第45話 辺境伯家の過去


 ルカ様はクローゼットから新しい、深緑色の上衣をだしてきて羽織った。


 ばさりと揺れる布地の向こう側に、ルカ様が戦ってきたいくつもの戦場が見えるような気がした。


 ――その幻の中では馬防柵の向こう側に、何人もの人が折り重なるように倒れている。

 倒れている人々に名前はない。誰が誰かさえ、分からない。知らない人々だ。


「……マリィ。……いつものように触れたら、嫌だよね」


 私の隣に座ったルカ様が、遠慮がちに言う。

 地下室で見た冷酷な吸血伯の姿はすっかり消え失せてしまい、いつものルカ様がそこにはいた。


「構いません。どうぞ」


 私は両手を広げた。

 ルカ様は俄かに目を見開いて、それから私の体を正面からおずおずと抱きしめた。

 私よりもずっと冷えているルカ様の体を温めるように、体温を分け合うように私はぎゅっと背中に回した手のひらに力をこめる。


「……どこから話せばいいのか」


 静かな声音が、鼓膜を揺らす。

 私はルカ様の、柔らかいさらりとした黒い髪に指を通した。


「――俺がうまれる前。俺の父は、戦の最中一人の捕虜を先程の場所……地下牢へと捕えた。その捕虜は、美しい若い男だった。東国では名のある貴族……東国の言葉では貴人と呼ばれる身分の高い、将だった」


 ルカ様の額が、救いを求めるように私の肩へと強く押し付けられる。

 大きな手のひらの硬い指先が私の背中を、浮き出た骨の形を確かめるようにきつく撫でた。


「俺の母親は、よく言えば大層慈悲深い、悪く言えばとても偽善的な人だったそうだよ。孤児院に多額の寄付をしたり、兵士の慰問を行ったり、包帯や消毒液を持って自ら治療師のまねごとをしてみたり」


 どことなく、他人事のようにルカ様は話した。

 私は何も言わずに、小さく頷く。


「戦争で死んだ東国人の埋葬をすべきだと主張したりね。父はそんな母を快く思っていなかったそうだよ。目の前で沢山の部下を失い、その最後を看取ってきたのだから。母の言葉は、世迷い事に聞こえただろうね」


「そうかもしれませんね。憎い相手を、弔えと言われても……誰がそれをするのかと、なってしまいます」


「可哀想だから埋めてあげてと言っても、実際に母が穴を掘り死体を埋める訳じゃない。そこには誰かの手が必要だ。辺境の人々は、長らくの戦争で東国の人々を恨んでいた。そんなことを命じたら、反乱が起こりかねない程に」


「ルカ様のお母様は、ゼスティア辺境伯に嫁ぐには、優しすぎたのかもしれませんね」


「よく言えば。そうして母は、その慈悲深さを捕虜の将に向けた。父は近づくなと命じていたようだけどね。……父の目を盗んでは、地下牢に幽閉されている将の元に通い、世話をしていたようだよ」


