カスタード
森川めだか
カスタード
カスタード
森川 めだか
こりゃあんたらに分からない話だろう。
骨と皮だけになった行き倒れの少年。冷たい汗が全身に。
其処に長身の男性が屈み込んだ。
「どうした。元気がないぞ」
「お水・・」
ペットボトル。
哺乳ビンのように咥えたまま寝てしまった。
イグナシオはプラトーンに肩車されて拾われた。
その後、イグナシオはプラトーンに育てられた。
プラトーンは山の麓に蟄居していた。
隠遁して修道生活をしていたのだった。
大理石のプラトーンの屋敷及び修道院は所々、剥離していた。
イグナシオには居室として納屋が与えられた。
修道着はプラトーンのシャツ。ストライプ。
悪趣味。
ブロードの生地には虫喰いの跡が。
下はボタンフライのショーツだから穿いてないみたいだ。
足が大きくなっても、あてがってくれた編み上げのショートブーツは寝てる間に小人たちがクツを直しに来てくれたように寸法が合っている。
シャツの肩幅も詰めてあった。
プラトーンは菜食主義者だった。イグナシオも自然にそうなった。
菜園で全てが自給自足だった。
「料理は考え方の基礎である」プラトーンにそう言われて、イグナシオは不承不承料理番をするようになった。
「材料を揃えて、具にして、献立を作る」
沐浴の時は洗剤とスポンジで体を洗う。体中がヒリヒリした。
ポンプで井戸から水を汲み上げる。
汗だくになる。
お古、お下がりが私服だった。
こんな上等な暮らししたことなかった。
幸せだ。
プラトーンが何でこういう時代遅れの生活をしているのかは知らない。
嫌われ者なのだろうか。
痩せた土地にポプラやオリーブが植えられている。
脚立に乗って葉の手入れをする。
庭園の灌木の間を夢遊病者のように逍遥するのがプラトーンの習慣だった。
男色の気があるのではと疑ったが、プラトーンが朝の見回りに行った時にこっそり屋敷に行くと、Hな本を発見したので氷解した。
アーチ状に広がった奥手には鹿の剥製があった。
プラトーンは禁欲と節制を重んじていた。
生活の全ては節約だったし、事実、赤貧洗うがごとしだった。
スカンピンだった。
カソリック。
プラトーンが作った架空の宗教だ。
プラトーンはそれに耽溺していた。
一神教の敬虔な盲信者であった。
ストイックな教義はその都度違う。
たまにイグナシオにラテンで説教を聞かせることもあった。
「起立」
そんな時はイグナシオは細い木炭の束とパンのちぎれを用意する。
木炭はチョーク代わりに使われ、パンで消す。
イグナシオは感化されなかった。
ABCDまでしか書けなかった。
「ツヴァイ。眠りなさい」
「ツヴァイ」は祈りの言葉だ。
リンリンと吊り鐘が鳴らされると食事の時間だ。
イグナシオは自生したコーヒー豆を挽く。
花はジャスミンに似た香りがする。
ドリッパーをサーバーにセットして、薬鑵からお湯を注ぐ。
挽き立てだとコーヒー豆が膨らむ。
蒸らす。
「人間は豆のようなものだ」
モグモグしながら肯いた。
「浮浪児を拾ったのは初めてだな」
それ以外は白いダンゴ虫で遊んでいた。
ペンペン草にチキチキバッタ。
明るい空き地。
ツクツクボウシ。
尾根の光。
「ツヴァイ。血となり肉となれ」
そんなある日、プラトーンが鶏のささみとガナッシュを買ってきた。
「何か特別な事でもあったんですか?」
「今日はマリア様の生まれた日だ」
プラトーンはロザリオを握りしめた。
ガナッシュは格別だった。
「スフィンクスの謎かけを知ってるかな?」
「いいえ」
「生まれた時は四本足、二本足に立って、死ぬ時は三本足」
「人間でしょ」
「そうとも限らんさ」
イグナシオはその他に、色んな言葉をプラトーンに教えてもらった。
曰く、「思い煩うな」
曰く、「神の前では平等だ。だが、公平ではない」
曰く、「心が貧しい者こそ幸いである」
曰く、「起こることはしてはならない」
話を聞き終わったらいつも、プラトーンは「よしよし」をしてくれた。
「聡い子だ」
「まだ子供?」
夜、イグナシオは納屋の窓を開け、痩せた月を見ながら思っていた。
イグナシオは外出をしたことが無かった。
神様はいるけど、僕にはいなかったな。
自分の努力なのか、神の御業なのか。
いるのかいないのかじゃない。
いてくれるのかだ。
