第43話 辺境伯ルカ・ゼスティア


 螺旋階段の下には、蝋燭の灯りが燈り橙色に光っている。

 私は階段を降りた。細い悲鳴が徐々に近づいてくる。


 それは広い地下室だった。

 壁には等間隔でランプが並んでいるけれど、灯りは燈っていない。

 橙色の灯りは地下室の更に奥から照っているようだった。

 地下室からは微かな水のにおいがする。


「俺のマリィを貶める言葉をはいたそうだな。いつかは醜悪さを曝け出すと思ってはいたが、案外早かった」


 ルカ様の声が聞こえた。

 私は息を殺しながら、灯りの方へと壁伝いに近づいていく。

 羊毛でできた室内履きが、足音を吸収してくれてよかった。

 秘密を探ろうとしている罪悪感と不安と緊張で、鼓動が早くなる。

 促迫する呼吸を、そっと飲み込んだ。


 地下室の奥には、牢獄と思われる鉄製の檻がいくつも並んでいる。

 伽藍洞の檻の前をいくつか通り過ぎ、人の気配を感じて私は足を止めた。


 檻の一つに――ダイス伯爵の姿があった。

 目隠しをされているけれど、それは忘れもしない私を襲ったあの男だ。


 ダイス伯爵は両手両足を板敷きの台の上で広げるように四隅に縛られて、ぽたんぽたんと足先から下に置かれた甕の中に血を滴らせていた。


 じたじたと足をもがれた虫のように暴れるダイス伯爵の口は、叫び声があげられないようにだろう、糸で縫い付けられていた。


「……っ」


 私は両手で口を押えて、息を呑む。


「ルカ様はあの女に騙されているのです、あの女はルカ様を可哀想だと言いましたわ! 自分のような者に溺れるなんて可哀想だと……戦場の悪魔、吸血伯とまで言われたルカ様を憐れみ侮辱するだなんて! あの女は、マリスフルーレは娼婦です……!」


 エミリアさんの恐怖と懇願が混じった声が、地下室に響き渡った。


「足の爪からゆっくりと反対側に皮を剥ぐのと、頭の先から剥ぐのと、どちらが綺麗に皮を剥げると思う? 俺は常々、どちらが綺麗に人の形を保ちながら皮を剥ぐことができるのか、試したいと思っていたんだ」


 感情の籠らない、冷徹な声だった。

 時折耳にしていた、ルカ様の心の底にある部分の声音。

 いつもの明るい声が演技だとしたら――こちらの声が、本当のルカ様なのだろう。


「いやあぁ……っ!」


 耳をつんざくようなエミリアの悲鳴と泣き声に、私は息をひそめるのをやめて思わず走り出していた。

 怖くはない。私はルカ様が、優しいだけの方ではないとずっと気づいていた。


 ダイス伯爵の牢のすぐ横の広い部屋には、鈍く光る剣や小刀や、ぎざぎざした刃物、工具のようなものがテーブルの上に並んでいる。

 水のにおいは広い部屋よりももっと先からだ。

 小舟が浮かぶぐらいの広さのある水路がひかれているようだった。


 武器のある広い部屋の中心には、天井から伸びる鎖にエミリアが繋がれていた。

 彼女はぼろぼろと顔中から溢せる全ての液体を溢していた。

 赤いドレスが乱れ、暴れたのだろうか所々裂けて白い足がむき出しになっている。


 足は僅かに地面についている程度で、手錠に繋がれた手で体重が支えられ、手首には赤い筋がつき薄く血が滴っていた。


 ぼろぼろになって恐怖に震えていた。

 ルカ様は私の隣に眠っていたままの姿で、エミリアの前に立っている。


 蝋燭の灯りに黒い髪が照らされるのが、場違いに綺麗だと思った。


「ルカ様!」


「……あぁ、マリィ。起きてしまったんだね。……女が騒ぐから、眠れなかったんだね。ごめんね?」


 ルカ様は振り返り、いつもの優しい口調でそう言った。

 感情の失せたような瞳が、私を見る。

 私はルカ様の右手を自分の両手で握りしめた。


「ルカ様、どうしてこんなことを……?」


「マリィ。人間というのはね、血と骨と肉でできているんだよ。血と肉は、腐る。一度腐ってしまえば、元に戻ることはない」


 ルカ様は動揺をしていないようだった。

 私に見られることを予想していたのか、それとも見られても何も感じないのか、どちらなのかは私にはよくわからなかった。


「だからね、マリィ。一度君を傷つけた人間には、相応の罰を与えなければ、もう一度繰り返す。腐った頭では考えることができないんだ。それがどれ程君を傷つけたのか――俺を、不快にさせたのか」


「マリスフルーレ! お前がルカ様を狂わせたのね! お前がルカ様に頼んで、私をこんな目に……!」


 エミリアが私を睨みつけて叫んだ。

 ルカ様は徐に、懐からナイフを取り出してエミリアに向かって投げた。

 それは彼女の頬を浅く傷つけて、金の髪の束を一房切り落とし、すとんと壁に突き刺さる。


「いやあああああっ! 助けて! 助けて……ッ!」


 エミリアの悲鳴が再び地下室へと響いた。


「うるさいよ。俺はマリィと話をしているんだから、黙っていてくれないか。あまりうるさいと、先刻の男のように、口を縫い付けるよ」


 冷めた声音でルカ様が言う。


「マリィ、怖いでしょう。部屋に戻って、眠って。明日になれば、いつもと同じ日常に戻る。これはただの、悪い夢。夢が覚めたら君を傷つけた愚か者が、王国から二人いなくなる。それだけだよ」


 震える私を宥めるような、優しい声音だ。

 ルカ様の中に、二人人間がいるように感じられる。

 けれどどちらもルカ様だ。私の愛しい――ルカ様。


「ルカ様、……私、気付いていました。吸血伯という呼び名が、偽りではないこと。私は、昔の私は、ミュンデロット家の屋根裏部屋で何度も思いました。吸血伯が、私の命を奪って――安らかな死を与えてくれないかと」


「辛い思いをしたんだね。……もう、大丈夫。俺が君を守るよ」


 ルカ様は私の頬を撫でる。

 それからそっと、額に口づけた。


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