第2話 9月1日(2)
二学期の初日だというのに、始業式が終わるときっちりと授業が詰め込まれていた。何だよ、今日くらい早く帰りてぇよ。今の授業は古文。俺の苦手科目ベスト3に入る。
それはいつもと変わらない授業だった。
「あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出たる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか……これは『
どうして日本語はこうも難しいのだろうか。俺は日本人だけど国語は苦手だ。古文の授業なんてさっぱりわからない。
しかし、古文担当の結城先生はなかなかの美人だ。肩甲骨までに伸びた長い栗色の髪は、たいてい頭の高い位置でまとめている。先生が黒板に向かうと大抵の男子は黒板の文字より、先生の白いうなじを注視する。先生はスタイルもいい。スタイルがいいと言っても、決して露出の多い服装をしているわけではない。スカートはいつも膝丈、トップスはだいたい白とか淡い色のブラウス。だから先生の授業はさっぱり訳が分からなくても、男子は必死に先生を見ている。
授業に集中しているのではない。先生に集中しているのだ。男子たちはたいてい結城先生を見て、あれやこれやと妄想を膨らませている。
そんな結城先生の授業だが、午後からは先生の声が子守唄になる。
「教科書に載っている箇所を品詞分解してみましょう。まず、この文頭にある『あづま路』は名詞です。次に……」
先生のやさしい声は、もう子守歌にしか聞こえない。太陽の光が、俺の席に向かって優しく降り注いでいる。今日は秋らしい天気だ。雲も高く、澄み切った空。心地よい風。そして、とうとう微睡んでしまった時。
「……姫」
夢うつつの中、声が聞こえた。誰の声だろう。俺の目の前に女がいる。夢なので姿がぼんやりとしか見えない。けれど俺は彼女を知っている。知っているけれど思い出せない。
「かねなり……私は……」
女が俺を呼んでいる。だが、それは俺の名前じゃない。それなのに、なぜだか返事をしなければと思った。
「かねなり」
姫が俺を呼んでいる。えっと、姫って誰だ?
「江口君、江口君」
江口君か。それは俺の事だな。ええと、俺は何をしていたんだっけ。確か授業中で……授業中? はっと我に返り、目を覚ました。
「江口君、聞いてるの?」
顔を上げ、声の方を見る。声の主は、結城先生だった。教壇の上からじっと俺を見ている。先生に見つめられると居心地が悪い。他の男どもが向けてくる羨ましそうな視線も痛い。
「寝ていたのバレバレよ。もうちょっと遠慮というものはないのかしら」
「あ、はい。すみません」
それだけ言うのが精いっぱいだった。クラス中から失笑が漏れ、俺は頭をかいた。
放課後、俺とシゲは部活のユニフォームに着替えてグラウンドに出た。
「おい、お前たち」
部室を出たところで誰かに呼ばれて振り向くと、丸顔でぽっちゃり体型、三年生の
「これ食えよ、コンビニの新製品。美味いぞぉ」
先輩の手には茶色の箱がある。その箱を俺たちの方に差しだした。中を覗けばチョコが並んでいた。隙間があるので、既に先輩はいくつか食べたのか。正木先輩は甘いものが好きで、こうやって会うたびにおやつをくれる。部活に顔を出さない三年生が多い中、先輩は何かと俺たちの事を気にかけてくれる、ありがたい存在だ。しかし先輩、ますます太ったんじゃないか。
「正木先輩、また学校に食いもんを持ってきてるんですか? 俺たち、今から走るんでいらない……」
「まぁ、遠慮するなって。期間限定。ココアパウダーつきは今しか食えないんだぞ」
正木先輩は俺たちの前にグイっと箱を突き出した。
「じゃあ、いただきます」
俺とシゲは一粒づつチョコを手にして口に放り込んだ。口に広がる甘さとほろ苦さがなんとも言えず、結構旨い。しかし、一粒がでかい。飲みこむまでに少し時間を要した。隣にいる、シゲは甘いものが苦手なので、眉間に皺を寄せながら咀嚼している。
「まぁ、これらからは二年生が主体だからな。頑張れよ。ほれ、もう一つ食うか」
先輩はニコニコとチョコの箱を差しだした。シゲが俺をつつく。やんわりと断れってことだよな。お前、自分で言えよ。
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です。それより先輩、練習には出ないんですか」
「あー、それ言う? 今更練習しても、総体も終わったしなぁ。今日は帰るわ。お前達の様子を見たかっただけだし」
「俺たちの?」
「そう、可愛い後輩の」
先輩はにやりと笑った。この人、こんなキャラだったかな。まぁ、親しみやすい良い人ではあるんだけど。