祈りになった人と生き残り。
窓の外に恋をした少年。
自分のロザリオを持って、イグナシオは告解をしたいと申し出た。
「よかろう。悔い改めよ」
懺悔室に入った。
「どんなならず者かな?」カーテンのひだからプラトーンの笑い声が聞こえた。
イグナシオは腹の底から息を吐いた。
「私は奴隷でした」
聞き耳を立てているプラトーンは黙っていた。
どもって、イグナシオは独白を続けた。
「弟たちがいたのです。私が長兄で、次兄はセ、セガウレとかいいました。末はヨハネです」
イグナシオは指で手繰って、マリアのメダイを指で揉んだ。
「奴隷に売りに出されました。三人とも。私が五つ、セガウレが三つ、ヨハネはまだ生まれたばかりの頃でありました」
「ふむ」
「私はこれ以上傅くのが嫌で、逃げ出したのです。遁走しました。自分の歳も分かりません。これは罪でしょうか?」
「一概には言えないが、・・続けなさい」
向こうでもロザリオを手繰っているのだろう、ジャラジャラと音がした。
「はむかったら、両足に牛を縛り付けて脚を裂くと言うのです。見つかっても・・、報復で」イグナシオの目から涙がポトリと落ちた。
「何を懼れる」プラトーンの声も震えていた。
「一般には知られていないが死海文書というものがある。壷から発見された。思うつぼだ」イグナシオを笑わせたかったのだろう。
イグナシオは顔を上げた。
「巡礼に出たいのです」
「タビ?」
「茨の道を行きたいのです」
「わざと艱難辛苦の道を歩くと言うのか」
「同胞(はらから)ですから・・、いつか・・」
「本当の息子のように思っていたんだけどな・・」
「それは・・」言いよどむ。
「もう少し考えなさい」
「自由を満喫できました」
プラトーンはもういなかった。
石膏像の白い目。
壁に掛かった絵も冷たい。
イグナシオは気持ち足を引きずって歩いた。
一年が過ぎた。
ショートブーツの成長も止まった。
洗いざらしのシャツは気持ち良かった。
ショーツも長い脚を見せていた。
イグナシオは粉ふき芋を作っていた。
日光浴をしながら作れるなんて夢みたいだった。
リンリンと吊り鐘が鳴った。
いつもより少し長かった。
駆け付けるとプラトーンがもう席に着いていた。
「コーヒー淹れますから」
「もういい」
「は?」
「出て行きなさい」
脇から鹿の革でできたマントを出した。やわらかなスエードだった。
悪趣味だった。
イグナシオは涙が止まらなかった。
「これを着て行きなさい」
「もう分かりません」
イグナシオはゴムの木の横に立った。
振り向く。
プラトーンが立っていた。
「神を試すな、イグナシオ!」
「確かめる」
もう戦うのは嫌だ。
戦意喪失した。
イグナシオは一歩足を踏み出した。
神よ。
お願いだから。
「ツヴァイ」手を組んだ。
いつも身近に神の目を感じている。
イグナシオは祈りになった。
万時、神の眼差しを受けて。
神と一心同体になった。
神と肉薄した。
タンデムだ。
事あるごとに「ツヴァイ」と唱えた。
行く先々で困っている人を助けた。
いつから「聖イグナシオ」と呼ばれるようになった。
セガウレやヨハネと会う事は無かった。
目にはステンドグラスが蘇る。
自分で毛を刈った。
プラトーンがしてくれたのに。
戦うことに辟易して放棄した彼は無敵だった。
彼のお小遣いはプラトーンが用意してくれたものだった。
あてどもなくイグナシオは歩いた。
手がマメだらけだ。
水を汲み過ぎた。
このマメが治癒した時、僕はどうしてるだろう。
即座にセガウレと分かった。
町の真ん中で、エヘラエヘラ笑いを浮かべて、幌馬車から何やら荷物の積み下ろしをしている。
「セガウレ」
お互いを認め、一瞬、嫌な顔をした。
「もしや・・」
「セガウレ、もういいぞ」主人らしき人が言った。
僕なんて名前で呼んでもらった事なんて無かったのに。
こっちこい、とセガウレが目で示した。
建物の陰でセガウレは紙巻きたばこを用意していた。
「イグナシオか?」
イグナシオが肯くと、セガウレは何度か肯いた。
煙草に火をつけた。
「おったまげたな。噂は聞いてるよ。聖イグナシオってな。お前のことだったとは・・」
セガウレは横を向いて煙を吐き出した。
「死んでるとばかり・・」口を濁した。
「仕立ててもらったんだぜ」セガウレは得意げに回ってみせた。
