第46話 飽きるほどの愛をあなたに
ルカ様は、心の中の何かを吐き出すように、小さく溜息をついた。
気づけばもう夜明けが近い。
月と星が輝いていた漆黒の夜空は、暗い青へと色を変えはじめている。
「話し過ぎたね。もう、眠ろうか。……マリィ、安心して。君が怖くないように、俺は別室に行くから」
「……嫌です」
私は立ち上がろうとするルカ様の服を、きつく掴んだ。
ここで、逃げてはいけない。ルカ様を一人にしてはいけない。
私は、私が大嫌いだった。
ローレンお父様の血が流れる自分が嫌い。無力な自分が嫌い。
私なんて幸せになってはいけない、なれないのだと――子供みたいにずっと拗ねていた。
けれどそれでは、いけない。
私を嫌いな私が、誰かを愛せる筈がない。
だから――向き合わないと。
私はお爺様に愛されていた。
お母様に愛されていた。
メラウに、使用人たちに、愛してもらっていた。
きっとメルヴィル様も、愛してくれようとしていた。
そしてルカ様も――あんなに懸命に、慣れない言葉で、好意を伝えてくれていた。
それなのに自分自身が嫌いなままでいるなんて、あまりにも傲慢だ。
「ルカ様は……私を妹だと思っていますか?」
「血は繋がっていないけどね。書簡を見たときに、俺は君の兄、とされていた。はじめて、本当に――家族ができたと思ったよ」
ルカ様は自嘲気味に笑った。
私はその両手を、握りしめる。その赤い瞳をじっと見つめると、ルカ様は困ったように眉を寄せる。
「私はルカ様を、兄だとは思えません」
「それは……そうだと思う。……それでも俺は、マリィを守りたい。俺にはそれしか、できないから」
「今、悲しそうな顔しましたよね? ルカ様、悲しそうな顔。……私に嫌われたら、悲しいですか?」
悲しげに目を伏せるルカ様の顔に、そっと触れる。
ルカ様は考えるように暫く黙った後、小さく頷いた。
「……そうだね。マリィに嫌われるのは、嫌だと思っている」
「それは感情ではありませんか?」
「わからない。……マリィに安心して欲しくて、演じてみたけれど……あれでよかったのかどうかも、わからない」
「私は、嬉しかったです。少し大げさな言葉も、抱きしめてくださるのも、全部嬉しかった。ルカ様が私を……妻に、してくださる。婚姻の儀式が終われば、妻になれる。……私は、そう思っていました」
私は、ルカ様が好き。
淡く芽生えたその気持ちは、今は強く深いものに変わっている。
たくさん辛いことがあったのに、私の為を思って大袈裟な好意を演じてくれたルカ様が好き。
私が安心できるように、いつもそばにいてくれたルカ様が、好き。
「私は、妹では嫌です」
「……マリィ。俺は、血を啜って生き延びて、人を屠り、血を流すことしか知らない吸血伯なんだよ」
ルカ様は苦しげに言う。
明るんできた夜空から、薄ぼんやりとした光が差し込みはじめている。
薄明かりに照らされたルカ様の赤い瞳や黒い髪。
ゼスティアの罪の証のようなそれは――とても美しい。
「ルカ様、それなら私は餌のように投げ込まれる干し肉と残飯を漁り、ボロ布を纏い生き延びた、天井裏の鼠です」
「先程の俺の姿を見ただろう。俺は、ああいったことを繰り返し、生きてきた。あれが、本当の俺の姿なんだよ」
「ルカ様。戦争は、もう終わりました。ルカ様が……東国の貴人の血を持つあなたが、停戦交渉をしてくださったからでしょう?」
「……あぁ。戦いを終わらせる必要があった。もしかしたら、メルヴィルは君を不幸にするかもしれないと考えていた。だから――その時は君を奪って、君の傍に、いるために」
心が震える。
ルカ様は、私のことをただ一人の家族だからと、そこまで想ってくれていた。
でも私は、我儘だから。
それでは、足りない。
「ルカ様……血を流さなくても罪を裁く方法はいくらでもあります。だから……これからは、ルカ様のその手は、私を抱くためのものに、してください」
「……っ」
小さく息を飲む音が聞こえた。
見開かれた赤い瞳が、食い入るように私を見ている。
