第44話 憎しみに飲まれないように
それは――屋根裏部屋で孤独に心を蝕まれながら、私が夢想していたルカ様の姿だった。
思い描いていた、吸血伯ルカ・ゼスティア。
けれどゼスティア家に来てからのルカ様は、大袈裟に私に好意を伝えてくれた。
何度も抱きしめて、私が大切だと伝えてくれた。
『俺はこれで、正しかった……?』
微睡みの狭間で、囁かれた言葉を覚えている。
「ルカ様。私は、私を貶めた、卿が憎い。鈴に酷い言葉を吐いたエミリアは嫌いです」
「エミリアが首長の座を継ぐのは、街にとっては喜ばしいことではない。……でもマリィ、そんなことは別に重要じゃない。この女は、マリィを傷つけた。俺の妻に対する暴言は、十二分に不敬罪で、私刑に値する」
「ルカ様、そうだとしてもこれは、やりすぎです。罪には相応の罰があるのでしょう。ただの暴言で処刑をするのは、いけません」
――可哀想だから助けてあげて、とは言えない。
それは偽善だ。私は、そんな風には感じていない。
ダイス伯爵も、エミリアも嫌いだ。
でも――だとしても、ルカ様が手を下すのは、違う。
「相応の罰を与えているつもりだよ。だから始末するべきだと、判断した」
「……ルカ様、暴言の対価が命というのは、違う気がするのです」
私は首を振る。
嫌いな人間を、気に入らないからと殺すのは――獣と同じだ。
綺麗ごとを言うつもりはない。私だって、ダイス卿が憎い。エミリアさんが嫌いだ。
でも――これを、この状況を、受け入れてしまうのは、いけない。
「殺してはいけない? 一人殺しても、二人殺しても一緒だよ。戦場では、多くの亡骸が塵のように散らばっていた。亡骸には名前はない。それが誰なのかも分からない。散らばる亡骸の数だけ失われた命と、マリィを傷つけた二人と、命に違いはある?」
ルカ様は冷静な声音でそう言って、続ける。
「私刑に処されて川に捨てられても、喜ぶ人間の方が多いような連中だ」
だからといって、殺していい理由にはならない。
この国には――法が、あるのだから。
私はそれをお爺様の書架で学んだ。多くの文字を読み、多くの言葉を知った。
言葉とは知性。感情を抑えつけるための理性。
ルカ様が――堕ちていかないようにするために、私がその手を掴んでいないといけないと、強く思う。
「ルカ様は、戦場で多くの兵を屠ったのでしょう。国を守るための戦いで多くを屠ることは、名誉です。けれど私刑で失われる命は、戦場のそれとは違います。それは個人的な感情からのもの。個人的な感情で人の生き死にを決めてしまえば――私の周りにはあっという間に、屍の山ができてしまいます」
「名をあげてくれたら、全員、俺が殺してあげる」
「ルカ様。……それでは、私を殺してください」
私はルカ様を見上げて言った。
ルカ様は俄かに目を見開く。
赤い色の硝子玉のような瞳に、感情が徐々に戻ってきているような気がする。
きっと、私の言葉は届いている。そう、信じたい。
「私は自分が嫌いです。母を守ることができず、ミュンデロット家も失いました。メルヴィル様ともあんなことになり――ルカ様に救っていただいたのに、私は弱弱しく縋りつくばかりで」
私はずっと甘えていた。
本当は、最初に話すべきだったのに。何もかもを、全て。
「私の身に何が起こったのか、あなたに話すことさえしませんでした。ルカ様が私を救って下さった理由を聞くことも、ルカ様がどんな事情を抱えているのかを知ることも――本当は、怖くて。あなたを失いたくなくて、なにもしなかった」
「マリィ……」
「だから、私は私が嫌いです。私の嫌悪の感情で人を殺していいと言うのなら、私を殺してください」
「それはできない。……俺は、こんな俺だけど……マリィが大切なんだ」
ルカ様は戸惑っているように首を振った。
「何故ですか? ゲオルグお爺様の孫だから? ミュンデロット家の生き残りだから? それだけで――その手を血に染めるというのですか? 納得がいきません、分かりません……!」
「違う。……そうじゃないんだ。それだけじゃない」