オーダーメードの若草色のスーツを着ていた。
「俺はもう奴隷じゃない。商人だ」
「すごいな」イグナシオは素直に驚いた。
「ヨハネも探してるんだ」
「ヨハネをね・・」セガウレは口ごもって俯いた。
「あいつはあいつで、よろしくやってるさ」
「一緒に来ないかい?」
煙草を吸い終わるのを待った。
「いいぜ」とだけ言った。
「丁度、ダイナマイト商に鞍替えしたいと思っていた時期だ」
「ダイナマイト」
初めて聞く名前だった。
「今は何を売ってるの」
「画商さ」セガウレは一枚の絵を見せた。
腐った雑巾みたいな絵だった。
「ダイナマイトって何するの?」
「ドカーンさ」セガウレは手を広げてみせた。
「飛ぶように売れる。掃いて捨てるほど」
セガウレはイグナシオを値踏みした。
「みすぼらしい恰好しやがって」セガウレはイグナシオのマントを手でつまんだ。
「暇乞いをしなくちゃな」
セガウレは大きな屋敷に我物顔で入っていった。
「ご苦労さん」
「薄給でこき使われるよりかはマシだよ。商人はコネだよ。人脈だよ」
セガウレは打算を続けていた。
「ツヴァイ」イグナシオはセガウレと会えた事を感謝した。
セガウレが紹介するヨハネの居所。
なぜ知ってるのか知らない。
歓待とは言いがたかった。
オールドスクール風にまとめたヨハネは、すっかり青年になって、セガウレの説明を面倒臭そうに聞いていた。
ヨハネのしているリストバンド一つでイグナシオの着ている服一式が買えるだろう。
「マック、寄るか?」
「マクド?」
片やイグナシオはマクドナルドの存在すら知らない。
「無駄遣い」
「律儀な奴だぜ」へへ、とセガウレが笑った。
「水とスマイルでも頼めばあ」明らかにバカにしている調子でヨハネが言った。
イグナシオは屈伸した。
立ち働いてるのが当たり前の生活とはこの二人はどこか違う。
「生真面目な奴だ」セガウレにまた笑われた。
三人はマクドナルドに入った。
「兄さん達、大きくなったね」席に着くなりヨハネは煙草を取り出した。まだ成年にはなってないはずだが。
「イグナシオは縦に、セガウレは横に」ヨハネとセガウレが派手に笑い合う。
イグナシオは顔が真っ赤になった。
どこかで会っていたのだ。
きっと。
僕だけ呼ばれなかったのだ。
「お父さんとお母さんとは会ってるの」おずおずと切り出した。
二人とも失笑した。
「俺たちは間引きされたんだよ!」いきなり、セガウレが大きな声を出した。
そして、また笑った。
イグナシオは周りを気にしたが誰も気にも留めていない。
「感動の対面を望んでたのか?」
「躾がなってないね」ヨハネが言った。自分では優しいつもりらしい。
「おめでたい奴」
三人分のハンバーガーとポテトが来た。
「おい、それ止めてくれないか」
自分でも気付かぬ内に貧乏揺すりをしていた。
「心の裡まで貧しいのか?」セガウレは言葉が荒い。
「お里が知れるぜ」
ヨハネが煙草の手を休めてイグナシオを見ていた。
「こんな美味しい物初めて食べたって顔してる」
「こいつは学者だぞ。インテリだ」セガウレがヨハネを指差した。
「一応、高等教育は・・」さらっと言った。
イグナシオは驚きで体から力が抜けそうになった。
不公平。
「ツヴァイ」
「耳障りな」
「愉快だねえ」
そういえば、二人とも自分より年上に見える。
ヨハネは外を歩く女の子たちにウインクをして見せた。
「色男め」
「色情狂よりかマシか」
何の話か分からない。
気の置けない二人という感じだ。
「イカすね、そのスーツ」
「安物だろ、お前にとっちゃ」
「この前のも良かったけど」
やっぱり。
「じゃ、解散っていうことで」ヨハネはポテトを一、二本つまんだだけだった。
イグナシオはほぞをかんだ。
プラトーンに八つ当たりしたかった。
「どうして僕を探してくれなかったの?」
「察しが悪いな」とセガウレ。
「お前だけ異母兄なんだよ。つまり、母親が違う」
「僕らからしてみれば兄弟だけど兄弟じゃない、みたいな感じ」
「連れ子だって話だ。お笑い種だぜ。イグナシオだけわざと厳しい所に行かせられた。しかも二束三文でだ」
「僕はまた巡礼の旅に出なきゃならない」
「ジュンレイ? 本当にやってる人いるんだ」ヨハネが笑った。
「お前も来ないか?」セガウレが誘った。
「いいよ。モラトリアムだから」
