第36話 母の車の中で 3
「お前、10月06日にかあさんを置いていったな。2階から下りたら、かあさんが玄関にボケーッと座っていた。紙袋に、服とパジャマが入っていた。使いかけの紙おむつがあって、おむつをしているのかとショックだった。
かあさんを立たせて『休むか?』と、聞くと『うん』と、言う。パジャマに着替えさせた。腕に痣があったから『どうした?』と聞くと『転んだ』と、言う。ここ」
祖父が右腕の内側を指した。
「こんなとこ転んで痣ができるか? 黄色い痣もあった」
「よく喋るわねえ」母が、嫌そうに祖父を見た。
「黙って聞け。ものすごい台風が12日にきて奈津から電話があった。かあさんがウチの家に帰ってきたことを話したら『良子ちゃんが喜ぶ』と、言っていた。
14日に良子が2枚マスクを着けて来た。ワシに『お元気ですか?』と、声をかけて外で服をパタパタした後に必死で手を洗っていた。新しいマスクを着けて、刺身とちらし寿司、惣菜を冷蔵庫に入れた。
かあさんの部屋をノックして、おばあちゃんと声をかけて入った。
かあさんが『良子ちゃんだ』と、泣きそうな顔をした。『良子ちゃん、ここが痛い』と、太ももの痣を見せた。幼い子のようだった。
『おじいちゃん、湿布薬ある?』
良子が聞いたのでウチにあるのを見せた。少ししかなかった。
『おばあちゃん、すぐ戻るね。おじいちゃん、自転車貸して』とマスクを2枚着けて出て行った。
1時間位で帰ってきて、また服をパタパタし、手を洗っていた。良子が、かあさんを風呂に入れた後に湿布薬を貼ったら『良子ちゃん、スーッとする』と、かあさんがニコニコしていた。
良子が『これに変えて』と、ワシに見せたのは、パッケージに”下着のような感覚”と表示してある紙おむつだった。
『今日は泊まれないけど土曜日に来るね』と、夕飯の支度をして帰った。
次の土曜日に、かあさんのベッドの横に布団を敷いて、かあさんのトイレを手伝ってくれた。
その次の土曜日には、花柄の危なくない包丁というのを買ってきた。ふたりで夕食を作った。キュウリが転がったと、ふたりで笑っていた。
土曜日毎に来てくれて、かあさんが粗相しても『大丈夫よ』と、シャワーでさっと流し着替えさせた。床もささーっと拭いた。
かあさんは、どんどん元気になって12月にはおむつがとれた。
良子が柔らかいビーフを買ってきたら、かあさんは『最近ポークばかりだったから、よけいに美味しい』と、冗談を言うようになった。
奈津が持ってきたCDプレーヤーがなくなったので、新しいのを良子が買ってきてくれた。
かあさんの好きなワーグナーの曲、藤山一郎やスクリーンミュージックの曲のCDも買ってきた。」
「良子ちゃんって凄いな」と、兄が言った。
「CDプレーヤーなんて今、安いわよ」と、母が苦々しげに言った。
「そう言う事ではないだろう。黒のサイコロ型プレーヤーはお前のアパートか? かあさんは、お前が縁側に来るとすーっといなくなる。これは言うまいと思っていたが、かあさんに何かしたな。何やった。叩いたか。蹴ったのか」
母が、スピードを上げて前の車に近づいた。
「お母さん、近いよ」このような運転を、母はしない人だ。
「危ない。殺されるところだった」「降ろして下さい。ここで降ります」
祖父と兄とが同時に叫んだ。
「あんた、家に来ないのか」
「すみません、おじいちゃん」
「秀くん、バス停まで遠いよ」
母が、早口だった。
「大丈夫です。すみません。おじいちゃん、お元気で」
兄が車から降りた。うなだれていた。
祖父が、静かになった。
家に着くと、母は、祖父のバッグ、位牌、遺影、骨壷を無言で運んだ。
母は、祖父に車から降りるように言って、祖父が家に入るとすぐに出てきた。
「いいの?」
「うん、明日来るって言ったから。手続きが色々あるからね」
「お母さんが、手伝ってあげるの」
「もちろん、じいさんの遺産の半分は貰わなきゃ」
「どの位あるの?」
「金庫に、現金500万円と家の権利書が入っている。不動産は変動幅があるけど約4000万円。預貯金2000万円、株が2500万円」
「葬儀社の人と何を話していたの?」
「葉書のことと、お坊さんに渡すのは20万って言ったけど違うの。それがバレた」
「法名の横の20万円は?」
「じいさんがいない時、自転車がなかったら家に上がっている。その時に貰った」
「おばあちゃんから?」
「もういいじゃない。疲れたわね。奈津のせいよ」
私も、とても疲れた。家に帰ると、兄がいなかった。
「九州に帰ったよ」
父が、言った。
久し振りに、父の顔を見た。
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