「じゃあ、どうして……!」
「……マリィ。俺にとってゲオルグ様は、血は繋がらないけれど、父と同じだった」
「……お父様?」
「あぁ。だから、マリィは俺にとって――妹のような、ものだ」
妹――。
すとんと、今までのルカ様の態度が腑に落ちたような気がした。
優しくて、必要以上に触れたりはしない。
目尻や髪への口づけはあったけれど、恋人同士のようなふれあいはない。
それは、妹のように思っていてくれたからなのだろう、きっと。
「マリィの気持は理解したつもりだ。エミリアの処遇については、もう一度考える。元々、二度と余計なことをしないように、心を壊そうとは思っていたけれど、命までは奪わないつもりだった」
「……助けてくれるの……?」
叫びすぎて喉が潰れてしまったのか、哀れな掠れ声でエミリアが言った。
「命だけは。だが、俺はいつでもお前の命を奪えることを忘れるな。――もしまた、我が家の者を傷つけるのなら、死ぬよりも苦しい目に合わせたあとに、ゆるゆるといたぶりながら、殺す」
エミリアは涙を溢しながら何度も頷いた。
体が揺れるたびに、天井からぶら下がった鎖が、ぎいぎいと嫌な音をたてた。
「マリィ、ダイス卿には、体の一か所を傷つけて、ゆっくりと血を抜くと伝えたが、あれぐらいで人は死んだりしない」
ルカ様はちらりと隣の牢に視線を向けた。
「放置しておけば、そのうち狂うか、血が失せていくと思い込んで、勝手に心臓が止まる。ダイス卿の罪は重い。それでも、助けたい?」
「……はい。しかるべき法に乗っ取って、王の名の元に裁きを受けることを望みます」
私は頷いた。
憎しみに、心を曇らせたくない。
罪を犯せば、ずっとその罪に心が囚われたままになる。
私はルカ様と、明るい光の下を歩いていきたい。
「分かった。……楼蘭、聞いていた?」
ルカ様が呼ぶと、暗がりから音もたてずに楼蘭が姿を現した。
かっちりとした執事服を着たいつもの楼蘭は、城の廊下ですれ違った時のように、私に優しく微笑んだ。
「マリィ様、僕も本音では、どちらの人間にも死んで欲しいと思っていますが、命令には従います。命は奪わずに家へと帰しましょう。歯向かう気が起きない程度には、もう十二分に、恐ろしく、痛い思いをしたでしょうからね」
「楼蘭、ずっと居たのですね」
「はい。ここは、ゼスティアの牢獄。戦乱の最中は、捕虜を幽閉していた場所です。随分なものをお見せしてしまい、マリィ様には申し訳なく思います」
「鈴は……」
「鈴音は家にいますよ。あれのことを、嫌わないでくださいね。あれは、マリィ様を娘のように思っていますから」
楼蘭の口ぶりでは、鈴音もきっと知っていたのだろう。
ルカ様と楼蘭が、葬儀に参加するために王都に行き、ダイス伯爵を攫ってきたこと。
私刑に処するということを。
長く東国と戦ってきたルカ様や、東国から亡命してきた楼蘭たちと、戦いを知らない私との間には、命の重さについて大きな隔たりがあるように感じられた。
それでももう、戦争は終わった。
命を奪うべき罪ももちろんあるだろう。
けれど、ダイス伯爵もエミリアさんも、そこまでの罪は犯していない。
気に入らないからといって殺してしまうのは、暴君と同じだ。
「……楼蘭。マリィを連れて部屋に戻るよ。あとは、適当に。……遅くまでつきあわせてすまないね。明日は休んでいい。鈴音にも、そう言っておいて」
「分かりました」
ルカ様に促されて私は地下室から出た。
繋がれた手はひやりと冷たかった。
私たちは黙ったまま二階へとあがり、主寝室へと戻った。
ルカ様と共に、ソファに座る。
冴え冴えとした月明かりが、窓から差し込んでいる。
眠気は感じなかったけれど肌寒さを感じて、私は自分の体を抱きしめた。
羽織っていた服を脱いで床に放り投げたルカ様の、鍛え抜かれた体が月明かりに照らされている。
彫刻のように美しい体には、いくつもの引き攣れたような傷跡が残っていた。
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