なんなくヨハネもついて来るようになった。
マクドナルドで話が付いた。
誰の子なんだろう。
神の子。
神に腐心していたイグナシオはそう思うようになった。
風のトンネル。
セガウレとヨハネはペチャクチャ喋りながら付いて来る。
見てないで助けてよ。
イグナシオは三角の空を見た。
永遠の旅。
イグナシオは急に意気軒昂になった。
引き返しそうになったほどだ。
「ヨハネ、家には連絡しなくていいの?」
「家?」二人の眉根がピクリと動いた。
その理由は本当は分からなかった。
イグナシオにとって「家」とは、プラトーンの所だからだ。
二人には「家」がないのだ。
「二度と言うな」セガウレが色をなした。
「奇蹟は現実に起こらないことで、現実に起こり得た瞬間にそれは奇蹟ではなくなる。奇蹟的というのはmiracleではなくてdifficultなだけでしょ?」ヨハネは余裕しゃくしゃくだ。見栄っ張りらしい。
鼻にかかる言い方。
「ぶってる」セガウレがヨハネを見た。
三人とも別々の方角を見て歩いた。
「はるばる来たぜ」
「水の都か」
街中を運河が通っている。
「ヨハネ、おとなしいね」イグナシオは一人後ろを歩いているヨハネを見た。
「僕、無心論者だから」
三人とももう金欠になっていた。
「ひもじい」
「売らなきゃ」せいせいした顔でセガウレは振り返った。
いい所もある。
イグナシオはロザリオ、ヨハネはリストバンドをセガウレに預けた。
自分は何を売るつもりだろう。
「碌でなし」金貸しに入る時、セガウレがイグナシオに向かって言った。
「いつか殺すかも知れない」
イグナシオの一人言をヨハネが横で聞いていた。
目にするもの全てが珍しい。
クルーザー。
豪華なヨット。
「俺は金が好きなんだ。純粋にな」金貸しから戻って来たセガウレが言った。
「口座、ジャブジャブだぜ」
身銭を切るつもりはないのか。
他人の旅か。
「この辺に俺の上得意がいるんだ。交通手段でも買わないとな」
大きな家に入った。
人の気配がしない。
「勝手知ったる他人の家」上がり込んで応接間に入ると男が一人いた。
「手短に頼むよ、君」
壁には、カタログでしか見た事がないミレーの落ち穂拾いが掛けられている。
「レプリカだよ」セガウレがそっと教えてくれた。
折衝はセガウレの役目だった。
それにしても寂しい家だな。人の息が感じられない。
貧しいくらいが丁度いい。
いつもプラトーンと暮らしていた頃は人の熱を感じていた。
「はした金」と聞こえてきた。
節倹を心掛けているイグナシオには大枚だった。
「カヌーでも使いたまえ」
恭しくセガウレが頭を下げた。
好かれてはいないようだ。
「お高くとまりやがって」欺瞞と猜疑心の館に、セガウレは軽蔑の目を上げた。
「レプリカって贋作のことでしょ? どうしてそんなの売ったの?」
「箔が付くからな」
「ツヴァイ」
「ここが穴場だぜ」
沼のように淀んだ所にカヌーが何隻か浮かんでいた。
なるべく状態がいいのを見繕って年功序列で乗り込んだ。
「ボンボヤージュ!」
初めて三人で笑った。
競い合うように三人で漕いだので、カヌーはギザギザジグザグ。
街を抜けた。
櫂に泥が付くようになって重くなった。
カフェオレ色の河だ。
三人とも漕ぐのを断念してただ流されるままになった。
マングローブ。
茨が見え始めた。
「このまま海まで行っちゃうんじゃない?」ヨハネが口を開いた。
河に浸かった半小屋に腰の曲がった老婆が水を掬っていた。
老婆はイザリで、歯も抜けていた。髪は真っ白で後ろで結わえていた。
ハチドリが飛んでいる。
「おーい」
「どうやって見つけたんだい」
「たまさか」
「おやおや、血が出てるじゃないか」
ヨハネの膝小僧に茨で作ったらしい擦り傷がある。
「おいで。孫みたいなもんだよ」
壁には曼荼羅が掛けられてあった。
「お婆さんは?」
老婆は節くれだった手で棚から薬草を取り上げている。
「13人目」
使い古した鍋を乱暴に火にかける。
「ククさ。魔女だよ」ククと笑う。
「舐めちゃいけないよ。黴菌が入るからね」
ククはパラパラと鍋に薬草を落とし込んでコトコト煮込み始めた。
「ちょっと顔が良いからって」セガウレが煙草に火をつける。
「クク、亡者め」ククが放言した。
「ナメられたもんだな」
