百足の老夫婦
大雨を長く降らせた台風がようやく過ぎ去ったので、家中の雨戸や窓を開けてまわっていた。普段は風を通す為に開けてある勝手口扉のスライド窓もここ数日閉め切っていたので、ようやく換気ができると台所奥のそこへ向かうと、誰かの姿が見えた。
田舎の一軒家である我が家の勝手口はそこそこ広い三和土の空間で、夏でもすこし冷やりとしている。常温の野菜を保管したり玄関を通らず直接台所に運び入れたい重量物…主にペットボトルの入った段ボールや米袋等…を運び入れるのに便利なのだ。
そこの上框に座り込んでいたのは一人の老人。黒っぽい色の着物に白い頭髪でこちらに背を向けて腰掛けている。僕の存在に気づいたのか老人は振り向いた。
その口元は仙人のような白く長い髭で覆われていて、本当にこんな髭の人がいるのだと少し驚いてしまった。
「すまんな、お若いの」
老人は目を細め、小さな声で囁くように言った。
「この大雨で水浸しになってしまってな」
もう少しここに居させてほしいと頼む声に了承の返事をする。しかし一体どうやって入ってきたのだろう。首を一つ傾げてから、もしかして勝手口の鍵を締め忘れていたのかもしれないと思い至る。老人の傍を通って三和土に降り、スライド窓を引き上げるついでに確認してみたが鍵はちゃんとしまっていた。これは本人に聞いてみるしかないと老人に向き合った。黒一色だと思っていた着物は近くで見ると緑みを帯びていて、角度により色合いを変えて美しい。あの、と開きかけた僕の口は老人の言葉に遮られた。
「ここで婆さんと待ち合わせしとって」
えっ?ここで?
「婆さんは畳が好きでな。和室に行ったと思うんじゃが」
和室?確かにうちには和室はあるけれど、さっき窓を開けた時にはもちろん誰もいなかった。知らない間に上がってきたのだろうか。確認してこようと框に足をかけた時、勝手口に繋がる台所の奥から一人の老婦人が姿を現した。
「あらこんにちは。お邪魔しておりますよ」
にこりと挨拶をくれた老婦人は老人と同じ色の和服を着ていて、やはり白い髪を頭で上品に纏めていた。
「外はどうですか」
妻の質問に老人は困ったように白い眉を下げた。
「まだ水は引かんのう。ここにしばらくおらせてもらいたいと頼んだとこじゃ」
「そうでしたか」
老婦人は僕を見て
「ではもう少しご厄介になりますね」
優雅な所作でお辞儀を一つしてから夫の隣に腰を降ろした。仲良く並ぶ2つの背に、僕はごゆっくりと声をかけ、家の中に戻った。
初めて見る二人のはずなのに、なぜか警戒する気持ちは自分の中に起こらない。どこかで会ったかなと考えながら、まあお茶でも淹れようと台所で湯を沸かす。丁度いいお菓子はないか棚を探していると、勝手口から涼しい風が吹き込んできた。首を伸ばし様子を伺うと、既に二人の姿はそこから消えていた。
虫たちのはなし 望月遥 @moti-haruka
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