 私はルカ様の黒い髪に視線を落とす。

 ルカ様が言おうとしていることが分かってしまい、胸の奥に黒い何かが押し込められたような気持になる。

 ルカ様のお母様は、ゼスティア辺境伯の奥様は――。


「やがて母は懐妊し、その東国の将とよく似た黒い髪と、母に似た赤い目の子供を産んだ。……つまり、俺は不義の子なんだ」


「……ルカ様の、お父様は……」


 ――ルカ様のご両親は、事故のようなもので、ルカ様が産まれて間もなく亡くなった。

 いつかルカ様が言っていた言葉を思い出す。

 それでは、事故のようなものとは、もしかして。


「父は捕虜の将を殺し、母を地下牢へ入れた。それから数日して、母と父は死んだ。亡骸は地下牢に、折り重なるようにして転がっていたそうだよ」


 私は息を飲んだ。

 どうして――そんなことになってしまったのだろう。

 わからないけれど。でも、その時にはルカ様はうまれていた。

 ルカ様は、ご無事だったのだろうか。そればかりが、気がかりだ。


「その時の記憶は、俺にはない。ないと、思う。多分ね」


 ルカ様はそっと私から体を離した。

 私を見つめるルカ様は、辛そうでも悲しそうでもなかった。

 感情をどこかに落としてきてしまったような、ただひたすらに空虚で美しい顔を私は見つめる。


「不義の子である俺は、父――と呼んでいいのか分からないけれど。ゼスティア辺境伯の命令で、地下牢へ捨てられていたらしい」


「うまれたばかりなのに……?」


「そうだね。地下牢で拷問された捕虜の兵の血肉を啜り、生きていたそうだよ」


「そんな……そんなことを、誰がルカ様に教えたのですか……? それはあまりにも、残酷ではないですか……?」


 息が詰まる。瞳に涙の膜が張って、視界がぼやけた。

 それを聞いたときの、ルカ様の苦痛を思うと、四肢が千切れるほどに苦しい。


「それを俺に教えたのは、ゼスティア家の今はもういない、使用人たちだ。それが本当か嘘かは知らない。でも、それぐらいに俺は忌み嫌われていた」


「……産まれた子供には、ルカ様には罪はありません。……それなのに」


「俺は殺されていてもおかしくない立場だった。けれど、辺境伯を失い混乱したゼスティア家に滞在してくれていたゲオルグ様が、俺の後見人になってくれた」


「お爺様が……」


「死んだ辺境伯に変わり東国の兵を打ち払い、ミュンデロット家に帰っても尚、派兵して辺境を守ってくれてね」


 お爺様のことを話すときだけ、ルカ様の声音に親愛の情のようなものが滲んだ。

 それで――ルカ様は、お爺様のことを、父と同じと。

 確かにルカ様にとっては、実のご両親よりもずっと、お爺様は親のような存在だろう。


「ゲオルグ様のおかげで、俺は生きのびた。いい環境とは言えなかったけれど、暗い地下牢で血肉を啜って生き延びたせいなのかな。何も感じなかった。……死ぬために生きている、という感覚に近いね。楽しくも苦しくもなかった。日々を、浪費していた」


 訥々と、ルカ様は語った。

 その声には、確かに何の感情も籠っていないように聞こえる。

 本当に産まれた時に感情を失ってしまったのか、心無い使用人たちに育てられる中で徐々に失ってしまったのかは分からない。

 けれど苦痛がなければ――愛されて、祝福されて産まれていたのなら、きっと違っていた筈だ。


「やがて、戦争がはじまった。俺はひたすら戦場に出て、敵兵を屠った。辺境の人々を守りたいという気持ちも、国を守りたいという気持ちもない。いつか、死ねるだろう。そんな風に思っていた。……ミュンデロット家から書簡が届いたのはそんな最中のことだった」


「書簡、ですか……?」


「それは、ミュンデロット家の紋の入った証明書だった。持ってきてくれたのは、かつて君の侍女をしていたという女性でね。ローレン公が隠し持っていたものを、ミュンデロット家のかつての使用人達と共謀して屋敷に忍び込んで奪ってきたのだという」


「メラウ……?」


 私の侍女――メラウの話になるとは、思っていなかった。

 そんなことが起こっていたなんて、私は知らない。

 メラウも追い出された使用人たちも、どこかで穏やかな生活を送っていると思っていたのに。


「女性には追手がかけられていた。俺の元に辿り着く前に、既に体を刺されていて、……追手は始末したけれど、女性も手遅れだった」


「……っ、そんな……まさか……そんな……」


 体が震える。

 見開いた瞳から、ぼろぼろと涙が零れた。

 メラウが――死んでしまった?

 どうして……?

 頭が混乱して、言葉が紡げない。ルカ様は私の涙を指で拭うと、ゆっくりと続けた。


「マリィを助けたいと言っていた。俺はその時まで、ミュンデロット家の状況を知らなかった。ゲオルグ様が亡くなったのは知っていたけれど、それだけだった」


「……メラウは、どうして命を……どうして」


「――その書簡にはゲオルグ様の筆跡で、俺をミュンデロット家の跡取りにすると書かれていた。震える文字で、俺をラスティナ様の養子にすると」


「養子に……?」


「ラスティナ様はローレンに気付かれて、書簡を奪われていたようだね。多分、ゲオルグ様は俺にミュンデロット家を渡し、ローレンを追い出して、ラスティナ様とマリィを守りたかったんだろう」


「お爺様……」


 新しい涙が、次から次へとあふれてくる。

 お爺様は――私やお母様を救おうとしてくれていた。まるで、あの家をお父様たちに奪われることが、分かっていたように。


「書簡を手にするまで、俺はそんなことはまるで知らなかったから、マリィを助け出すことも、ミュンデロット家を救うことも、なにもできなかった」


「……父や、義理の母や妹は、お母様を亡くしたから、私は家から出たがらず、気鬱に臥せっていると、社交界では言っていました。ルカ様が知らなくて当然です」


 私は首を振った。

 ルカ様にとっては寝耳に水のような話だっただろう。

 私は涙を拭って、俯くルカ様の頬に手を添える。

 愛しそうに頬擦りをするのが、幼い子供のようにみえた。


「俺はすぐに、ミュンデロット家を調べた。その時君は、あの家で、一人きりで耐えていた。……なんて、美しいのかと思ったよ。血に塗れた、俺が触れてはいけない。それにきっとメルヴィルが君を救うだろうと思っていたんだ」


「……私は何一つ知りませんでした。私を救おうとしてくださっていた人がいたのに、ずっと一人だと、孤独だと。……私は助けて貰うばかりで、何もできませんでした」


 お爺様もお母様も、私を助けようとしてくれた。

 私の為に、メラウも優しかった使用人たちも、命を落とした。

 ルカ様は――その手を血に染めようとしてくれた。

 ――私は、何を為すことができるのだろう。


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