ククはアクセサリーをジャラジャラ付けて、常に放埓らしい笑顔だった。どこか蛇に似ていた。
年の割に豊よかで、時々、ガラスの壷から飴玉のように取り出してピアスを食う。
「チクッとするよ」
味見していた「血止め」の生薬をヨハネの傷に塗った。
「今夜は泊まっていきな」
ククはロールキャベツを作り出した。
ロールキャベツは滋味だった。
ハチドリが受粉を止めない。
手のマメを見たらもう治りかけていた。
「とんだバッタもんだ。カヌーが沈んでる」セガウレが帰って来た。
「ツヴァイ」
おや、という顔をククがした。
「言い当ててあげよう」
ククがイグナシオに顔を近づけた。
「本当にしたいことが魔法になる」
セガウレの体が濡れている。
「雨か」
「もうちょっと行った所にいい所があるよ。恐ろしい眠りに入ってるお姫さまがいる。私が魔法をかけた」ククはククと笑った。
「どっち?」
ククが太い指を差した。
心なしか震えて見えた。
「王と王妃はどこ行った? と言ってごらん」放埓な笑顔は健在だった。
「例え話でしょ?」ヨハネが肩をすくめた。
「よく言うよ」ククはヨハネをアクセサリーを愛でるように見た。
翌朝、目が覚めるとククはもういなくなっていた。
あの足でどうやって行ったのだろう。
逃げたのだろうか。
「くそばばあ」
現金だけがなくなっていた。
これを持っておいでとばかりテーブルの上には黄金と乳香と没薬が置かれていた。
間髪入れずセガウレが黄金を掴み、ヨハネは乳香を、イグナシオは没薬を持った。
「何かのお告げかも知れない」
「思し召しってか」セガウレは早速、黄金がいくらになるか算段を始めた。
「使命と義務は違う」
「お前はまだ奴隷だ」
イグナシオはうろたえた。
「行ってみればわかるさ」我関せずのヨハネが言った。
暗い森を歩く。
朝露が冷たい。
「おや?」イグナシオが声を上げた。
忽然とパレスが姿を現した。
茨に覆われ、茨の花園になっている。
ギーッ、たてつけの悪い木戸を開ける。
中は薄らぼんやりとして、塵埃の絨毯が敷き詰められていた。
「ひでえ」
粉塵が舞い上がる。
「事故物件か?」
「換気、換気」ヨハネが窓を開けた。
風が入る。
奥の部屋へと向かうと寝室らしい。
そこにガラスの棺があった。
曇ったガラスを拭くと、女の人の顔があった。
「死んでんのか?」
「瞼が動いてる」
「レム睡眠」
「フリーズドライか?」ゴツゴツとセガウレは継ぎ目を叩いている。
ZZZと安眠している。
眠れる森の美女。
「ツヴァイ」
三銃士はそれぞれ寝た。
三日三晩待っても眠れる森の美女は昏々として目が覚めなかった。
没薬はジャスミンに似た香りがした。
甲冑やのこぎりも置いてある。
待ちかねたセガウレがのこぎりでギコギコやり出した。
切れない。特殊な繊維で出来ているようだ。
ヨハネは表紙の取れた本を眺めていた。
「魔法はいつか解ける」
「フアーア」ガラスの戸が開いた。
小豆色の髪の女は三人を見てキョトンとした。
「今はいつ?」大きく伸びをしながら眠れる森の美女は聞いた。
「21世紀」
「100年も眠ってたんだわ」
イグナシオはひざまづいた。
「王子様?」
「オツムが足りないのか?」セガウレが頭の上でクルクルパーをしてみせた。
「発達障害でしょう」ヨハネが哄笑した。
「貴女はメサイアをお宿しになられたのです」スラスラ話せる。嘘をつく時みたいに。
「キスもした事ないのに・・」
「処女懐胎を申し出ます」
「そういえば生理が来てないの。100年ぐらい」
「預かり物です」イグナシオは受胎告知を終えた。
二人のやりとりは失笑を買った。
「イカれてる。俺らのマドンナはパープリンだった訳だ」
「鏡よ鏡」
「自分を何かのメルヘンのヒロインと勘違いしてるらしいぜ」
「ノータリン」
イグナシオだけは鏡をよこした。
マドンナは出っ歯だった。
「ビーバーちゃんみたい」
セガウレとヨハネは関心を失くして散り散りになった。
マドンナは出窓を開けて身を乗り出した。
「あれが太陽?」
「壮観だなー。豊かな国だったんだね」
灌漑が進んで水が行き渡っている。
「あんた達を召し使いに任命するわ。四人足りないけれど」
「君はなんでその話を知ってるんだい?」
「あたい、この子を産むわ」
晩、マドンナの叫び声を聞いた。
しまった!