俺たちは、じゃあなと言って手を振る先輩に礼を言うと、真剣にノックをしている野球部員を横目にランニングを始めた。しかし、チョコを食べた直後に走るってどうなんだ? 異に入ったばかりのチョコがリバースしそうだ。呼吸をするたびに、息がカカオと混ざり合う。ランニングを終えると一目散に手洗い場に向かい、蛇口を勢いよく捻って水を飲んだ。
サッカー部での俺のポジションは一応MF。一応というのは俺たちのチームは全員で攻撃と守備を行っているからだ。トータルフットボールと言えば聞こえはいいが、あまりうまくない俺たちが華麗なパス回しができるわけでもなく、練習試合の時、気が付けばみんながボールに群がっているという滑稽な場面が何度も起きていた。
本来ならば3―5―2という3バック2トップの布陣のはずが、その形式が保たれるのは試合開始後の数分だけであり、もう誰がFWで、誰がDFなのか分からないのがいつもの俺達だった。
担任であり、サッカー部の顧問である前田先生も、サッカーにはあまり詳しくなく『なんとなくかっこいいから』という理由だけで、3―5―2というシステムにしただけだ。
そんな彼だから、試合開始数分後には勝手にボールに群がり、団子状になる俺たちを修正をする術を持ち合わせていなかった。
その時のシゲはというと、奴はGKなので、蟻のようにボールに群がる俺たちの様子を、いつも呆れた顔で眺めていた。
「お前、あずさちゃんの授業中に堂々と寝ていたらしいなぁ」
ランニングを終えて一休みをしていると、嬉しそうな声と同時に、背後からサッカーボールをぶつけられた。背中に軽い痛みを覚え、振り向くとヘラヘラと笑っている奴がいた。みっちゃんだ。彼の言ったあずさちゃんとは古文の結城先生の名前だ。
「なんだよ、みっちゃん。痛いだろ。いきなりボールぶつけんなよ」
みっちゃんは同い年で隣のクラス。名前は
「お前、わざとだろ。そうやって、あずさちゃんの気を引こうとして、寝たふりなんかしてさ。みえみえなんだよ」
みっちゃんは嬉しそうに俺の脇腹を小突いた。
「違うって。まぁ、結城先生に見つめられるのも悪くはないけどな」
結城先生に起こされる前、誰かが俺を呼んでいたような気がした。俺は何かを思い出そうとしたが、結局何も思い出せず考えるのをやめた。朝目覚めた時に、さっきまで面白い夢を見ていたと思っても、しばらくするとどんな夢だったかさっぱり忘れている、そんな気持ちだった。
「やっぱりお前、確信犯か。俺も今度やろうかなぁ」
「だから違うって。ホントに睡魔に襲われたんだって」
「またまたぁ。自分だけおいしいコトするなよ」
「おい、いつまで遊んでいるんだ。早く練習するぞ」
みっちゃんと冗談を言い合っていたら、ぬっと黒い影が現れてシゲが俺の肩を叩いた。
「わぁ、上田。急に現れるとびっくりするだろうが」
みっちゃんがシゲに詰め寄る。二人が並ぶと身長は少しだけシゲの方が高い。けれども対格差が違う。がっしりとした筋肉質のシゲは、目の前で騒いでいる、ひょろひょろのみっちゃんに全く動じなかった。この二人、妖怪の塗り壁と一反木綿みたいだな。
「先に行っているぞ」
シゲはそれだけ言うと、俺達に背を向けた。
「なぁ、江口。上田って笑うのか?」
シゲの背中を見つめながらみっちゃんが聞いた。
「ああ、年に数回な」肩を竦めて答える。
「なんだよそれ。拝めたらご利益があるってやつか。確かにあいつ仏像みたいだ」
けらけらと腹を抱えて、みっちゃんが笑った。
その夜、俺はおかしな夢を見た。古文の授業中に見た夢の中で俺を呼んだ人物が、夢に出て来たのだ。女の名前は『さらひめ』だと、どこからか声が聞こえる。ぼんやりとした人物の輪郭がはっきりした時、彼女の頭上に『更姫』と書かれていた。これで
更姫は息を呑むような美人だった。長い黒髪に、透き通った白い肌、黒目がちの目を縁取る長い睫毛。はにかむように微笑む姿に、これが夢であることを忘れそうになった。
そう、俺は今、夢の中にいると理解している。夢の中で『ああこれは夢だな』なんて思った事が今まであっただろうか。
夢には俺も登場した。しかし、時代が古い。外見はどう見ても俺だ。毎日鏡で見る顔、取り立てて褒めるところもなければ、貶すところもない顔。俺は髷を結い、武士のようないで立ちをしている。夢の中で俺は
夢に出て来る俺、兼成と更姫は今の年齢と同じ位16、7歳。夢の中では途切れるフィルムのように時々幼い頃の様子も現れた。二人は身分の違う幼馴染のようだ。不思議なことに、朝目覚めても夢の内容を克明に覚えていた。
それにしても、変な夢だった。更姫、美人だったな。目が覚めても、夢の内容を覚えているなんて珍しい。夢に出てきた人物の顔を覚えていることも初めての経験だった。
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