「ルカ様が感情を理解できないのなら、理解できるまで、私が教えてさしあげます。私は、あなたの傍にいます。飽きるほど、ずっといます。もうたくさんだと思うほど、毎日愛を囁いて、愛してさしあげます」
私は、微笑んだ。
きっと――とても綺麗に笑えているはずだ。
ミュンデロットの青い薔薇のように。
「だから私は、あなたの妹にはなれません。マリスフルーレ・ミュンデロットは、ルカ様の妻になりたい」
言葉が、吐息ごと奪われたような気がした。
触れ合ったのは一瞬で、唇が重なっているのだと気づいたときにはすでにそれは離れていて、ルカ様は私の胸に顔を埋めて俯いていた。
「……マリィ……俺の、マリィ。……ずっと我慢していたのに、耐えられなかった」
顔に熱が集まるのがわかる。
柔らかく湿った唇の感触が、恥ずかしい。
あれほど大胆なことを言っておいて恥ずかしがるのもおかしい気もするけれど、気恥ずかしいのと同じぐらい嬉しかった。
私はルカ様の頭を抱きしめて、その髪を撫でる。
「本当はね。大袈裟に君が好きだと伝えるたびに、本当にそんな気がしていたんだ。俺は演じている方の俺でいることが心地よくて、君が笑ったり、困ったりしているのを見ていると、心が満たされる気がした」
「私は、どちらのルカ様も好きです。冷徹な吸血伯も、優しい辺境伯も。両方、私にとってはルカ様ですから」
「……マリィ……朝日が眩しくて、君が光り輝いて見える。やっぱりマリィは天使だったんだね、朝焼けと共に消えてしまったらどうしよう――なんて、今更嘘くさいでしょう?」
「虚実の境などわかりません。言葉は全て作り物。それが真実だと思えば、真実になるものです。私は大袈裟な方のルカ様も、大好きですよ」
ルカ様は私の胸から顔をあげた。
それからどこか人形じみた美しい顔を、へにゃりと崩して笑った。
「マリィ、俺の天使。俺の、ただ一人だけの家族」
「ルカ様、それは違います。ルカ様がエミリアさんに怒っていたのは、私と、鈴が傷つけられたからですよね。我が家の者を傷つけるなと、ルカ様は言いました。それは私と、鈴のこと。……鈴と、楼蘭と、私。ルカ様の家族は、三人もいますよ?」
「……そうか。……そうだね。……でも、マリィは特別だよ」
ルカ様はソファから立ち上がると、私を軽々と抱き上げる。
「マリィ。俺の妻に、なってくれる?」
伺うような遠慮がちな声で、ルカ様が言う。
「はい! もちろんです」
「毎日好きだと言って?」
今度は甘えるように言われた。
「いいですよ。聞き飽きるぐらいに、言ってあげます」
「眠る時は、手を繋いでいてくれる?」
「手でも足でも、お好きな場所を繋いで、触っていてください」
「朝も、昼も、夜も、俺から見える場所にいて」
「……料理や掃除や買い物などしたいので、でしたらルカ様は私の後をついて歩いてください。それがすんだら、ずっと傍にいますよ。だから、お仕事もしてくださいね」
「……俺を、捨てないでね」
「ルカ様も。私を捨てないでくださいね?」
私たちは顔を見合わせると、くすくす声を立てて笑った。
そのままベッドに倒れ込んだルカ様が、私に覆いかぶさるようにしてもう一度口付けてくれる。
愛しいものを見るように細められた瞳が、長い睫毛や高い鼻梁が間近にある。
触れるだけでそっと離れた唇の感触が心地良くて、柔らかいベッドと私を抱きしめるルカ様の体温が心地良くて、眠気がゆっくりと忍び寄ってくる。
「おやすみ、マリィ」
「おやすみなさい。……ルカ様、また明日。……もう日が変わっていますから、今日、かしら。……目覚めたら、……傍にいますから」
眠たいせいで、呂律が回らない。
最後まで言えただろうか、伝わっているだろうか。
そっと頬を撫でられて、もう一度額に口付けが落ちる。
私の雨がずっとやまなかったように、ルカ様の暗闇だって簡単に無くなったりはしないだろう。
でも、きっと大丈夫。
そんな気がした。
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