油断した隙に、セガウレがマドンナの衣服をはいで犯そうとしている矢先だった。
ヨハネはいなかった。
太ももの間にセガウレがのしかかっている。
張り飛ばした。
「うぶなねんねじゃあるまいし。このアバズレ!」
マドンナはキュロットスカートを穿き直した。
「王と王妃はどこ行った?」
「嫌い! 嫌い!」
「気ちがい女」セガウレは捨て台詞を吐いて出て行った。
「火を絶やさないように」イグナシオはマドンナに火種を渡した。
例え父母が違うとて許されることではない。
ローソクを手に、イグナシオは階段を上った。
腕っぷしでは敵わない。セガウレには。
醜い力こぶ。
大広間でセガウレは煙草を吸っていた。
「へたなことすると」セガウレは煙草を落とした。
「セガウレ」
抱き締めるふりをして後ろから首を刺した。
喉仏を突き破って尖ったナイフが顔を出した。
「みね打ちだ」
倒れかけたセガウレをイグナシオは受け止めなかった。
セガウレはミミズのように身を捩っている。
尖ったナイフを抜き取った。
「穴が出来たじゃないか」
滅多刺しにした。
ゲロ、失禁、脱糞。
魚のわたを取り除くくらい簡単なことだった。
「死にかけた魚みたいだぞ」
セガウレは背中を見せて動かなくなった。
図体。
「自慢の服が台無しだな」
今際の際まで下卑た奴だった。
気色悪い。
手を払った。
ローソクの火が揺れた。
後ろにヨハネが立っていた。
「殺したの?」
尋ねる。
肯いた。
「人が死ぬ事は普通だから」
ヨハネは押し黙る。
「証人になってくれ」ヨハネの手を取った。
何も言わずヨハネはコクコクと首を振った。
失語症になったみたいだ。
マドンナの所へ戻ると暖を取っていた。
血みどろの代物を置いた。
「どこから出したの?」
「置いてあった」
裸眼。
夫婦の会話みたいだった。
「赤い人」
返り血を浴びたイグナシオは笑った。
「簡単なステップから」
大広間、セガウレの死体の横で狂ったダンスを踊った。
ローソクの火が塵埃の絨毯に移り、茨からパレスを包んだ。
表から裏へ、マドンナがジェスチャーをしている。
炎から逃れる。
「ヨハネが火の中に!」
ヨハネは手を合わせて祈っていた。
何に祈っているのか天井で見えなかった。
「裏道があったのか」
セガウレの長財布を奪って逃げた。
マドンナは薄着だった。
ATMに入った。
セガウレのクレジットカードを差す。
パスワード。
やっぱり誕生日だった。
少し物悲しくなった。
貯金を全額下ろした。
マクドナルドでタータンチェックのマフラーとスヌードを買った。
「羽が生えているみたいだ」マフラーが暖かくてイグナシオは嬉しくなった。
「ホントね」マドンナはスヌードの触り心地を確かめていた。
やっと人心地が付いた。
「僕等、身なし子なんだよね」
「名案があるの。南へ下るの」
「流離いか」
「そこで成っている木の実とかを食べて生きればいいんだわ」
「寒い日は自殺が多くて、暑い日は殺人が多いんだって」
マドンナはチョコレートを唇に塗る。
「かぼちゃの馬車で行きましょうよ。チチンプイプイ」
イグナシオは衷心から付き人になった。
「それでね、継母は死ぬまで踊り続けるの」
マドンナは手取り足取り教えていた。
「おさらいするわよ、そして」
この話はこれで三度目だ。
荒れ草が枯れ果ててサバンナに着いた。
「何さ」
話を聞こうとしないイグナシオにマドンナがすねた。
「もう少しの辛抱だ」
手を差し出して岳を登った。
「休みながらでもいいから」
同じ希望。
「赤ちゃん、いる?」
「あ、蹴った」
岳から見下ろすと野生の象がいっぱいいた。
「ビショップだ」
「象の国だ」
パウ、パウと象が鳴く。
「ちんちん」マドンナが象の鼻を指差して笑った。
「ここなら落ち着いて産めそうよ」
平坦になった所でマドンナは腹を上に横になった。
平和な象の国。
俗が刺激される。
物欲がムラムラと。
欲するままに。
これも必要だね、これも必要だね、と近くのマクドナルドでキャンプ用品を買い揃えた。
イグナシオはボタンフライのショーツをトレパンに着替えた。
赤い空。
日が落ちる。
禊で湯浴みをした。
耳の後ろをよく洗う。
明け暮れた。
マドンナが産気づいた。
イグナシオはマドンナの手を握って、知識も無かったので、防水シートを敷いて、毛布をマドンナの上に被せた。
「う、産まれる」
頭が出て来た。
産声を上げない。
取り上げた。
へその緒がつながってない。
心臓が止まっている。
死産だった。
男の子だった。
「ノーッ」マドンナが悲泣を漏らした。
ガラガラペッ、とマドンナがスポーツ飲料を戻した。
発狂して我に返ったマドンナが日を影に立ち上がった。
割れた爪を見ている。
美しかった。
「私・・」
イグナシオを見た。
「鬼畜」
背中が凍る。
女として見たことはない。真心から。
岳から突き落とした。
