蟋蟀の青年

 些細なことで恋人と口喧嘩して、彼女のマンションの部屋を飛び出した。幾分か欠けた秋の月が、夜の空から冴えざえとした光を僕に落としている。なんとなく、自分の家にまっすぐ帰る気持ちにはなれなくて、だけれども行くあても特になく、せめてもの抵抗のようにいつもとは違う道を選んで駅に向かう。小さな公園の脇を通ると、どこかから物悲しいメロディーが聞こえてきた。

 頭を巡らせ音の出どころを探してみると、暗い公園の中で街灯に照らされたブランコに座り、一人の青年がバイオリンを弾いていた。身にまとう黒いスーツは彼の存在を闇に溶け込ませ、哀愁を帯びた音だけが彼の存在を教えてくれている。


 僕はどうしても気になって、なるべく音を立てないようにしながら公園に足を踏み入れた。なるべく音を立てないように気をつけながらブランコの向かいにある古ぼけたベンチに腰掛け、演奏に耳を傾ける。

 曲が終わったところで顔を上げた青年は僕に気づいたようで、目があった。  

 「いい夜ですね」

 細身の青年はにこりと笑う。

 ええ本当に、と僕も微笑んで返事を返す。さっきまでのむしゃくしゃした気分はどこかへ行ってしまっていた。

 さっきまで弾いていた曲がなんという曲なのか知りたくて、僕は青年に訊ねることにした。青年は僕の質問に驚きの表情を見せ、それから優しくはにかんだ。

 「曲というほどのものではないのです。ただ、思うまま鳴らしているだけで」

 音楽に詳しいわけではないけれど、あの旋律は誰かを恋しく思う感情の表れだと感じた僕は、てっきり恋の歌だと思ったと告げた。すると青年はますます照れくさそうにする。

 「実は」

 小さな声で秘密を打ち明けるように青年は呟く。

 「ここで恋人を待っているんです」

 こんな時間に?

 「ええ。ずっと」

 一晩中待っているのだと彼は言う。僕は驚いたが、彼はなんでもないことのように言葉を続ける。

 「来てくれるかどうかわからないんですけどね。僕にできるのは、これだけだから」

 驚き過ぎて口をあんぐりと開ける僕の後ろから小さな物音がした。振り向くと、彼によく似た黒い上下を着た女性が一人。暗くてよく見えないが、こちらもまた細身の、髪の長い女性だった。目を瞬かせた僕は慌てて視線で彼に合図する。青年は立ち上がり、彼女に向けまたあの旋律を奏ではじめた。さっきよりさらに感情の籠った、心に響く切なくも美しいメロディー。彼女もうっとりと彼を見つめている。


 恋人たちの時間を邪魔するわけにはいかない。お邪魔虫は退散だ。そっとその場を離れると、来た時と同じように音を立てないようにしながら公園を出た。月は相変わらず夜道を仄白く照らしている。少し冷たい空気を鼻からいっぱいに吸い込んで、僕はポケットからスマホを取り出した。駅に着くまでに、彼女にメールをしよう。いや、電話で直接声を届けよう。

 公園からはまだ、バイオリンの音色が細く、しかし美しく鳴り続けていた。

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