いながら、藤川は別の女子に話しかけていた。
「藤川さん。たまにはやってきたらどうかな。課題は自分のためにあるんだよ」
委員長と呼ばれた彼女はため息をつきながら、机からノートを出して藤川へ渡していた。
「だって、こんな勉強、私には何の役にも立たないもん。委員長サンキューね。写したらすぐ返すから」
藤川は笑顔でノートを受け取ると、自分の席に戻って行った。
委員長と呼ばれた彼女の名前は
授業中、周囲がどんなに騒がしくても、どんなにつまらない内容でも、彼女だけは真剣に先生の話を聞いている。自習時間、周囲がふざけ始めても彼女は真剣に勉強している。そんな村上は先日、日本史の授業中に茶の湯について熱く語り出し、クラス中をドン引きさせたことがあった。千利休だとか古田織部だとか聞いたことはあるが、よく分からないほとんどの生徒はポカンとした顔で彼女を見つめていた。世の中には『レキジョ』と呼ばれる歴史好きの女子がいるようだから、村上もその部類なんだろう。まぁ、悪い奴ではないんだけど、イマイチ地味で華がないんだよな。
「二学期最初のHR始めるぞ。早く席につけよ」
教室のドアが開き担任が入って来た。担任の名前は
「それにしても夜はまだまだ暑いよなぁ。熱帯夜でも寝たいやなぁ」
担任の寒いダジャレのせいでざわついていた教室が静まり返えった。熱帯夜と寝たいをかけているのか? 全く面白くない。今どき小学生でも言わないぞ。
「お、藤川。ちょっと前髪が長いだろ。その前髪じゃ前が見えんぞ」
前髪と前が見えん? イマイチすぎるだろ。
「はぁ? 先生、意味わかんない」
小馬鹿にしたように藤川瑠璃が鼻で笑ったが、前田先生は特に気にも留めていない。これ以上くだらないダジャレを聞くのも嫌なので、俺たちは苦笑いを浮かべながらのろのろと席に着いた。
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