「強く生きて」突き落とされる前、イグナシオの肩をグッと掴んでマドンナが言った。
あっと思ってスヌードを掴んだ。
取り落とした。
手を離した。こんな手も離してしまうのですか。
マドンナが突き落とされて、投げキッスをした。
マドンナが転落する。
砂煙を上げて走る象の大群の中へ。
もみくちゃにされて。
踏みつけにされて。
マドンナが毀れてゆく。窓のように割れながら。
何でもお見通しだったマドンナ。
マドンナは象に踏まれて死んだ。
「ああ・・」イグナシオは覗き込んだ。
人の不幸に無関心だから象の国は平和なんだ。
上から毛布を投げた。
右腕の自由が利かない。
さっき、マドンナのスヌードを掴んだ時、ボキッといったから、肩を脱臼したんだ。
死産した赤ん坊をポリ袋に入れて彷徨い歩いた。
「悪い頭だ」
気が付くと海岸だ。
澄んだ海が見え隠れする。
月のほとり。
ならない。
強迫観念。
失意から天使になった。
虚脱。
脇から羽が。
色とりどりの羽。
腕を広げてみた。
裏は漂白したように真っ白。
ユニセックスの羽。
こういうの欲しかったんだ。
薄っぺらな羽。
薄っぺらな月。
平らな海。
激痛。
ショートブーツを脱いだ。
足の裏から根が。
いつから蝕まれていた?
足が入らない。
耐えられる痛み。
心の声。
痛みを物ともせず立つのがやっと。
小人たちはもうクツを直しには来てくれなかった。
この星になるまで何億年かかったか。跛行して呟いた。
手を見ると葉脈。石化も進んでいるようだ。
僕は道具か。
騙らされた。
神のせいにする。
過信。
罪は軽くない。
砂は掴みやすい。
似非。
鼻水を拭いた。
「アダか」
手にかけた。
心が告げる。
夜は月だけ。
神は首を吊ってこっちを見ている。
アロハシャツ、ステテコ。
アイスクリーム私は叫ぶ。
二人。
熱い涙を目から溢す。
プラトーンの教え。
起こることはしてはならない。
怒ること?
死が起こることなのか?
焼けたコーヒー豆の匂い。
プラトーンの家にある骨格標本を思い出した。
「家」に帰りたい。
舞い戻る。プラトーンの所へ。
こんな変わり切った姿でもプラトーンは見止めてくれるだろうか。
最後の力を振り絞って、プラトーンの元へ急いだ。
早く、早く。
あのカヌーのように蛇行して羽ばたく。
肩から落ちた。
「閉山」の文字が読めるだけ。
ヒタヒタともうこんな所にも潮が。
足が小さく、もう完全に木の根になっている。
手のマメを見るともう完治していた。
海になった大地に根を下ろす。
「アメン」
いずこへ。
御許に。
膝の傍らに。
櫂もない舟。
帆のように片羽を上げて。
一番近い星だったから。
際限なく長い時が経過した。
永劫の果て。
時間は余りある。
ぬばたまの闇の音にも慣れてきたころだ。
潮が引いて、月の海に適応して私は鉛に擬態していた。
頭の芯は覚めている。林檎の芯のように。
鉛になった私は私の残滓です。
かけはし。
ちぎれる。
水平線のない海。
岸のない海。
橋のない私。
地球から一番遠い星。
地球は赤く見えました。
動かない日時計。
アメリカ国旗がたなびいている。
遥か遊星のポリープ。
膿なのでしょう。
砂漠の谷。
下腹部を思わせる起伏。
骨盤。
亀裂。
マドンナを連想するようになっていた。
もう何も思い浮かばない。
ふと、マドンナの喘ぎを聞いた気がした。
全てが萎える。
想像もしたくない。
ひとりでに苔もない石くれが転がって形を作り始めました。
アダム。
誰かが知らぬ内に名前を付けてくれる。
アダムの生誕。
それは宇宙の誕生でした。
アダムだけ。
目だけが異様に大きく。
アダムは小人でした。
掌に乗るくらいの。
マドンナと私の子供でした。
畸形児でした。
愛らしいお尻を見せて向こうへ行ったのです。
背中を丸めて老婆みたいでした。
私はククを思い出したのです。
アダムの契約。
私は聞いた。アダムの雄叫びを。
インドの古い言い伝えにあります。
亀の上に四頭の象が乗り、世界を支え、その亀を自らの尾を咥えた蛇がさらに世界を取り巻いていると。
アートマン。
人間は空洞である。
僕にとっては世界はダンゴ虫だ。
ダンゴ虫はプラスチックも食べる。
黒いダンゴ虫だ。
童貞の処女崇拝。
私は信じてた。でもみんな汚いところでつながってたんだね。
運命の人々。
私は木を枯らしてしまったのです。
太い幹を。
それでも私も掌の中の小人に違いないのでしょう。
想像の域を出ない。
アダムが帰って来ました。
これは私が見た早逝紀なんでしょう。
色といえば、アダムの目が地球色をしていました。
その時初めて私は見ていたのは地球ではなく太陽だと気づかされたのです。
月の裡側。
鉛になった私に彼は腰を下ろした。
地震があったのかと思いました。
アダムが貧乏揺すりをしていたのです。
何かを落としました。
ペットボトルのキャップだった。
無間。
私を繰り返してる!
