第39話 怒り
私は憤りを隠さずに――女を睨みつける。
女は臆したように一歩後ろに下がり、それからきつく新聞を握りしめると、声を張り上げた。
「足を開くことだけが得意な娼婦と話しているだけで気分が悪くなる! 二度と私の街を歩くんじゃないわよ!」
「……エミリア様!」
小麦粉を抱えた鈴音が、騒ぎに気付いたのだろう、慌てたように店から出てきた。
それから、私の前に私を庇うようにして立った。
「エミリア様、マリスフルーレ様に何の用ですか?」
「使用人の分際で私に話しかけるんじゃないわよ、東国人。あなたたち東国人は、ルカ様とハワードお父様の慈悲があるから、この街に住まわせてあげているのだからね! 美しき水の都ワーテルに、あなたたちのような蛮族が入り込むのは嫌なのに、我慢してあげているのだから感謝なさい!」
エミリアという名前の女は、鈴音に見下すような視線を送った。
鈴音は青ざめている。それでも、私を庇うようにして、エミリアを毅然とした表情で見据えている。
その手が、小さく震えているのに気付いた。
鈴音が――傷つけられた。
自分が貶められた時よりもずっと――深く激しい憎しみにも似た怒りが湧き上がってくるのを感じた。
「……あなたは首長の娘、ですね。ハワード・エンリケはワーテルの首長。あなたはその娘」
私は鈴音の前に出ると、口を開く。
鈴音が驚いたように目を見開き、私の腕を軽く掴んだ。
私は大丈夫だと、小さく頷いた。
「そうよ。いずれは私が首長を継ぐ。ワーテルの街は、私の物になるわ」
ゼスティア領はルカ様のものだけれど、それぞれの街には街の代表――首長がいて、街の管理をしている。
ワーテルの首長は、ハワード・エンリケ。
エミリアはハワードをお父様と呼んだ。首長の娘なのに――こんなに人の多い通りで、大声で東国の方々を貶めるようなことを言うなんて、鈴音を傷つけるなんて。
それはルカ様に対する侮辱と一緒だ。
私はすっと息を吸い込んで、大仰な仕草で溜息をつくと悲し気に首を振った。
「身分のある方がそのような差別主義者では、ルカ様もさぞご苦労なさっているのでしょうね。――私のような貧弱な体の女に癒しを求める程に、疲れているのでしょう」
私は弧を描くように、唇を吊り上げる。
「ルカ様、お可哀想だわ。ルカ様は鈴音や楼蘭に、東国の方に平等に接していますし、寝室の天蓋は美しい東国の織物が。華麗な蝶と、魚の絵柄がありますもの」
私とルカ様には、共に眠る事はあってもそれ以上の触れ合いはない。
けれど私はできるだけ淫靡に聞こえる様な言葉を選び、声音を使った。
エミリアの顔が怒りと羞恥からか、真っ赤に染まるのをじっと見つめる。
「あなたのような考え方の人と関わるのが嫌だから、お城に籠っているのでしょう。あなたのような方を、街の病巣と呼ぶのでしたかしら。病巣は、自分では病巣だとは気づかないもの。体を蝕むように、街を蝕んでいくのでしょうね」
「黙りなさい、娼婦! 覚えて居なさい、お父様にお願いして必ずあなたを追い出してやるわ!」
金切り声をあげて怒鳴り散らすと、エミリアは逃げるように馬車に乗り込んだ。
青い顔をした鈴音、私に縋るようにして抱き着いてくる。
「ごめんなさい、マリィ様……必ず守ると誓ったのに、私……!」
「大丈夫です、鈴。あれぐらいの言葉なら、慣れていますから」
「マリィ様……」
「少しは、格好がついたでしょうか。これでも私は、元公爵令嬢ですから」
私は安心させてあげたくて、鈴音の背中に手を回した。
ミュンデロット家の屋根裏部屋で寒さをしのぐものもなく、震えながら過ごす夜に比べたら、エミリアの言葉なんて気にするようなものでもない。
それよりも、鈴音の心についただろう傷を思うと、それがとても痛かった。
鈴音は私をきつく抱きしめると「マリィ様、守ってくれてありがとう」と小さな声で言った。
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