その道はいけない!
その道はダメだ!
知るはずのない言葉を呟いた。
ポツリ。
私は目を閉じました。
光あれ。
「しかしお帰り」ごま塩頭のプラトーンが笑っています。
「打ち鳴らせ」町中のドラが。
「叩き起こせ」
「わ」
横を見ると、すっかり白髪になったプラトーンが、いや父が笑っていた。
額が赤い。居眠りしていた。
湖岸。
孔雀の羽根が落ちていた。
寝覚めに水仙が急に匂い始めた。
脇の下に汗をかいていた。
ずいぶん長い夢だったような気もするが、夢は覚えていない。
海馬に夢は残らない。
忘れる。いなかったみたいに。
「なんだ、夢か」
夢でよかった。
悲しい事はいつも本当じゃない。
「今、何時?」
父は腕時計を見せた。
「もうそんな時間?」
靴を左右逆に履いてた。
靴を脱いで外反母趾の指をこすった。
靴が合わないみたいだ。
「中敷き・・」
深爪をしている。巻き爪だから。
「行くわよ、ポーリー」お母さんが離婚調停の裁判所から出て来た。自転車を引いて。
家裁だ。
小豆色の髪。
泣き疲れて眠っていた。
「あれ? セガウレやヨハネは?」
「誰のこと?」
「あれ?」
「おかしな子ね」
夕暮れの道に自転車や車の轍が。
省みると、自分の影がついて来る。
僕より長い影が。
心を追って、軌跡。
心は鉛のように。
「お話してね」
「またグリム?」
「アンデルセン」
臙脂色の空。
あの二人も見ただろう夕月を見上げて、「ツヴァイ・・」と呟いた。
「独語ね」
「愛の言葉だよ」
「なんで、そんな言葉知ってるの?」
「どういう意味?」
「ニ」
お母さんは狂人だ。
僕がいなくなっても気づかなかった。
ただのイメージだけど。
お母さんが地球上にどのくらいいるだろう。
お母さんに怒られる。
母に捧ぐ。
お母さんのカトリックは都合がいい。
お父さんはデブだ。
友達と二人で母にカーネーションを買ったことを思い出した。
指を折って数えた。
に、し、ろ、や、と。
大丈夫。僕は健全だ。
夢は都合がいい。
どこかにある世界かも知れないのに。
僕はどこへ行ったんだろう。
「頭が飽和した」
「考える時間をちょうだい」
「だから駄目なんだ」
「あらそう」
お母さんとお父さんは僕を省いて画策している。
全部、夢じゃなかったんだ。
「ちょっと待って。胃が痛い」母がしゃがみ込んだ。
鉛のような月を見て、思った。
月にカウチがあったなら。
うたかたの月。
ブーゲンビリアの咲くプラタナスの並木。
赤銅のラグビーボールのような夕日。
「ガス止」の栓を踏んだ。
聖母子の絵に父はいない。
写したのは父なのか。
ハイ、チーズ。
部外者。
写真もない時代。
雨の跡の付いた汚れた電話ボックス。
ポーリーは自分のセルフフォンを見た。
ポーリーは出来たばかりのニキビを触った。
毛布をかけてくれたお父さん。
僕のお母さん。
間に挟んで手を繋ぐかすがい。
あったはずのものがない。
側溝に死んだ蛾。
「死んでレラ」父が誰も笑わない冗談を言った。
踏切の側には造花が括られている。
「御不幸があったのかしらね」
野暮ったい長いスカートのエホバの証人が立っている。
「神様を知ってる?」
「ゼウス」
「間に合ってます」母がにべもなく断った。
歩道橋に差しかかったところで、父がポケットティシューに吐いた真っ黄色の痰を見せた。
「止めなよー」母が仕方なく笑っている。
さびしい。
さびしんだ。
過呼吸を起こしそうになった。
「働け」
思い付きで物を言う父。
サバサバした母。
どうして結婚したんだろう。
「お母さんとお父さん、どっち好き?」
お母さんは知らない。
春になる。
カスタード 森川めだか @morikawamedaka
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